上 下
37 / 61

音のないプロポーズ 37

しおりを挟む
 
「大事な報告があって来たんだよ」

 佳之が整えてくれた着替えを荒らしてから、扇雅は春直の元へ来た。
 警戒した視線になる。
 扇雅はにやにやと嫌な笑みを浮かべていた。
「仕事のことだ。桃ノ木課長な、やっと新しい人を入れてくれるってよ。そりゃそうだ、このクソ忙しい時に、いつ戻るかもわかんねえ怪我人を待つだなんて、会社がすることじゃねえわな」
 扇雅が春直の顔色を覗き込む。無意識に目が逸れた。
 致し方のないことだ、わかっていた…つもりだった。だが、ショックを隠し切れず視線が逃げる。扇雅はそれに気を良くし、トドメのように口を開いた。
「てことで、お前の戻る場所は、もうねえから」
 言うと同時に手を伸ばし、春直が抱えていたスケッチブックを奪い取った。
 遅れて取り返そうとするが、ベッドから一歩離れられただけでもう腕が届かない。裏返したのをしっかり見ていた扇雅は、春直が隠そうとした二文字を呆気なく暴いた。
「好き? なんだこりゃあ。おい、これ、まさかプロポーズか?」
 言葉に詰まり、顔を背けた。扇雅がページを捲っていくが、せめてもの幸いというべきか、見られて困るのはそこだけだ。扇雅は元のページへ戻すと、それを春直の目の前で突き立てた。
「誰に見せるつもりだったんだよ。まさか、比野か?」
 自らの字を直視できず、視線を更に逃がす。だが扇雅は追求をやめない。
「こんなので女が喜ぶと思ってるのか? 言ってみろよ。比野に見せて告白するつもりだったんだろう」
 必死に首を横に振った。違う。そんなことしない。そんな惨めなことできない。だからやめるつもりなんだ。ぶつけたいのに届かない。言葉を知らない幼子のように、ただ身振りでいやいやをするしか出来ない自分が、どうしようもなく滑稽になる。
 その隙を狙って、扇雅は布団の脇から小箱まで奪った。
「ほらほら、指輪まで買っちゃって」
 さすがに目の色が変わる。それは春直にとって大切な物だ。たとえ「婚約指輪」としての価値を失っても、それだけはけがされたくなかった。
 腕を伸ばした。扇雅は軽々とかわす。それでも諦めきれずに指輪を追った。
 瞬間、右足に激痛が走る。掛けてはいけない形で重さを乗せてしまった。痛みに息が荒くなる。生理的に涙が滲んだ目で扇雅を睨むと、あろうことか春直を見て嗤っていた。
 返してください! せめて、躍起になって叫ぶが、何の効果ももたらすことはない。扇雅は小箱を開き、中の指輪をまじまじと見つめた。
「これがお前の付けた比野の価値ってことか。くく、安物だな」
 言葉が、痛みさえ消すほどに春直の心を貫いた。安物…? 憤りが渦巻いて、春直に取り憑いていく。斗南の価値を、斗南への想いを、安く言われたのが我慢ならなかった。そこだけは今の春直でも胸を張って言える。斗南を誰よりも大切に想っている。愛している。春直は怒りのままに拳を振り上げた。
 ――だが、扇雅はどこまでも卑劣だった。
 痛みに耐えながらのぎこちない拳を、敢えて指輪を盾に受けた。春直の腕が、指輪を小箱ごと叩き落とす。箱が床に転がり、飛び出した指輪が棚の下へもぐり、何度か足踏む音を立てて、消えた。
「あーあ」
 絶望的な表情を浮かべた春直とは対照的に、扇雅は腹の底から笑った。取りに行こうとしても、右足のせいで体が言う事を聞かない。それでも諦めきれずに手を伸ばした矢先、扇雅が箱を蹴る。
 そして春直と肩を組み、耳元で声を浴びせた。
「それが正しい判断だよ」
 スケッチブックのページをにぎり、くしゃりと潰された。
「安心しろ。比野はこっちで、ちゃあんと幸せにしてやるよ」
 潰れた紙が胸元に放られる。
 扇雅は春直から離れ、ボロボロになった憎き部下を見下ろした。


 (つづく)
 
しおりを挟む

処理中です...