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音のないプロポーズ 35
氷影にメッセージを入れたが、今夜、春直のところで一緒に話す、という返事しかもらえなかった。
午後の仕事など手に付くはずもない。
だが氷影とはフロアも違うし、一言で聞ける話題でもないだろう。待つより他になかった。
なのに、少しの残業の後、やっと仕事が終わったかと思えば、氷影は外回りが遅くなったから先に行っていてくれと言う。やきもきしながら片付けをする。
春直はこの事を知っているのだろうか。どうして何も相談してくれなかったのだろう。それほどの何かが氷影に起きたのだろうか。
悶々としながら書類を束ねていると、桃ノ木から声が掛かった。
「比野くん、少しだけ、いいかな?」
ドキッとした。氷影のことだろうかと思ったのだ。直属の部下でないとはいえ、届のことを知れば気に掛けて不思議はない。あれほど知りたがったくせに、氷影の口より先に退職の理由などが語られるのかと思うと、少し怖くなった。
「何でしょうか…」
「実崎くんの調子はどうかな。体調や、他にも気分が落ち込んでいたりとか、最近の様子が知りたくて」
どうやら氷影のことはまだ知らないようだった。斗南はほっとして、春直のことを考える。
「痛みはだいぶ減ったように言っていました。気持ちも安定しているようですが…でも、気を遣ってそう振舞っているだけかもしれません。やっぱり、怪我のことを気に病んでいると思います」
素直に話すと、相談のようになってしまった。簡単に割り切れるはずもないが、春直の気を少しでも楽にしてあげたい。だが、そのためにどうしたらいいのか、斗南にはわからないでいた。
「そうか。僕の前でも、気さくに笑ったりするんだけどね。やはり、無理しているよね…」
桃ノ木も時間を見つけては顔を出していることを、斗南は知っている。今時、いい上司だと直永が喜んでいた。
桃ノ木はカレンダーに目を向けた。
「夏の決算に向けて、人手が欲しくてね。実崎くんに在宅で経理の処理をしてもらえたらと思ったんだが、私から言うと、無理してでも引き受けてしまうと思うんだ。悪いんだが、比野くん。頃合いを見て、やれそうかどうか、一度訊いてみてもらえないかな」
何しろ、二人きりの経理課だ。桃ノ木が自分の業務の合間に手伝うにも限界があった。と言って、新しい人間を入れても、社風に馴染む時間が掛かる。何より、春直が戻りにくくなることを懸念した。
「もちろん、体調に負担が掛からないよう、出来るだけの配慮はする。しんどいようだったら断ってくれても構わない。ただ、やっていた仕事をすることで、元の生活に少しでも近づくことになれば、多少は気分転換にもなるんじゃないかと思うんだ」
「私も、良いと思います」
斗南は意気込んで答えた。春直がまた仕事をする。何だか、無性に嬉しくなってくる。
「実崎に話してみます。ちょっとくらい怖気づいていても、やるように追い立てます!」
「ははは。頼もしいな。でも、程々にしてやれよ?」
桃ノ木は笑った。
若い人のノリは面白い。新入の頃に面倒を見た時も、三人の会話に何度も笑わされた。
「そういえば、今日、扇雅さんは早いんですね」
斗南が何気なく春直の席に目をやると、隣席の扇雅は既に帰っているようだった。長く残業する方ではないが、定時上がりも珍しい。すると桃ノ木が、ああ、と言った。
「彼は今日、実崎くんのお見舞いに行くと言って先に帰ったよ」
瞬間、斗南の顔が凍る。えっ、と漏れた声は音にならなかった。
「比野くんも行くだろ? 向こうで会うかもしれないな」
もう一度振り返って席を見た。扇雅が春直の所へ向かった? あれだけ馬鹿にしていたのに、何しに――それも、一人で。斗南の脳裏に、嫌な予測が生まれる。
「さっきの話を、扇雅くんに頼もうかなとも思ったんだが、彼だと先輩だろう、やっぱり断りにくい…」
「すみません! 私、すぐに出ますっ」
驚く桃ノ木に礼をすると、斗南はカバンを引っ掴んだ。小走りに階段を抜け、外に飛び出す。当然、扇雅はいなかった。斗南を待つでもなく、やはり一人で春直のところへ行ったのだろう。
氷影に居場所を訊くと、まだしばらくは来られないそうだ。続けて春直に連絡する。扇雅が行くかもしれない、と書いたが、「既読」が付かない。斗南は駅まで駆けた。
扇雅が何をするつもりかはわからない。ふつうに見舞いなのかもしれない。だが、先日の様子を見ると、胸がざわついた。少なくとも春直に良いことをしてくれるわけではない気がする。二人きりにはしたくなかった。
何度もスマホを見たが、やはり春直はメッセージを読んでいないようだった。午後六時半を回っている。直永たちは帰ってしまっているだろう。
――早く。早く、早く!
地下鉄の壁を何度も指先で突いた。春直に会いたい――。斗南の焦燥など知るはずもなく、電車はひとつずつ駅で停車していく。
(つづく)
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