<完結>音のないプロポーズ

神屋 青灯

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音のないプロポーズ 40

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 退職願を出した翌日に、遅刻の電話を入れたので、上司には大丈夫なのかと何度も心配された。
 理由を一身上の都合としか告げなかったせいか、氷影本人か、或いは身内が体調を崩したものだと受け取ったようだ。春直の病室に寄って指輪を捜していくとは言えず、今日は頭が痛いが退職とは無関係ですと少し嘘をつかせてもらった。
 社員規模百人程度の会社で、大体が同じ時刻に出社するから、普段は入口でたくさんの人と挨拶を交わすのがお決まりだが、始業時刻を過ぎた今日はさすがに静かなものだ。重役出勤だ、などと冗談を思いながら四階まで上がる。すると、社内は何やら、いつもよりざわついていた。
「おお。如月、聞いたか?」
 何かあったの、と訊くより先に、同僚が寄って来た。
「総務の比野、なんかやばい噂が流れてるぞ」
 そのわりに声が弾み、顔がほころんでいる。氷影はカバンを下ろしながら眉をひそめた。
「やばいってどんな?」
「経理に扇雅さんっているだろ。どうも比野と婚約してたらしいんだけど、比野の方が同じ経理の実崎と浮気してたらしいぜ」
「はあ?」
 思わず声が大きくなった。何だ、その作り話は。事実無根もはなはだしい。
「デマだろ。何、真に受けてんだよ」
「いやいや。結構マジらしいぜ。もう互いの両親にも挨拶済ましてて、式場と日取りまで決まってるんだとか。けど念のためにって扇雅さんの両親が調べたら、浮気が発覚したんだってよ」
 これが扇雅の言う「明日覚悟しておけ」ってことか。何て古典的な。氷影は心で毒づいた。
「あのさあ、そんな安い噂に飛びつくなよ。ひととなりとか見てたらわかるだろ。お前、そういうの他人に言いふらすなよ」
「言いふらすなっつったって、もう社内中の噂になってるぜ。周り見てみろよ」
 言われて目を走らせた。改めて見ると、騒がしさの影に、何か感じの悪い笑みや蔑みが見え隠れしている。氷影は少しばかり動揺した。
「そんなに噂になってるの」
「そりゃあお前、会社の規模考えてみろよ。社内恋愛の話なんかあっという間に広がるさ。ん? そういえば、お前って比野と同期じゃなかった? うわ、ちょっと何か知らねえの? なあなあ」
 それが聞こえたのか、周囲に人が集まってきた。どいつも口に嗤いを含んでいる。それも、粘着質な嗤いだ。
「そういえば比野って、いつもお茶汲み、率先してやってたよな」
「ああ、そうそう。ニコニコしながら配り歩いてた。うわ、あれって色気振りまいてたってこと?」
「やっべー! 俺、前に上司に叱られた時、あいつになぐさめられたわ。あのまま親しくなってたら、扇雅さん敵に回してたってことかよ。こえぇ」
「おい、そんな言い方ないだろ!」
 氷影が声を上げるが、誰も聞く耳を持たない。
「お前ら、自分でお茶淹れるのが面倒だからって、部下でもないのに呼びつけて用意させてたくせに、今更その言い草は何なんだよ! お前なんか他の女子社員は誰も口利いてくれないってホッシーに甘えてたじゃないか」
「だから、そういう手だったってことだろ」
「なあ。最低だよなあ」
 男どもは言いたい放題だ。日頃外出が多くて、社内業務とは一番接点が薄いと言われる営業課でこれでは、斗南のいるフロアはどうなっているのだろう。仲良くしている女子社員たちは、斗南をかばってくれるのだろうか。
 不安に駆られたが、今出て行けばもっとややこしくなる可能性もある。とにかくメールを入れた。今は女性同士が味方についてくれるのを祈るしかない。


 総務のある三階は、一見すると普段通りだった。
 斗南本人がいるせいか、表立って噂をする人間はいない。だが、空気はろこつに斗南を浮かせていた。
「あれ? 比野さーん、今日のお茶汲み、まだ?」
 一人の男性社員が言った。はい、と応じて全員に配る。だが、誰一人目も合わせてはくれない。配らせておいて、結局手を付ける人間も誰もいなかった。
 扇雅は欠勤している。高熱を出したそうだ。嘘に決まってる。斗南は思ったが、言っても信じてもらえるわけがない。
「扇雅さん、可哀相にな。あの人、仕事ではタフだけど、心は傷つきやすいんだなあ」
 あんな男なのに予想外に人望に厚く、皆が扇雅の味方だった。
 それでもこのくらいはまだ良かった。斗南が手を上げたのは事実だし、これが扇雅の復讐ならそれでいい。黙っていれば、そのうちみんな忘れるだろう。この時点ではまだそう思えていた。
「比野さん、二階に書類のコピー持ってきてって」
 内線を継がれ、斗南は応じた。わざわざ名指しということは、どうせまた嫌がらせなのだろうが、雑用も総務の仕事だ。多少何か言われるくらいは覚悟しつつ、百枚程度の紙の束を抱えて、二階の会議室へ向かった。
「ああ、これ? 今日いらないのに」
 案の定というべきか、呼んだのは手違いだったという体で無駄骨を折らされた。そうですか、とさほど気にする風もなくきびすを返す。こんなところで気を悪くしても何にもならない。
 だが、それが相手には面白くなかったようだ。
「ところで、どっちから垂らし込んだの」
 背に向けて言われた。無視しろ。そう思って去るつもりだった。
「実崎もやるよねえ。事故で入院してるって聞いてたけど、それをダシに女引きずり込むたあなあ」
 斗南の足が止まった。こいつは何を言ってるんだ?
「片足も、失くしてみるもんだねえ」

 瞬間、百の紙が宙を舞った。



 (つづく)
 
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