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音のないプロポーズ 44

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「その人と結婚したら、私も幸せになれるのかな」

 動画の男性を思い浮かべて訊いた。気品が良く、いかにも成功者になれそうな、他人・・の玉井彬良を。
「当然よ」
 晶子はまた、きっぱり言った。
「本当に好きになれるか、不安なんでしょう。でもそんなのは今だけよ。お母さんだって、正倫さんとは式の下見で初めて顔を合わせたけど、一緒に暮らし始めたらあっという間に好きになったわ。心配いらない」
 斗南は頷いた。今度は少し心が動いた。そういうのもありかな、と思い始めている。潮時、という言葉も浮かんでいた。
「玉井さんとは、お母さんもう会ってみたけど、優しい方だったわよ。あんた、昔から優しい人がいいって言ってたでしょう」
「そうだったね」
 斗南はゆっくり目を閉じた。女子社員たちも揃って評価した玉井彬良。その女子たちは、今頃斗南抜きで昼食中だろうか。自分のことが話題に上っているに違いない。何を話しているか、考えると体が震えた。玉井彬良との結婚は逃げ道になるだろう。そして、晶子の言う通りなら、それが幸せにも通じている。職場で弾かれた自分に、仕事以外の幸せが示されたのだ。
「ちゃんと考えるよ」
 斗南が肯定的に言ったので、晶子は少し驚いていたが、それ以上は訊かなかった。
 
 電話を切ると、また過ぎない時間が帰ってきた。
 ずいぶん長く話したと思ったのに、最後に通話時間を見たらたった十二分で驚愕した。疲労感だけなら、一時間以上は確実に超えている。
 することもないし、疲れたし、もういっそ昼寝でもしようか。夕方には春直のところへ行きたいけど、まだ相当時間がある。それとも今日行くこと自体が、心配を掛ける結果を生むだろうか。このまま目を閉じて、朝までタイムスリップしたい。温情措置の早退がこんなに堪えているなんて、桃ノ木も予想しないだろう。
 ベッドに身体を放り出したその時、スマホにメッセージが来た。春直からだ。
 無気力な屍状態が嘘のように飛び起きる。一体何を待っているというのか、期待し過ぎというものだ。けれど、やっぱり春直と話したかった。だが。
――ホッシー。会いたい。
 メッセージの内容は斗南の期待なんかをはるかに超えていた。氷影に何か聞いたのだろか。いや、それでも、こんな文面は珍しい。斗南は瞬く間に身支度を終え、家を飛び出した。
 会いたい。そんな風に言ってもらえたことが嬉しくてたまらなかった。私も会いたい。春ちゃんと話したい。すぐ行くとメールした。言葉通り、斗南は最速で病院に駆け込んでいた。

「春ちゃん!」
 春直は笑って出迎えてくれた。毎日会っているはずなのに、顔を見るとこんなにもほっとするのが不思議だった。ずっとそうだ。春直に会うと安心する。ここにいていいと言ってくれているようで、落ち込んだ時も何かを聞いて欲しい時も、全てを受け入れてくれる寛容のようなものが彼にはあった。
「…えへへ。会社、追い出されちゃった」
 斗南は隠すのをやめた。嘘を吐くより本当のことを話す方が、春直を不安にさせないと思った。いや、隠しきれないと白状した、という方が正しいかもしれない。春直は手を伸ばして、斗南を近くに招いた。
――大丈夫?
 訊くと、斗南は頷いた。頷いてから、俯いて動けなくなる。泣くのはダメだ。心配を掛ける。春直が責任を感じるかもしれない。堪えようとしていた時、春直がそっと頭を撫でた。
「春、ちゃん…」
――泣いてよ。
 わざわざ文字にして斗南に見せる。そして肩を抱き寄せた。ほとんど無意識に春直はそうしていた。
「…これは、反則だよ……」
 斗南は言い訳のように言うと、春直に身を預けた。鼓動が聴こえる。それは春直の声と同じ温かみを持っていた。春ちゃんの声だ――ずっと、もう一度聴きたかった。斗南は肩を震わせて、春直の腕に収まった。

 春直は斗南を見つめていた。成人男性を相手に、こんな細い肩と腕で、自分をかばってくれたんだな…。ごめん、と思っているのに、それ以上の感情があった。そんな無理をさせて、そのせいで今も斗南を傷付けているのに、幸せだと思ってしまっていた。嬉しかったのだ。斗南が身を挺して自分を守ろうとしてくれた。それは扇雅によって味わった絶望と同じだけの――いや、それ以上の深度を持った幸福だった。
 ダメだなと、我ながら思う。斗南がこんなに苦しんでいるのに、他人事のように喜ぶだなんて。わかっているのに、今こうして斗南がすぐ傍にいてくれることさえ幸せに思ってしまう。

 斗南は会社であったことを、一通り話してくれた。出社した時から白い目で見られていたこと、同僚から噂について聞いたこと、扇雅が意外にも人望に厚かったこと。課長との一件はさすがに伏せたが、それでもやはり春直は心を痛めた。
「春ちゃんのせいじゃないよ」
 斗南は何回も言った。
「昨日のことがなくたって、扇雅さんには睨まれてたんだもん。同じだよ」
 むしろ、巻き込んでしまったのは自分なのだろうか。斗南は気付いた。扇雅が春直を攻撃するのは、斗南と仲が良いせいなのかもしれない。だとすれば、…だとすれば、どうすればいいのだろう?

――ねえ、ホッシー。頼みがある。


 (つづく)
 
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