<完結>音のないプロポーズ

神屋 青灯

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音のないプロポーズ 38

 
 ――実崎春直が嫌いだ。

 初対面からずっとそう思っていたが、日に日に憎悪は増した。理由は簡単だ。
 彼女がいつも、実崎を見ているからだ。
 どんなに忙しかろうが、自分の体調が優れなかろうが、視界の中にいつも実崎を置いて気にかけている。比野なんてタイプでも何でもないのに、なぜかそういう態度を目にするたび、異常に心が荒れた。肩を掴んで強引にでも視線を変えさせたくなった。
 結構な年下で、本来なら射程圏外だったが、特別に結婚相手として許すことにした。こっちは学歴、ルックス、家柄と申し分ないはずだ。なのにあいつは食事にすら付き合わない。それなら無理にでもモノにしようと、親まで垂らし込んだのに、あいつはなびかなかった。それどころか、俺との結婚は考えられないとはっきり断ってきやがった。
 誇りを傷つけられ、比野斗南のことも嫌いになった。
 だがそれからしばらくして、実崎が同じ課の配属になる。良好な関係を続ける二人が一段と目につくようになった。無性に腹が立つ。実崎が辞めればいいと思って、何かと嫌がらせをした。けれど、その度にあいつが実崎を支える。
 憎い。こいつを叩きのめしたい。比野でも助け出せないほどの奈落の底まで突き落とし、二人は決別すればいいのだ。
 もっと知れ。絶望の味をたんと噛み締めろ。

「不自由な足だなあ。ここまでされても抵抗ひとつできねえか」
 扇雅の声が大きくなる。こみ上げる笑いが止まらない。
「そんな体で、よくもまあ自分に価値を見つけられるな。なあ、それ読んでみろよ。俺が聴いてやる。言ってみろよ、その滑稽な言葉を読め、さあ!」
 絶望しろ。苦しめ。ここから消えろ。俺と比野の前から消えろ――!
「今のお前なんて、所詮――!」

 扇雅の言葉が止んだ。
 同時に、鈍い音と衝撃があった。

 春直が顔をあげた時、目の前にいたのは、斗南だった――。
 泣いている。
 真っ先に思ったのはそれだった。どうしてかわからない。斗南が泣きながら、歯を食いしばって春直の前で立っていた。扇雅を睨み付け、両手でカバンを握っている。それで扇雅の頬を殴ったのだと、立ち上がった扇雅の仕草を見て初めて気づいた。
「おま…お前、先輩に何てことしやがる…!」
 扇雅は腫れた頬を押さえながら、途切れ途切れに叫んだ。斗南の息が荒い。呼吸の合間に無理やり捻じ込むようにしながら、斗南は扇雅に言い放つ。
「あんたなんか、先輩じゃない! 他人を傷付けて平気な人なんか先輩でも何でもない! 春ちゃんを傷つけることは、絶対許さない…!!」
 そんな風に声を荒げる斗南を、春直は見たことがなかった。扇雅と真正面から対峙する。身長差で影が被さる。斗南は少し震えた両手をぐっと握りしめた。
「今すぐ俺に謝れ。でないならこの先…っ」
「あんたが謝れ! 春ちゃんに謝れ! 謝れ!!」
 斗南は声の限り叫んでいた。騒動を不審に思い、廊下がざわついている。それをまずいと思ったか、扇雅は舌打ちして自分の鞄を掴んだ。
「比野、お前…明日、覚悟しておけよ…!」
「謝れ! 逃げるな、謝れッ!」
――ホッシー! いいから、ホッシー…!
 部屋を去る扇雅を追おうとした斗南に、今度は手が届いた。斗南が春直に振り返る。ぼろぼろと涙を流していた。
――ホッシー。…ありがとう。
 口だけでそう伝えると、斗南は限界が来たかのように崩れ落ちた。そのまま春直に抱き着く。その頭をそっと撫でると、斗南は更に泣いた。



 氷影が来たのは、その三十分ほど後だった。
 少しばかり散らかった部屋と、目を真っ赤に腫らした斗南、そしてこちらも目元に涙の痕が残る春直を見て、仰天したのは言うまでもない。何があったか把握するのに、随分時間が掛かった。
「あいつ、最低だよ。絶対ゆるさない」
 何しろ、斗南がこれしか言わない。あいつというのが扇雅なのはすぐにわかったが、主に何かされたのは春直の方で、斗南はむしろ手を出した方だったとは、夢にも思わなかった。
 春直は春直で、斗南に言えない会話があるのもあって、説明が要領を得ない。詳しい話は改めて聞くしかないとして、氷影は、今も息巻く斗南をなだめることに徹した。
――覚悟しておけとか言ってたけど、明日、大丈夫かな…。
 春直は扇雅の言葉を思い出し、不安な色を見せた。氷影も同意する。
「あいつは何するかわからないからな…。ホッシー、しばらくは、先に仕事が終わっても待っててよ。一緒に帰った方がいい」
 斗南は即座に抵抗した。
「平気だよ! そんなの気にして病院来るの遅くなったら、あいつの思うツボじゃない」
「いやいや、本当にだめだって。車にでも連れ込まれたらどうするの」
「でも……。そうしてるうちに、また春ちゃんの所に来るかもしれない。守ってるだけじゃ勝てないんだよ!」
「勝つとか負けるとかじゃないでしょ。ホッシーはほんとにもう……」
 氷影は溜め息をついた。斗南は根が頑固で、意地になるとテコでも動かない。実は、一人暮らしの話を聞いた時も、氷影は反対した。親と喧嘩別れになるのは好ましくないと思ったし、女性の一人暮らしは不安だった。せっかく親が近くに住んでいるのだから、わざわざ別で暮らしてリスクを負うことはない。だが我慢が限界に来ていた斗南はそれに従えなかった。結果、どちらの判断が最適だったのかは、今もわからないままだが。
――ホッシー。俺は大丈夫だから、カゲと一緒にいて。
 春直が手を合わせた。扇雅の狙いは、斗南との良好な関係と結婚のはずだ。どんなにここへ来ようと、口での攻撃には限界がある。自分が耐えればいい。斗南が取り返しのつかない何かをされるより、ずっといい。
――安物だな。
――そんな体で、よくもまあ。
――今のお前なんて、所詮……!
 …いい。扇雅の言ってることは事実なんだ。言い聞かせるのに、胸が苦しくなる。ダメだ。今暗い顔をしたら、また二人に心配を掛ける――。

 その時、春直の右足に、また激痛が走った。


 (つづく)
 
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