<完結>音のないプロポーズ

神屋 青灯

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音のないプロポーズ 08

 
「静かなところに行こう。それで、少しでも何か口に入れよう」

 斗南は乗り気ではなさそうだったが、頷いた。やはり一人になるのは怖かったのだと思う。それから、か細い声でやっとしゃべった。
「でも、影ちゃん、帰らなくて大丈夫?」
「平気だよ。ホッシーと話もしたいし。どこがいいかな。食欲…は、ないよね」
 斗南はまた小さく返事をした。

 この辺りは近所ではあるが、普段来ている場所じゃないから土地勘がない。適当に歩いてファミレスを見つけた。覗くと客が少なかったため、二人はそこへ入った。
 食事時のつもりでいたが、午後八時をまわると、客足は引くようだ。あるいは単純に流行っていないのかもしれないが、とにかく奥の席を選ぶと、周りは誰もいなかった。流れているメロディも静かなもので、落ち着いて話ができる。ホールに出てくる店員も一人だけだった。
 冷めてからでも食べられそうなメニューを適当に注文し、とにかくお茶だけでもと一口飲ませる。斗南は大人しく従ったが、佳之だったらお茶もまだ飲めないかもしれないと氷影は思った。かくいう自分も食欲があるわけではない。ただ、どうしても斗南には食べさせたかった。このまま斗南にまで倒れられるわけにはいかない。
「ハルが起きたとき、ホッシーがそんなだったら、僕怒られちゃうよ」
 在り来たりだとは思ったがそう言うと、斗南はやっと少し笑って、パンの端をかじった。今はこれだけでもいい。氷影はほっとすると、ぬるいコーヒーを啜った。

 ホットコーヒー、アイスコーヒー、コーラ、メロンソーダ、オレンジジュース……。今この店のドリンクバーに興味など微塵も持ってはいないのに、氷影の目はメニューの羅列を延々と追っている。どの単語も頭には入らず、しばらくするとまたホット、アイス……と列挙が始まる。立てられた三角のメニューを回転させることすらしないまま、どれだけ飲んでも三五〇円の文字を何度も認識したが、その知識を役立てる日は来ないだろう。
 未だに、親友が事故に巻き込まれたという事実が信じられずにいる。自分には痛みもケガもなく、このファミレスにもそんな空気は微塵も漂ってはいない。悪い夢なんてよく言うが、目を覚ませば日々の喧騒であっという間に忘却できるくらい、一瞬の記憶に思えた。そして忘れてさえしまえば見なかったのと同じになる。深入りせず別の思念に没頭すれば、こんな事実はただの幻と消えていったり、しないのだろうか。
「心臓発作だった……」
 三十分以上続いた沈黙の後、斗南からぽつりと落とされたのはそんな言葉だった。やっぱり、これは幻なんかじゃないのか。氷影は意識を立て直し、斗南の声に耳を傾ける。
「…お父さんのこと、考えてる?」
 心臓発作という単語を聞いた時、氷影でも最初に斗南の父を連想した。亡くなったのは十五年も前だそうだ。
 斗南がハンカチを握りしめて泣いていた。黙っていただけで、氷影がこの現実を何とか偽りにしようともがいていた間、斗南はずっと涙を流し続けていたことに気付く。
「春ちゃん、死んじゃったらどうしよう……。また心臓発作が、今度は春ちゃんを……」
「ホッシー。そんなこと言うな。ハルは大丈夫だよ。ハルは……今きっと、薬が効きすぎてるだけで、ちゃんと明日には起きるんだから」
「でも……私のせいだよ。春ちゃん、送ってくれようとしてたの。私が断ったりしなかったら、巻き込まれたりなんか……!」
 氷影の胸がズキンと痛む。それを言うなら、昨夜飲みに誘ったのは氷影だ。あるいはメッセージのやり取りの時、斗南を追えと、もっと強く言っていたら違っていたかもしれない。春直の隣で、氷影は何度もそのことを考えた。
 人に言えば、きっとあなたのせいではない、と言われるだろう。けれど、もう一本早いバスにしていれば。あと一分立ち話をしていれば。氷影があと一通メッセージを送っていたら。斗南が終バスぎりぎりまで粘ろうなんて言わなければ。あの瞬間、あの場所にさえいなければよかった。そうなる未来は数えきれないほどあって、救えたかもしれない道が、氷影にも斗南にも確かに存在した。助けてあげられる道があったのに、選ばなかったことを、選ばせなかったことを、後悔せずにいられるわけがない。
「春ちゃん…、どんなに痛かっただろう……。怖かったのかな……。私、春ちゃんになんて謝っていいのかわからないよ……」
 斗南の肩に触れようと、伸ばした氷影の手が震える。本当に。本当に大丈夫なのか。こんなところにいていいのか。もしも、万が一最悪のことがあった時、ここにいたら春直の手は握れない。ばかなこと言うな。ふざけたこと考えるな。大丈夫に決まってる。自分の中で繰り返される押し問答は、自身をますます不安へと駆り立てる。
 結局、机の上で斗南と手を重ねた。彼女を励ますためなのか、あるいは自分の方が縋ってした行為なのか。わからないが、斗南の手は温かかった。それだけでほっとした。きっと斗南も、同じことを感じた気がする。
 少なくとも、斗南は生きている。氷影は無事である。それを確かめ合うことで、春直もきっと助かると信じる勇気になった。春直の手も温かかった。必死に戦っているからだ。
 必ず打ち勝って、彼は帰ってくる。今は待つことしかできないけど、だからこそ全身全霊で待っていよう。決意を固めて、斗南はやっと涙を拭った。



 (つづく)
 
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