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音のないプロポーズ 36

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 その少し前、春直は佳之から受け取った指輪の小箱を眺めていた。

 昨日、結婚をやめるよう言われてから、もう一度よく考えるために持ってきてほしいと頼んだのだ。
 約一ヶ月ぶりに見る箱は、傷も汚れもなくきれいなままだった。毎晩これを見ながら色々考えたんだな、と思い出す。懐かしくて、幸せな思い出だった。

 よく、本当に楽しい瞬間は過程にあると言う。もうすぐ目標が叶うとか、いよいよ明日旅行に行くとか、そういう楽しみを抱いている時が、案外本題以上に心を弾ませることもあるということだ。
 これも、同じかなと思っていた。
 伝える言葉を考え、ダメだった時にそわそわしながら、でももしもオーケーがもらえたらどれほど幸せか。そんなことを自分の中だけで思い描くうちは、答えは出ない。ダメだとは言われない。虹色の未来だけを幾度でも夢見られるのだ。手が届くかどうかギリギリのところにある幸せが、離れずずっと傍にある。
 佳之の言うことはやっぱり正しかった。

 佳之が想ってくれたように、春直も斗南に幸せになってほしいと願っている。でもそのために、自分は役には立てない。斗南と結婚するということは、春直だけが幸せになることで、斗南を犠牲にすることだ。そして、そんな斗南を見ていても、春直は本当の意味では幸せにはなれないのだろう。
 したくない決断だった。でも、正しい選択だとも思った。已むを得ないことなのだ。
 いつか、斗南が幸せを掴む日を応援しよう。それは、想像するだけで胸が張り裂けそうなくらい苦しい日になる。でも笑っておめでとうを言うのだ。これからこの指輪は、その決意を共に貫くためのパートナーになってもらおう。
――好き。
 スケッチブックを取り、書いてみた。不格好な文字だ。元々字が上手くないし、これでは想いが伝わりそうもない。せめて手紙にできれば恋文になるのかもしれないが、文はもっと下手で、たぶん書き上げることも叶わないだろう。といって、メールで言うのもぴんと来ない。あれは整った字にはしてくれるけど、誰が書いても同じ物になる。
 だから、ほら――。
 春直は自分に語りかけた。元々、告白自体がもうできないのだ。悟して、突き付けて、寄り添った。心の声も、渋々承諾しようとしている。
 窓を見た。外はまだ明るい。今、斗南はどうしてるかな。今日も来てくれるのだろうか。いつまで、を考えてはいけない。自分は負担を掛けているのだ。来てもらえるだけで感謝しなきゃ。だから、一日一日を噛み締めたい。
 早く、会いたいな――。

 そう思った時、ドアをノックする音がした。反射的に顔が向く。だが、時間が早い、斗南じゃないだろう。直永か佳之かもしれない。或いは看護師だろうか。春直は応答の意味のノックを返した。
 ガラッと強い音でドアが開く。誰だろう…? 春直は訪問者を見ようと体を起こした。
 そして視界に飛び込んできたのは、扇雅だった。
「よう。来てやったぜ」
 春直は目を見張った。思わず背後を見る。だが、後に続く影はない。
「おいおい、せっかく来たのに、誰を捜してるんだ? 俺一人だよ」
 扉が重さの仕組みで閉まった。斗南はいない。春直の背を冷たい汗が伝う。扇雅は自分の鞄を空いた椅子に放ると、また室内を物色し始めた。
 何の用かと訊くこともできず、扇雅がロッカーや冷蔵庫を漁っていくのを見るしかできない。
 春直はパニックになっていた。どうして扇雅が来たのだろうか。斗南は、氷影は? 何が起きているのかもわからず、だが泳いだ視界に小箱が飛び込んだ。これを見られるわけにはいかない。慌てて布団の中に隠し、スケッチブックを裏返した。
「相変わらず安いモンしかねえなあ。何だ、このまずそうな菓子は」
 扇雅はわざわざ手に取り、それから冷蔵庫に投げ戻した。氷影が春直の好物と知っていて、買ってきてくれた物だ。
 春直は唇を噛んだ。
「そうそう。大事な報告があって来たんだよ」
 佳之が整えてくれた着替えを荒らしてから、扇雅は春直の元へ来た。



 (つづく)
 
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