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音のないプロポーズ 48
「…私も辞めちゃおうかな」
不意に斗南が言った。
「ていうか、辞めさせられるのかな、私の場合は」
「何言ってるの。ホッシー、まだ仕事やりたいって言ってたばっかじゃんか。ハルだって今の仕事好きだっていつも言ってただろ。二人とも、諦めが良すぎておかしいよ」
「影ちゃんだって営業の仕事、得意だし好きなくせに」
「や…僕の場合は、そういうことじゃないっていうか…」
――カゲは向こうで何の仕事するの?
春直の問いに、氷影は旗色を悪くした。
「…ユキの実家の魚屋の手伝い…」
――それって婿入りみたいなこと? カゲ、魚屋なんかできるの?
「大体影ちゃん、田舎がやだって都会に出てきたくせに」
氷影は黙り込む。できると強がって見せたいが、本当は自信がない。戦略的に営業するのは好きでも、声を張り上げて競り合うようなことは、少なくとも得意ではなかった。
「…だから、しょうがないだろ。僕にはユキのことがあるんだから!」
「そんなの一緒だよ! 影ちゃんも、諦めてるじゃんか…」
少しだけ気まずい空気が満ちた。喧嘩というほど声を上げたわけでも揉めているわけでもない。ただ、譲れなかった。したいことを諦めようとしている目の前の親友たちを、互いが認められない。
自分はこれでいい。でも、二人には諦めてほしくない。三人が同じことを思って、だから譲れない。
「…再来週、だっけ。退院」
氷影が暗い声で訊いた。
――うん。水曜日。
「わかった。その日は休み取って手伝いに来る」
――え? そこまでは、
春直の書きかけた手を、氷影が遮った。
「それまでは来ないかも」
「…どして?」
斗南が訊いた。少し声が震えた。怒ったのだろうか? だったら嫌だ。喧嘩なんてしたくない。これ以上二人と離れたくない。
「ちょっと、大事な用事がある。嘘じゃないよ」
氷影は低いトーンのままだったが、釘を差すように言った。春直はわかった、と書いた。外から雨音がした。
久しぶりに、雨が降り出していた。
◇
田中はリハビリメニューの見直しをしていた。日々、患者の様子に合わせて、手は毎日加えている。
春直には明日からまた新しいステップを考えていた。退院の日取りも決まってしまい、もうあまり時間がない。今後も通ってもらうつもりではあるが、家でのトレーニングに困らないよう、教えておきたいことがまだまだあった。だがそんな矢先、昨日のリハビリが休みになった。痛みが出てしまったらしい。今日とて、まだ万全ではないだろう。無理をさせるわけにもいかない。
少しばかり悔しい思いで、メニューのひとつに除外の横線を引いた時、部屋のドアをノックする音がした。
「どうぞ」
また新たな患者かもしれない。そう思いながら田中は返事をした。医師はノックすらしないから、看護師だろうと考え、メニューからは目を離さずにいた。ついでに春直の様子を訊いてみるか。入室の気配を察してから、そう思って目を上げた時、前にいたのは春直その人だった。
「おや、実崎くん? 珍しいね」
春直はぺこりと頭を下げた。車椅子を押して来た看護師が、お話があるそうですと言って、同じように会釈する。田中は体ごと春直に向けて、何かなと訊いたが、用件は想像がついていた。あと三十分もすればリハビリの時間なのに、今わざわざここへ来る理由は、ひとつしかないだろう。
リハビリは厳しいものだ。患者の中には音をあげる者が少なくないし、嫌になるのも当然だと田中も理解している。まして、失敗して転んだり、痛みを体験したりしてしまうと、その傾向はますます強くなる。
ただでさえ、これまで不自由なく健康に生活できていたものが、突如として一転した者ばかりだ。何で自分だけ、と思うのも無理はないし、こんな苦労なく元に戻りたいと願うのは、決して逃げでも怠けでもない。だが現実は理不尽なまま変わらない。だからこそ、この先の生活のために心を鬼にするのが自分の務めだ。
春直は最初から、リハビリに意欲的ではなかった。補助がなければどこにも行けない自分を惨めに思っている節があった。思うように動かない自分の身体というのは、自信を奪ってしまう。恋人が手伝ってくれることで、辛うじてやる気を絞り出していた様子だった。そこで極力二人でできるメニューを取り込んでは来たが、それも限界が来たのだろう。
春直が持参してきたスケッチブックを開いた。幸い、明日は土曜日だ。明日も彼女が来てくれて、二人で説得すればまたやる気が出ることもあるかもしれない。少し気楽なゲーム形式のメニューを考えようか。
春直が文字を示したので、田中は軽く頷いてからそれを見た。
――リハビリを強化してもらえませんか。
春直はそう書いてきた紙を出した。
(つづく)
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