<完結>音のないプロポーズ

神屋 青灯

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音のないプロポーズ 05

 
 タクシーなど滅多に乗らないが、「釣りはいいから」とテレビで聞くようなセリフを言ったのも初めてだった。

 傘を開く隙も惜しんで、救急用の入り口に駆ける。薄手のシャツを通して、雨粒が体を叩いた。
 ハル。この雨は、きっとハルの身体をも打ったのだ。ハル、無事でいてくれ。恐怖がこみ上げる勢いすら追い越して、一刻も早く顔を見たい衝動に駆られていく。
 廊下を走るスニーカーの音に気付いたのかもしれない。手術室の前に着いた時、斗南が立ちあがって氷影を待っていた。

「影ちゃん…!」
 耐えきれなくなったように、斗南が抱きつく。受け止めると、斗南の髪も雨に濡れていた。処置中の赤いランプが点いている。まだ何もわからないまま、ここで回復を祈っていたことがわかる。
「容体、は…?」
 それでも訊かずにはいられなかった。だが、斗南は首を横に振るだけで、答えない。それが、わからないという意味なのか、或いは違うのか。測り兼ねる氷影に、男性の声が返ってきた。春直の父、直永なおながだった。
「なんともわからんのです。何も教えてくれなくてね。ただ…最初に来た時には、最悪の場合も有り得るとかなんとか…。外、雨でしょう。出血が多いとかで…。でも、あれですよ。ほら、今は訴訟とかが多いから。保険で言っただけですよ…ねえ、そうだよな、母さん」
 直永が同意を求めると、妻の佳之よしのがわっと泣き出した。つられるように、斗南も氷影の服を強く掴む。だが、声は殺していた。両親の辛さを思って、聞かせられないと思ったのだろう。
「土曜なのに申し訳ないね。息子が世話になって……。仲良くしてくれていると、聞いているよ。そうだ、一度ね、家に――」
 直永は再び話し出し、だが言葉に詰まって俯いてしまった。春直が実家に呼んでくれようとしていたのかもしれない。
 氷影も何か一言でも、と返そうとしたが、目の前の三人に掛けられる言葉が見つけられず、せめて、斗南の肩を強く抱いた。


 それから沈黙の時間がどれだけ過ぎたのかわからない。直永は床の小さな傷を茫然と眺め、佳之はハンカチに顔を埋めたまま動かなかった。斗南も同じだ。氷影の下に目を伏したまま、手術室を見ようとはしなかった。
 現実を直視する勇気はなかった。
 氷影だけは、ずっと赤いランプを見ていた。見てはいたが、何も考えられずにただ目に入れていた。斗南を支えるように肩を抱いていたものの、そうして彼女の体温と動悸を感じることで、どうにか理性を保っていたのは氷影も一緒だった。

 ふっとランプが消えた。
 その瞬間を見ていたのは氷影だけのはずなのに、音のない合図に全員が同時に顔を上げた。息を吸うことすら忘れ、扉をこじ開けたい衝動を抑えつけながら、長すぎる一秒を刻む。
 誰かが中へと駆け込むのではないか。それほど焦れた空間の中へ、医師はやっと現れた。
「先生! 春直は、春直は!」
 佳之が真っ先に金切り声で飛びついた。
 どうか。どうか無事だと言ってくれ。もう大丈夫だと、心配はいらないと。
「処置はすべて終わりました」
 医師はあえて遠回りを選んだ。嫌な予感が伝わる。まさか、全力は尽くしましたとでも言うつもりか。許さない。ハルを救わないことは僕が許さない。氷影の拳に知らずと力が入る。
「命は、ひとまず大丈夫だと言って良いでしょう」
「えっ」
 だが、医師は意外にも、四人の最も聞きたかった言葉を言った。誰もが身構え、沸騰しそうだった頭に投げ込まれた一言に、一瞬反応が遅れる。それから、最初に相好を崩したのは斗南だった。
「春ちゃん…! よかった、よかったあ…!」
 今度こそ堪えきれなかったのか、斗南は氷影に再び抱き着き、泣きじゃくるように声をあげた。佳之がくらりと倒れそうになり、直永が抱き止める。それから佳之も泣いた。直永も何度も頷きながら、安堵を噛み締めていた。
 だが、氷影だけはそうは思えなかった。
「命は、って、どういう意味ですか…」
 喜んでいる三人を前にして、家族でもない氷影が聞くのは申し訳なかったが、黙っていられなかった。含みを持たせる表現には、何か別の意味が隠れている。
 それを問いたださずに、安心できるわけはなかった。

 責めるような氷影の気迫に気圧され、医師がこほんと咳をする。三人の安堵がさっと引いた。



 (つづく)
 
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