53 / 61
音のないプロポーズ 53
電話はまだ繋いでいる。
「着いたけど…。ねえ、影ちゃん、中にいるの?」
「ううん? 僕は自分ん家にいる。さ、押して押して」
言われるがまま、インターホンを鳴らした。まあ、中に誰がいるのかは、もう消去法でわかる。返事がある、と同時に、氷影が電話で言った。
「一応、報告。僕、田舎戻れなくなった。じゃね」
「は? え、ちょっと」
電話が切れた。それから、インターホンの返事はノックだった。つまり、中にいるのは春直ということだ。まあ当たり前である。ここは、春直が一人暮らしをしていた部屋なのだから。
「え? あ、えっと…お邪魔します…?」
電話とインターホン、どちらに応えていいのか困惑しつつ、ひとまず扉に手を掛けた。鍵が開けてある。斗南はゆっくり玄関ドアを引いた。
「比野です…。お邪魔します…」
声を掛けながら中に入る。佳之や直永がいるかもしれないと思った。しまった、そういえば、誘導に気を取られて手土産を買っていない。氷影が後から来るなら頼むしかない。何だかしてやられたような思いで室内へ上がる。
――いらっしゃい。
リビングから、春直が顔を出した。笑っている。それから、立っている。もちろん右手には松葉杖があるのだが、左手で小さく手を振っている。斗南は少し驚いた。
「春ちゃん…! 大丈夫なの?」
壁にももたれず、杖だけで立っているのに、春直はしっかり安定して見えた。招かれて室内に入ると、春直は左手にも杖を持ち、ゆっくりだが一人で歩いて台所へ行く。
「歩ける…の?」
少し前まで、こんなことはなかった。リハビリで歩行訓練をしても、進むというほど前進できなかったはずだ。それが今、たった一人で室内を移動できている。
「お茶なんていいよ。私、やるよ」
コップをすすごうとする春直を見て、斗南は慌てて後を追った。それから、二つ並んだコップを見る。同じコップは棚にまだあるが、出されていない。
「春ちゃんひとり…? ご両親や、影ちゃんは?」
春直は、いない、と答えた。そしてまた笑う。まるで、以前の春直に戻ったみたいに、マイペースで屈託のない笑顔だ。
以前、氷影と一緒にここへ来たことがある。
あの時は、お酒とつまみを調達してからということで別ルートを通ったから、途中まで気付かなかった。まだ『さすけ』を見つける前なので、だいぶ懐かしい記憶だ。
不躾と思いながらも、ちらちらと室内をうかがった。ずいぶん掃除されているようだ。今の春直が一人でやったとは考えにくい。斗南は首を捻った。
「ここに住んでるの?」
春直はちがう、と答えた。
――今日と明日だけ、泊まりに来てる。自分の家なんだけどね。
「一人で?」
――カゲも後で来る。ホッシーも泊まってく?
言ってからイタズラな目で笑った。からかわれているのは間違いないが、春直は何だか元気そうだ。斗南は少しほっとした。
――退院する前、母さんにやっぱり一人で暮らしたいって言ったら、とにかくできるのかやってみろって言われて、お泊り体験中。
テーブルを挟んで座り、春直はスマホで色々な話をしてくれた。
「そうなんだね。大丈夫そう?」
――まだあんまりかな。家の外には行けないし、さっきも玄関まで迎えに行けなかった。でも、部屋が一階だったから希望はあると思ってる。
斗南は、なるほどと頷いていた。
希望。そんな言葉をこの一ヶ月、耳にしたことは一度もない。春直が前向きになっているのがわかった。喜ばしいことなのに、比較して今の自分を考えると、後ろめたくも思う。
――そういえば退院の日、いい報せがあったんだよ。
「いい報せ?」
初耳だ。たった数日会っていなかっただけなのに、今の春直について、斗南は知らないことだらけだった。それまでは毎日、あんなに言葉を交わした仲だったのに。
――運転してた大学生の子、意識が戻ったって。まだ動けなくて、この先どこまで回復できるかもわからないけど、もう命の心配はないって。
春直が滑らかにつづっていく。そういえば、入院していた時は、もっと指がぎこちなかった。痛みのせいだと思っていたけど、こういうところにも心境の変化が表れているのかもしれない。だけど……。
「それが、いい報せなの…? こんなこと言うの冷たいかもしれないけど、春ちゃんを……巻き込んだ人なのに…」
(つづく)
あなたにおすすめの小説
今さらやり直しは出来ません
mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。
落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。
そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……
【完結】婚約破棄はお受けいたしましょう~踏みにじられた恋を抱えて
ゆうぎり
恋愛
「この子がクラーラの婚約者になるんだよ」
お父様に連れられたお茶会で私は一つ年上のナディオ様に恋をした。
綺麗なお顔のナディオ様。優しく笑うナディオ様。
今はもう、私に微笑みかける事はありません。
貴方の笑顔は別の方のもの。
私には忌々しげな顔で、視線を向けても貰えません。
私は厭われ者の婚約者。社交界では評判ですよね。
ねぇナディオ様、恋は花と同じだと思いませんか?
―――水をやらなければ枯れてしまうのですよ。
※ゆるゆる設定です。
※名前変更しました。元「踏みにじられた恋ならば、婚約破棄はお受けいたしましょう」
※多分誰かの視点から見たらハッピーエンド
すべてはあなたの為だった~狂愛~
矢野りと
恋愛
膨大な魔力を有する魔術師アレクサンダーは政略結婚で娶った妻をいつしか愛するようになっていた。だが三年経っても子に恵まれない夫妻に周りは離縁するようにと圧力を掛けてくる。
愛しているのは君だけ…。
大切なのも君だけ…。
『何があってもどんなことをしても君だけは離さない』
※設定はゆるいです。
※お話が合わないときは、そっと閉じてくださいませ。
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。