喜右衛門の首

宇治山 実

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喜右衛門の首

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       喜右衛門の首 
      
                          
 遠藤喜右衛門は入江越しに琵琶湖を眺めながら、懐に隠し持っていた脇差を握ったが、
(いかんー、遠すぎる)
 どんな妙策を弄しても、この席からでは信長に近寄れない。
「足利義昭さまを上洛させ、幕府を再建したい」
 上座で織田信長の能面のような顔が、甲高い声を発した。
「幕府の再建は、浅井家の夢でございます」
「乱れた世の中には、幕府が必要じゃ」
「勿論、浅井家は全力で協力致しますぞ」
 期待した応えに、信長の顔が笑った。
(違うー)
 信長が笑ったように見えたが、能面の目は鋭く長政の反応を窺がっている。
 末席から注意深く信長を観察していたが、想像以上に隙のない男だった。
 信長は丁重な言葉遣いとは裏腹に、若い浅井長政を試しているのだ。
「南近江の六角家がどうでるかー」
「六角家は敵対していた三好三人衆と手を結びました」
「先の見えぬ男よ」
 一言で切り捨てた。
「承禎が、先が見えぬとー」
 意外な答えに、長政が聞き直した。
「分からぬかー」 
 信長は、一度で理解しない者を嫌う。
 喜右衛門は二人の会話を聞いていてズレを感じた。
それは人を信じる者と、人を信じない者の違いだった。
「所詮、一時凌ぎではないか」
 六角承禎は足利十三代将軍義輝を擁護していた。その義輝が三好三人衆と松永久秀に殺された。
 誰もが、六角承禎が三好三人衆と松永久秀に報復すると考えた。
 それに反し、承禎は三好三人衆と和談したのだ。
「六角家が上洛を邪魔するなら、踏みつぶして通るだけじゃわ」
 信長が事もなく言うと、突然立ち上がった。そして宴席をゆっくり見渡すと、
「方々、聞かれよ」
 信長の突然の呼びかけに、賑わっていた宴席が凍った。
「浅井家と織田家で幕府を再建する。今日はその宴の日じゃー」
「・・・・・」
「近江から東を織田家が、近江から西を浅井家が治める」
 みんなが箸を止めて、信長の放つ妖気に惹き込まれていた。
 信長は宴席の一人ひとりを確かめるように見回すと、
「因って、方々も粉骨を惜しまず働かれよ」
 信長の胸底が分かると、
「おおー」
 凍り付いていた宴席が、一転して解けた。
 両家同盟の宴席で、大風呂敷を広げた信長は役者だった。
 役者は観客の心を素早く掴んで化けるが、
(騙されてはいかん)
 喜右衛門は宴席に着いた時から、信長に近づいて刺し違える方法を考えていたが、距離がありすぎた。
 信長に駆け寄る前に、信長の近習に阻止される。
「うーん」
 策がなかった。
 空いた左手で、六十歳の弛んだ脇腹を撫ぜた。
 失敗して束縛されると、この締まりのない脇腹を切らねばならん。
「醜いことじゃー」
 襲った相手を傷一つ付けずに腹を裂くのは、不様以外ない。
 目を据えて信長の隙を探していると、突然信長が喜右衛門を見た。
 両者の目が、空中でぶっかった。
 喜右衛門はさり気なく目を逸らしたが、信長は喜右衛門の小柄な体から発す
る、何かを感じ取っていた。
「どうかなさいましたか」
 長政が怪訝な顔で信長の視線の先を見た。
「―――喜右衛門」
 長政は、喜右衛門が何かを目論んでいると想った。
「なにもない」
 済まして信長が言った。
「そうですかー」
 長政は一応安堵したが、普段から喜右衛門のしつこい老婆心を知っているだけに、安心できなかった。
 信長に睨まれた喜右衛門は、信長の視線を避け、握っていた脇差から手を離した。幾多の戦場を駆け抜け、何一つ怖れたことのない喜右衛門の首に冷や汗が浮いていた。
(信長は化け物じゃー)
 と、改めて想い知らされた。
(化け物は、一刻も早く仕留めなければならん)
 意を新たにしたが、打つ手はなかった。
 
 六十歳を越えた喜右衛門は、浅井家の将来を盤石にしておきたい。
 長政の祖父亮政と幾多の戦場を駆け抜け、京極氏の一被官でしかなかった浅井家を北近江の覇者に盛り立てた。
 命を懸けて育てた種が、ようやく花を咲かせたのだ。
 その花が散ろうとしている。
 信長はいつまでも同盟を守るような人間ではない。
 同盟を遵守するのは六角を攻め滅ぼし、足利義昭を掲げて上洛するまでで、その先は必ず浅井家を捨て駒にして、次に駒を進める。
 将来の憂いは、早いうちに刈り取ることである。
 それが今日の宴席ではっきり分かった。
「六角など、蹴散らすだけじゃー」
 酒のせいか、信長の青白い顔が熟れた桃のようにほんのり染まっている。
「観音寺城は要害です。正面からの無理攻めは兵を損じます」
「大した労は要らぬ」
 信長は、簡単に六角を切り捨てた。
「しかし六角の後ろに、三好家と松永久秀が付いております」
「ふん、所詮烏合の衆ではないか」
 戦う前から敵を見下す信長に対し、長政は六角家と一進一退の攻防を続けていたから、しぶとい六角家の底力に悩まされていた。
 ともに足利義昭公を上洛させ、足利幕府を再建させることで一致していたが、幕府を捨て駒としか考えていない信長と、真剣に幕府再建に尽くそうと考えている長政の間には、大きな隔たりがあった。
 宴が進み、両家からの引き出物が披露された。
 派手好きな信長は、長政だけでなく、宴席を設けた磯野員昌にも銀子三十枚、太刀一振りに御馬を送ると、他の重臣たちにも惜しみなく引き出物を配った。それに比べ浅井家からは近江綿二百把、布百疋、月毛の馬一匹に、定家の歌書二冊等と、品物も量も少なかった。その少ない中に大振りの太刀が一本あった。
(それはー)
 遠藤喜右衛門は叫びそうになった。
 太刀「石割」は、祖父浅井亮政秘蔵の打物だった。
 浅井亮政がこの刀を愛用するようになってから、浅井家の躍進が始まった。
(そ、その刀を手放すと運に見放されますー)
 咽喉まで出かかった言葉を、辛うじて押さえた。
 主人が選んだ引き出物に口を挟むことはできない。まして老臣の喜右衛門はものごとを諭すように言うから、若い長政に煙たがられている。
 先刻も長政に睨まれたばかりだ。
「備前兼光の作でございます」
「兼光かー」
 兼光は足利尊氏に重用された長船派の正統な刀工である。
 上座の二人の会話を聞き耳しているのは喜右衛門だけではない。浅井家の重
臣たちは複雑な心境をかみ殺して、狡猾な信長を凝視していた。
 引き出物の交換が終ると、また饗宴に戻る。茶や、能、舞が入り、全てが終るのが翌日の昼頃になるので、招待する方もされる方も体力勝負だった。
「ところで、市は達者かー」
 信長は、長政と市姫の夫婦仲が良いことを知っていて聞いた。
「市は太りました」
 大柄な長政が照れながら、嬉しそうに応えた。
「それはよい。夫婦円満は御家繁栄のもとじゃー」
 信長が珍しく笑った。
 長政は市姫の閨姿を思い浮かべていた。
 普段は冷たく済ました市姫が、閨の中では別人になって乱れた。市姫の恍惚な境地に引き込まれると、二人はむさぼりあった。市姫が長政にしがみ付いて応えると、長政も市姫に釣りこまれて、ある限りの精を放って応じた。
 長政は市姫を嫁に貰う前に一度結婚していた。長政が十五歳の元服のとき、南近江観音寺城の六角承禎(義賢)が、祝いだといって自分の名前の一字「賢」を与え、賢政と名乗らせると、品物を送るように嫁も押し付けた。嫁が六角氏の一族なら不満がなかったが、六角氏の家来平井加賀守定武の娘だった。
 いくら合戦に負けたとはいえ、家来の娘を押し付けられたのでは面目もない。
(―――おのれ)
 これに浅井家の家臣が激怒した。
 一年後、長政は承禎の家来同然の扱いに、六角家と戦う覚悟を決めると嫁を離縁した。そして名前も「賢政」から「長政」に変えた。
 怒った六角承禎は直ちに陣立てをすると、二万五千の大軍で攻めて来た。
(二万五千とは、六角も本気じゃー)
 喜右衛門は、籠城を覚悟して小谷城に駆けつけた。
 誰もが険峻な小谷城に立て籠もると考えていた。
 しかし、長政は六角軍の半分の軍勢で打ってでた。
(おおー、長政さまは亮政さまの再来じゃー)
 果敢に打ってでた若い長政を、喜右衛門たち昔からの家来が支えた。
 両軍は琵琶湖の東、野良田で激突した。
 人数に劣る浅井軍は長政を盛り立てようと、一人ひとりが戦う獣に化身すると、一丸となって六角軍に突入した。
 浅井軍の旺盛な戦意に対し、六角軍は二倍の兵力を過信していたせいか、合戦は浅井軍の勝利に終った。
 この合戦を機に、浅井家は長政の下に団結すると、水が紙に染み込むように、南近江に勢力を伸ばしていった。
 市姫との間には茶々、初、万福丸、小督と四人の子供が生まれていた。
 幸せを一番噛み締めているのは長政だった。
 喜右衛門は宴が終盤に入っても、信長から目を離さなかった。
 最近は歳のせいか少し飲むと酔いが回るのだが、今日はいくら飲んでも酔いそうになかった。隣では上坂形部が肴を箸で解しながら上座を注視していたし、下座では磯野員昌がさり気なく信長と長政の会話を聞いている。
 浅井家の家来は、純粋な長政が信長に騙されないかと警戒して見ていたが、能面の顔は喜怒哀楽がなく、何を目論んでいるのかさっぱり読めなかった。
 強引に尾張を支配すると、隣国の美濃も併呑した。その信長と結び、六角家を蚕食して南近江に勢力が拡大できるのなら、これは浅井家にとっても良策なのだが・・・・・。
(それは、両家が同盟を守ってのことだ)
 それだけに浅井家の家臣は、信長の背中に隠れている危険性を予知し、未然に防がなければならない。

 翌日、信長と長政は六角氏の観音寺城に使者を送り、
「人質をだして、足利義昭公の上洛の道案内をせよ」
と申し入れたが、六角承禎は、信長と長政の要求を無視した。
 信長は、六角家が敵対するのを待っていた。
「一度、岐阜に帰られますのか」
 長政が尋ねると、
「岐阜で陣立てをしてからじゃー」
「念のため、家来に国境まで送らせます」
 律儀に同盟者を警護しようとした。
 佐和山城までは浅井家の支配地だったが、上洛の道筋である東山道(とうさんどう)は、六角勢が目を光らせていたから油断はできなかった。
 長政は重臣の浅井七郎(政澄)、遠藤喜右衛門、中島九郎次郎に警備兵をつけ、信長を江濃国境の関ヶ原まで送るように命じると、くれぐれも軽はずみな行動は慎むように厳命した。
 そして、年長の喜右衛門に向き直ると、
「喜右衛門、分かっているな」
 と釘をさした。

 左一面に開けている琵琶湖から離れ、鳥居本から摺針峠を越えると、東山道は丘陵地帯を抜けて江濃国境に向かっていく。
 先頭を浅井七郎が進み、遠藤喜右衛門はその後に続いた。
 その後に信長一行を挟むと、後衛を中島九郎次郎が固めた。
 前方を塞ぐように、伊吹山の黒い山塊が裾を大きく広げていた。
 遠藤喜右衛門は進む馬の背から、後続の信長に気を注いでいた。
(この男は人間の匂いがしない)
 信長は巧みに馬を操り、悠然と構えていたのだが、その周りに張り付いている近習たちも尋常ではなかった。
 喜右衛門が馬を止めて振り返るたびに、近習たちは腰を沈め太刀に手をかけた。
(こやつらは同盟国の警護衆を全く信頼していないわ)
 それが現実となったのは、番場宿にさしかかったときだった。
 喜右衛門の郎党の一人、富田才八郎が足を滑らせて深い溝に落ちた。この辺りは溝を掘って、湖水を田圃に引き入れている。
 ずぶ濡れになって困っている才八郎に、信長の近習は駆け寄ると、助けるのではなく、反対に槍を突きつけた。
「槍をどけろ」
 喜右衛門が、近習たちの前にでた。
「太刀を外して頂きたいー」
 女子のような優男の近習が言った。
「太刀を外す・・・・・」
「わざと落ちたのではないのかー」
「わざとー、なぜわざと落ちるのだ」
 喜右衛門が顰め面で尋ねると、
「信長さまを襲うため、溝に身を隠したのではないのかー」
「・・・・・」
 喜右衛門は、若い近習が言ったことが理解できなかった。
「太刀を外して、ゆっくり上がれ」
 優男の近習が、才八郎に命令した。
「ばかなー」
 喜右衛門が、才八郎に突つけている槍を払おうとすると、今度は喜右衛門に槍を向けてきた。
 喜右衛門は女子のような近習の目を見た。
 優しい顔とは不似合いな目は、獲物に飛び掛る野獣の目をしていた。その左右にいる近習も同じ目をしている。
 いや、目だけではない。顔つきから動作までが、何かに取り付かれているのか脅えている。信長の近習全員が一時も気が抜けない、極度な緊張状態に置かれているからだ。
 こいつらは人間ではなく、獣なのだと思うと、
「わかった。才八郎、太刀を外してゆっくり這い上がれ」
 人を信じないのは信長だけではなかった。
 織田軍全体が、信長以外を人間と扱わない狂気な集団なのだ。
 
 一行は東山道を美濃に向かって進む。
 醒ヶ井を越えると、伊吹山魂と鈴鹿山脈に挟まれ山に飲まれる気がする。
 喜右衛門は馬の上で、信長の人間性を考えていた。
「六角など蹴散らせばよい」
 六角家も昔の威勢はないが、六角家は近江源氏佐々木家の直系である。
 六角家の家臣には、情報収集と暗殺技に長けた甲賀忍びが多い。
 喜右衛門は浅井家の何人かの武将が、この甲賀忍びに殺されたことを知っている。
 少人数で罠を仕掛けて仕留めれば、食べ物にも毒を盛る。
「人質を出して、上洛の道案内をせいー」
 威嚇した信長を、六角承禎がそのままにしておくことはない。
 その予感が当たった。
「危ないー」
 信長の周りから悲鳴が沸いた。
 山から数十個の大石が信長を目がけて転がり落ちてきた。
「石だー」
「大石が落ちてくるぞー」
「殿を守れー」
 気がつくのが遅かった。
 間に合わないと悟った近習が、信長の馬に前に並ぶと、落ちてくる大石を体で止めようとした。
 勢いがついた大石に、人間の意志などなんの力にもならない。
 大石は近習の楯を跳ね飛ばし、押し潰して転がっていく。
 頭が潰され変形した近習の体から、うめき声とともに大量の血が流れ出していた。
 一人の近習が、辛うじて大石を避けた信長の馬の尻を叩いた。
 瞬時に信長は上体を屈め、手綱を絞った。
 黒毛の大柄な馬が一気に走り出すと、
「竹ー、お仙ー」
 信長が馬上から叫んだ。
「はっー」
 名前を呼ばれた近習が信長の馬を追って走った。
 喜右衛門は信長を目がけて落ちてきた大石をみて、
(これは罠だ)と察した。
 この襲撃方法は、甲賀忍びが使う待ちかまりの術だ。
 かまりとは伏せ兵のことで、敵を混乱させ、慌てて逃げていく前方で、地形に合わせて罠を仕掛けるのだ。
 信長が慌てて逃げる。
 喜右衛門は一気に馬を走らせると、信長の馬の前に飛び出した。
 飛びだしながら、
(今だ、いまなら信長を殺せるー)
 本当ならこの混乱に紛れ、信長を一思いに殺したかったが、無垢な長政の顔が浮かぶと、命令には逆らえなかった。
 信長の馬の前を駆けながら、全神経を待ちかまりの術に集中させた。
 甲賀忍びの待ちかまりは五遁の術を用いて隠れている。
 五遁とは火、水、木、金、土だから、山裾では木か、地に紛れて姿を隠す。
(―――いた)
 二十間ほど前にある樫の大木の上に、濃緑色の衣を纏った甲賀忍びが半弓を構えていた。
 喜右衛門は馬の速度を落とすと、ゆっくり大木の周辺を見渡した。
 甲賀忍びは一人で罠を仕掛けることはない。
 失敗したときのことを考え、数人で罠を張る。
 隣の大木の上にもう一人のかまりが、半弓を手に信長を狙っていた。
 逃げてくる信長を、左右から狙撃するのだ。
 喜右衛門は馬から下りると、
「止まれ―、止まれ」
 大きく両手を広げて、信長の馬を阻止させた。
 信長の馬が静まると、配下の鉄砲足軽に木の上のかまりを撃つように命じた。
 四名の足軽が一斉に鉄砲を放すと、一人に命中したが、鉄砲に気づいたかまりは、素早く木の陰に隠れた。
 喜右衛門は刀を抜くと、かまりがいる大木の下に回りこんで退路を絶った。
 逃げ切れないと悟ったかまりは、自ら頚動脈を切断して果てた。
 信長が周辺に用心しながら、喜右衛門の側にきた。
「名はー」
「須川城主、遠藤喜右衛門直経」
 喜右衛門は信長を睨むと、力強く応えた。
「・・・・・」
 信長は喜右衛門の反発心を感じ取ると、宴席で殺気を放った男を覚えていた。
「遠藤喜右衛門かー」
「そうじゃー」
 喜右衛門は歳を取っていたが、人一倍闘争心を秘めている。
 信長は老体を奮い立たせて、自分に挑む小柄な男を見た。
 二人の視線がぶつかった。
「甲賀のかまりを、見抜いたのは見事じゃー」
「・・・・・」
「喜右衛門、これをとらす」
 信長が腰に挿していた脇差を差し出した。
 喜右衛門は、脇差を一瞥すると、
「主人長政さまの許しがないと、受け取れぬ」
「なにー」
 信長の顔が、能面から夜叉に変わった。
 横から優男の近習が、
「殿のお仰せである。有り難く受け取ればよい」
 強引に受け取らせようとした。
「主人以外の指図は受けん」
 喜右衛門もここまで反発する気はなかったが、信長の人を見下す態度に頑固一徹の血が騒いだ。
「なにー」
 優男の白い顔が、ほんのり染まると刀に手をかけた。
 喜右衛門は、自分の歳の半分もいかぬ優男を睨みつけると、
(切れるものなら、切れ)
 と、優男にも反撥心を見せた。
 喜右衛門と優男が睨み合っている間に、富田才八郎が割り込んできた。
 才八郎は喜右衛門の前に出ると、腰を落として刀に手をかけた。
 才八郎は武芸に優れてはいなかったが、優男が切りかかったら避ける気はない。切られても相手に組み付いて、相打ちの刀を突き刺す覚悟をしていた。
 闘志が高調している優男と、才八郎の腰が一段と低くなって、一触即発に達したとき、
「お仙、もうよい」
 信長が止めた。
 上洛を優先させる信長は、同盟者の浅井家とひと悶着起こしたくなかった。
 そして、馬の上から喜右衛門と才八郎を見下ろすと、
「喜右衛門、老骨で死に急ぐなー」
 吐き捨てると、馬を列の中央に戻した。
 
 その夜、信長一行は柏原宿の北に在る成菩提院に泊まった。
 正式名は弘仁六年(八一五)、最澄が建てた寂照山円乗寺成菩提院である。山裾の静かな寺だ。
 信長が寺に入ると織田家、浅井家の警備隊も寺を取り囲むようにして休んだ。
 闇が深くなり、警備兵の話し声も途絶えたとき、口に板を噛ませた二頭の馬が北に向かって走った。
 遠藤喜右衛門と富田才八郎だった。
 二人は伊吹山の麓にある小谷城目指して走った。
 半刻あまりで駆けた喜右衛門は、小谷城に駆け上ると長政に面談を願いでた。
「火急の用とはー」
 長政が真夜中の面談を怪しんだ。
「今夜、信長を討ち取る許しを頂きたい」
 喜右衛門は迫った。
「夜明けに成菩提院を奇襲すれば、信長を殺せる」
 成菩提院の裏は低い山である。
 越えて浸入すれば、簡単に信長の宿舎を襲撃できる。
 それに信長の家来は二百四、五十人しかいない。武装した千人で奇襲すれば、間違いなく信長を抹殺できるのだ。
「殿―、今夜信長を討っておかないと、必ず将来浅井家の疫病神になりますぞ」
 勝負は間を置いては成就しない。
「信長どのは疫病神か」
「ああー信長は間違いなく疫病神じゃ」
 喜右衛門が畳み掛けると、
「疫病神なぁー」
 のんびり他人事のように構える長政が歯がゆい。
 今夜は襲撃するのに絶好の条件が揃っている。
「浅井家は、織田家と同盟を結んだばかりではないかー」
 長政がまた醒めた言い方をした。
「信長が律儀に、いつまでも同盟を守ると考えておられるのか」
 喜右衛門が膝を進めて迫っても、
「浅井家が同盟を反故しない限り、信長どのも破ることはない」
 長政には緊張感がなかった。
「喜右衛門」
「はっ」
「よく考えてみよ。浅井家が信長どのの上洛に協力すれば、織田家も浅井家を粗末に扱うわけがない」
「甘い、甘すぎますぞ」
「甘い、辛いではない。両家が結んだ同盟を浅井から破ることはできん」
 長政には、喜右衛門の気持が伝わらなかった。
「殿が動かないのなら、儂、わし一人で襲う」
 喜右衛門は勝算があった。
 喜右衛門の領地須川から成菩提院まで一里足らずである。一族には準備をさせている。
「殿ー、喜右衛門好きにせよー。と言って下され」
 最後の決断を迫った。
 喜右衛門は掻き切った信長の首を見ながら腹を切れば、自分だけの責めで、浅井家が安泰する。
「もうーよい」
 長政は冷たい目で喜右衛門を見下すと、
「織田どのを討つことは、断じてならん」
 主人長政が断言したら、それに従うしかなかった。
 
 翌日、岐阜に帰った信長は、尾張、美濃、伊勢の兵三万で陣立てすると、北近江に進出してきた。浅井長政は一千を率いて出迎えたが、地を埋め尽くす織田の大軍に驚く一方で、京見物に出かけるような織田軍の服装の華やかさに不信感を抱いた。
(こんな恰好で戦ができるのかー)
 信長は長政の想いなど一切気にしない。
 形式だけの軍議を開くと、織田軍だけで六角氏の居城観音寺城と、隣接する箕作城と和田城を囲んだ。
 いや囲むと同時に攻め懸けた。
 観音寺城の東、谷一つ隔てた箕作城を丹羽長秀、佐久間信盛、木下藤吉郎の三隊が一斉に攻め懸かると、僅か四刻で陥落した。
 この織田軍の箕作城攻めに、観音寺城にいた六角承禎が仰天した。
 織田軍の城攻めに備え、六角家一の猛将蜂屋左近行直を配し、空掘を深くした上に、全山をハリネズミのように逆木を何重にも張り巡らせていた。
 その箕作城が半日ももたなかった。
 戦意を喪失した六角親子は、甲賀山中に逃げ込んだ。
 南近江の守護六角氏が、織田信長に一日で蹴散らされた。
 この織田軍の猛攻撃に浅井家も驚いた。
(―――たった一日とは)
 長政の思惑とは別に、遠藤喜右衛門は富田才八郎に織田軍の城攻めを探らせていた。
「才八郎、どうだった」
 喜右衛門は、小谷城の横にある清水谷の遠藤屋敷で尋ねた。
 当時、浅井家の重臣は居城以外に、清水谷に屋敷を構えていた。
「容赦のない攻めでした」
 才八郎は侍にしては珍しく、自己主張しない性格だったが、責任感が強く、命じられたことは確実に実行する。
「織田軍は敵と戦うよりも、味方の武将と競っていました」
「先陣争いか」
「はい、各武将が部下を叱咤しながら、真っ先に突入しておりました」
 攻め口も割り当てられていた。六角家の陣配置も的確に調べていた。どのように攻撃するか、段取りもできていた。至るところに尾張と美濃で激戦を潜り抜けた合戦慣れが見られた。
 経験豊富な猛将が命懸けで競うのだから、防ぐ方は川の水を板で止めるようなものだ。支えられるわけがない。
「気のせいか、織田兵はみんなが同じ顔をしていました」
「なに、同じ顔だとー」
「はい、誰もが敵を殺すことだけに取り付かれた、野獣のように、目だけが異様に輝いてー」
「何かに取り付かれたー」
 喜右衛門は、信長を警護して江濃国境まで送ったとき、近習たちの顔が、同じ人形に見えたことを思い出した。
 喜怒哀楽を殺し、迷いのない目をしていた。
 織田軍は近習だけでなく、武将から足軽までが信長を護るという一つの目的のために自分を捨てているのだ。
 
 九月十五日、南近江から六角家を追い払った織田信長は、家臣の不破河内守に、美濃立政寺で待機していた足利義昭を迎えに行かせると、
 九月二十六日、信長は義昭を奉じて上洛した。
 全身で喜びを表す義昭に比べ、天下布武を目論む信長は、将来の憂いを断ち切るため、服従しない者を徹底して討伐する。
 軍勢をさらに南下させると、高槻の高山右近、茨木の中川清秀、摂津の池田勝正を降伏させた。快進撃を続ける織田軍は猟犬だった。獲物を求めて進軍すると、河内の三好義継、畠山高政を鎧袖一触に蹴散らした。
 織田軍の猛威に脅えた大和多門城の松永久秀は、二人の人質に、貢物に名刀吉光の脇差と、茶入れの作物茄子(つくもなす)をもって早々と下った。

 十月十八日、足利義昭は念願の征夷大将軍に就任した。
 義昭はおもちゃを振り回す子供と同じで、将軍の権威を振り回しだした。
 全国の大名に御教書を送ると、将軍義昭への忠誠を求めた。
 数ヵ月後、その御教書が小谷城の浅井長政にも届いた。
 御教書には、織田信長に対する不満が一面に列挙されていた。
 長政は首を傾げて読んだ。
(念願の征夷大将軍に就任して、なにが不服なのかー)
 長政は義昭の我がままと思っていたが、御教書が二通、三通と届くと、単に義昭の我がままだけではないように考えだした。
信長が隠していた本性を見せだしたのだ
(化け物退治がしたいがー)
喜右衛門は、自分の読み通りの展開になったことで、織田家との合戦が避け
られないと決断すると、
「いよいよこの老体とも縁がきれるかー」
 永く酷使した身体をしげしげと眺めると、悔いないように散ろうと想った。
 ただ六角家を一日で蹴散らした信長と戦うには、それなりの覚悟がいる。
喜右衛門は浅井家の武運を祈願し、多賀大社に「三十六歌仙絵」を奉納した。
 この「三十六歌仙人絵」は現在、滋賀県の指定文化財に指定されている。

 信長は上洛を果すと、将軍義昭が不要になった。
 その男が将軍職を振り回して、独り遊びに熱中すると邪魔になる。
 信長は『殿中御掟』を義昭に突きつけ、行動を束縛しょうとしたが、将軍職に奢る義昭は聞かなかった。
 手を焼いた信長は、さらに無慈悲な追加掟書を無理やり認めさせ、義昭が独断で行動しないように手足を縛った。
 そうなると義昭は、十五代将軍とは名ばかりの張子のトラである。
 信長に協力して足利幕府を再建した長政は、愉快な夢の途中に起こされたようで目覚めが悪く、すっきりしなかった。
 そのとき、
 信長が、浅井家との約定を覆す行動を起こした。
 信長は二条に建設していた将軍御所の落成祝いを開く名目で、諸大名に上洛を要請した。
 各地から大名が集結すれば、上洛できない者たちからは豪勢な祝いが届いたが、越前の朝倉家からは何ら回答もなかった。
 信長は朝倉家の行為を、
「越州朝倉義景ハ朝廷公方ヲ軽シ、上洛在京ヲ不相勤、私ニ国ヲ領シテ、将軍ノ御敵トナル」(朝倉家記)
と決め付け、足利将軍に対する反逆と公言した。
 四月二十日、軍勢を琵琶湖の西岸坂本に集結させると、木下藤吉郎に先鋒を命じた。
 三万の織田軍が堅田から、今津を抜けて若狭街道を北進して行った。
 織田軍の朝倉家攻撃に、浅井家が慌てた。
「信長どのから何も聞いておらん」
 小谷城の一角で長政が喚いていた。
「織田の大軍は越前を目がけて北上しております」
「間違いでは、ないのかー」
 この場になっても信長を信じようとする長政に対し、信長は自分以外を信じない。それ以上に、約束などあってないのが戦国だと考えていた。
 しかし、己の勝手で進める信長とは違い、決め事を律儀に守ろうとする者もいた。朝倉家と浅井家は、織田家と浅井家との同盟よりも古くから誓約していた。弱小勢力だった浅井家が北近江の覇者になれたのも、北から朝倉家が支えたからだ。
 朝倉家から援軍を要請する使者が、次々に小谷城に駆け込んできた。
 長政の父久政は古来の礼式や伝統を重んじていたから、そのよき習慣を土足で踏み躙る信長を嫌悪していた。
 久政は、長政に決断を迫った。
「朝倉か、織田か」
「・・・・・」
 長政は迷っていたというより、決断できなかった。
「黙っているときではない。朝倉家を援けるのか、それとも見捨てるのか」
 長政は小谷城の大広間に重臣を集めた。
 大広間は本丸の下に連なっている。
 全員が定刻より早く揃ったが、挨拶を一言、二言で済ますと、後は口を閉ざしていた。誰もが織田信長と戦う危険性を感じていた中で、信長を軽く見ていた男がいた。
 浅井久政である。
 その久政が音頭をとって評定を進めていった。
「浅井家が今日北近江に在るのは、越前の朝倉家が蔭から支えてくれたことを、忘れてはならん」
 長政は黙って聞いていた。
「朝倉家が援軍を求めた今こそ、長年の恩を返すときではないかー」
「・・・・・」
「織田軍が越前に侵入したら、浅井が退路を塞ぎ、信長を袋の鼠にすれば確実に討ち取れる」
 久政が会場を見回して、自信たっぷりに言った。
「大殿の言う通りじゃー。信長が勝ち戦に油断している今じゃー」 
好戦的な浅井七郎は、浅井家を軽くあしらう信長に我慢ができなかった。
「朝倉と浅井だけではない。南近江の六角家と阿波の三好家からも使者がきて、意を合わせて信長を倒そうと言ってきたのじゃー」
 久政の、確信に満ちた声が大広間に響き渡った。
「方々、聞かれたかー。六角と三好が味方になるのなら、織田に加担するのは三河の徳川だけじゃー。恐れることはないわ」
 信長の人間性に不審を抱いていた木村日向守が、朝倉家援助を唱えると何人かが続いた。そのとき、
「お待ちください」
 遠藤喜右衛門だった。
「同盟者を増やしても、今の織田軍に勝てませんぞ」
 遠藤喜右衛門は、織田信長に戦端を開く愚行を諌めた。
「なにー織田信長に勝てないだとー。前後から攻め立てて、どうして勝てないと分かるのじゃー」
 燃え掛けた戦意に水をかけた喜右衛門を、久政が罵った。
「まず軍勢の数、次に鉄砲の数、その軍勢が信長の命令一つで、石ころ同然に命を捨てます」
「笑止じゃ喜右衛門、命を懸けるのは織田兵だけではないわ」
 久政はこの時とばかりに攻める。
「武士が命を惜しんで奉公が勤まるかー。喜右衛門はその歳になっても命が惜しいようじゃなー。命が惜しいのならこの評定場から去るがよい」
 久政は、納まらない怒りを喜右衛門に激しくぶつけることで、評定を反織田に持っていこうとした。
 喜右衛門も引かなかった。
「織田軍の観音寺城攻めを思い出していただきたい。浅井家が何年も戦っている六角軍を、たった一日で蹴散らしたのですぞ」
 喜右衛門は、織田軍の実力を再認識するように訴えた。
 喜右衛門だけなら、勝ち目がなくても信長に挑む。しかし、これは織田家と浅井家の全面戦争になる。何度も戦場を潜り抜けてきた喜右衛門の本性が警鐘をならした。
 ここは恥を忍んでも、織田軍と闘ってはならん。 
「喜右衛門―」
 目を閉じて評定を聞いていた長政が尋ねた。
「喜右衛門は、前に信長を討とうと言ったではないか」
 状況の違いが分からぬ長政の問いに、肩の力が抜けたが、
「あのときの信長は、少人数で成菩提院に泊りました」
 想い出したくもなかったが、
「奇襲すれば討ち取れましたが、信長の下で膨れ上がった織田軍は尾張、美濃、伊勢、三河、山城、摂津を支配し、その軍勢は六万を越す大勢力になっております。浅井と朝倉に六角と三好を加えても三万がやっと。その上に織田軍は大量の鉄砲を装備しています。一つ間違えると、浅井家がこの世から消えます。ここは冷静に見極めませんと・・・」
 喜右衛門が言い終わらぬうちに、また久政が口を挟んだ。
「ふん、腰抜けが何をほざく。確かに織田軍は大軍じゃーが、今の信長は敵陣深くに入り込んだ手負いの猪に過ぎん。取り囲んでしまえば暴れようがないわ」
「いやいや、ここは織田家との縁を大事にすべき。朝倉家は義昭さまの上洛を無視したではありませんか」
 重臣の赤尾美作守が、喜右衛門の考えを補った。
「浅井家は武門を誇る家だったのが、いつの間に腰抜けぞろいになったのじゃー」
 久政が嘆いて言うと、
「大殿の言う通りじゃ、いかに獰猛な信長も取り囲めば袋の鼠で逃げられん。それに二倍の敵に勝つのが浅井家ではないか」
 七郎は二倍の六角軍を撃破した野良田の合戦を思い出していた。
 あの合戦も一見無謀な戦だった。それを果敢に挑むことで、攻められどおしだった浅井家が、近江に君臨していた六角の大軍を打ち破って立場を逆転させた。いまもそのときの、全身が痺れるような快感を忘れることがない。
「朝倉と織田と比べて、どちらが信用できるか、ではないか」
 木村日向守が尋ねた。
「織田は確かに強い。だが信長は信用できん。何回か信長を見ているが何を考えているのか、全く分からん」
 老臣の日向守も、喜右衛門と同じ目で信長の人間性に疑問を抱いていたが、浅井家生存の為には、信長に頭を下げようと考える喜右衛門と、屈辱と思う日向守の意見が分かれた。  
「信長に、浅井家の行く末を任せるのは不安ではないか」
 織田軍の強さは信長の人間性によるところが多いのだが、反面これが弱さでもあった。
「合戦は日頃の鍛錬で決る。田舎役者のようにきらきら着飾った織田軍に、浅井家が勝っても負けることはない」
 大広間が朝倉家援助に傾きだした。
 しかし浅井家が生き残るには、信長が嫌いでも、信用できなくても、信長に屈するしかないのだ。
「朝倉家の恩は昔の話じゃ。この先、浅井家が生存するためには、どんなことがあっても織田家、信長と戦ってはいかん」
 喜右衛門が諦めずに長政に迫ると、七郎と日向守が、
「みんなは信長の冷酷なことを知っている。今回信長に協力してもいつ裏切られるかわからん。ここは朝倉と組んで信長を殺すことじゃー。殺してしまえば怖れるものはない」
「越前に入り込んでいる、今なら信長を殺せる」
 長政も朝倉か織田かよりも、信長を殺せるか、殺せないかを考えていた。
 久政が言うように、越前にいる信長を取り囲めば殺せると想った。
 信長さえ殺せば、頭上の憂いが消える。
「織田家との同盟を捨て、朝倉を助ける」
 長政が喜右衛門の考えを退け、信長と戦うことを決意した。

 若狭から敦賀に侵攻した織田軍は怒涛の勢いだった。
 四月二十五日、信長は敦賀に入ると、朝倉軍が立て籠もる天筒山城と金ヶ崎城に近い具足山妙顕寺を本陣にした。
 その日、信長の要請に応じた三河の徳川家康が五千の軍勢を引き連れてきた。
 織田、徳川の連合軍は、翌二十六日、朝倉家の武将寺田采女の守る天筒山城に猛攻撃をかけ、一日で陥落させると、尾根続きの金ヶ崎城も攻略した。
 勢いにのる信長は木の芽峠を越えて、朝倉家の本拠地一乗寺谷を目指そうとしたとき、浅井家の反覆を知った。
 敵陣深くで、退路を絶たれた織田と徳川の連合軍は孤立した。
 負けん気の強い信長は、
「決戦じゃー」
 と強がって吠えたが、配下の武将が諌めた。
 俊敏な信長は分の悪い情勢を察知すると、撤退を決意した。
 殿軍を木下藤吉郎が買ってでた。
 信長は頭を擦り付けている藤吉郎に、
「猿、生きてかえれー」
 一言喚くと、もう駆け出していた。
 
 信長が朽木谷を駆け抜け、京都から岐阜に戻ったことを知った浅井長政は、信長との合戦に臨んだ。
 清水谷の屋敷に戻った遠藤喜右衛門は、改めて信長の運の強さを知ると、最後の合戦に全身全霊を掛けた。
「死に際は潔くなくてはいかんが、無駄死にはせん」
 どうせ命を捨てるなら、喜右衛門は悔いのないように散りたい。
 浅井軍は二倍の六角軍に勝ったが、信長は十倍の今川軍を桶狭間で打ち破っている。
 それ以降も、尾張、美濃、伊勢で激戦を繰り返し、その度に勝ち抜いてきた。兵の数も、鉄砲の数も扱いも、圧倒的に織田軍が優っている。
 浅井家が生き残るには、
(直接、信長の首を獲るしかない)
 信長さえいなければ、織田の大軍も烏合の衆になって崩壊する。
 喜右衛門は、桶狭間の合戦を思い出した。
 あの合戦も今川の大軍が負けたのではない。大将の今川義元が討たれたため、大軍が組織だって行動できず二万の兵が逃亡したのだ。
 喜右衛門は合戦の混乱に紛れ、信長の首を獲る方法を考えた。
 しかし、信長の近習は獰猛な獣たちだ。一人になっても命がある限り信長の
楯になる。そんな近習に囲まれている信長に近づくのは、尋常な方法では無理
だ。
 喜右衛門は目を閉じてゆっくり考えた。
 いつもは静かな清水谷が、住人の動揺が風にも伝わるのか、なんとなく騒がしい。
(己の命と引き換えに、信長の首が獲れないかー)
 半刻ほど考えると、信長に近づく方法が浮かんだ。
(うーん)
 さらに四半刻、その方法の可能性を考えた。
 この作戦しか方法がないと決断すると、才八郎を呼んだ。
   
 六月十九日、関ヶ原から北近江に侵入した二万六千の織田軍は、脇街道から小谷城に向かった。途中にある浅井方の横山城を、弟の織田信包と丹羽長秀、水野信元に包囲させ、自ら大軍を率いて小谷城下に入った。
 信長は小谷城の正面にある虎御前山に本陣を構え、長政を挑発して城下の村々を放火して回った。
 兵の数で大きく上回る織田軍は、両面が鋭く切り立っている小谷城攻めを避け、浅井軍を平地に誘って合戦に持ち込みたい。
 反対に兵力が劣る長政は、信長の作戦を無視した。
(朝倉軍が来てからだ)
 長政は織田軍の略奪行為と放火作戦を、唇を噛んで耐えた。
「越前朝倉軍、北国街道を南下中」
 この情報を聞いた信長は、虎御前山の本陣を横山城の北にある龍ケ鼻に移した。
 そこへ越前侵攻と同じように、三河から徳川家康が六千の兵を率いて到着すれば、
 二十六日、小谷城に朝倉景健が率いた一万の朝倉軍が合流した。

 援軍の朝倉景健と作戦を練った浅井長政は、小谷城を出撃すると、前方の大
寄山を抜けて、姉川の北にある野村邑と三田邑に陣を張った。
 浅井と朝倉軍に対抗する織田軍が龍ヶ鼻から前進して姉川の南に七段に構えると、徳川軍は織田軍の左の千種邑に陣取る。
 信長は浅井軍の一部が籠もる横山城からの襲撃に備え、戦体験の豊富な丹羽
長秀に氏家直元と安藤範俊を補佐につけ、横山城を包囲させた。
信長が警戒したとおり、長政は横山城に籠もった三田村左衛門尉、大野木佐
渡守、野村肥後守に千五百を与え、合戦の途中に織田軍を背後から攻めるように命じていた。
 この三人は浅井軍が六角家と戦った野良田の合戦のとき、先陣磯野員昌、二
陣が阿閉貞秀のあとの三陣が大野木佐渡守で、四陣が三田村左衛門尉、五陣が
野村肥後守だった。
 長政は混戦に強い三人を、織田軍の後方にある横山城に配置して
いた。 

 六月二十七日夜半、両軍は申し合わせたように前進すると、姉川を挟んで対峙した。
 織田軍二万三千が浅井軍に向き合えば、徳川軍六千が朝倉軍と睨みあった。
 明けて二十八日、朝から真っ赤な太陽が顔を出す暑い日になった。
 戦意の旺盛な徳川軍が、夜明けとともに朝倉軍に鉄砲と弓を撃ちかけた。この攻撃に朝倉軍が応戦すると、徳川の先陣小笠原長忠が朝倉軍に向かって撃ちかかっていった。
 待ち構えていた朝倉軍第一陣、朝倉景紀も負けずに打って出る。
 野村邑では浅井軍の先鋒磯野員昌が三千を率いて、織田軍の真中に突入していた。
 磯野は大鎧を纏った騎兵三百人を敵陣の正面から攻め込ませた。この重騎兵が敵陣に錐で穴をあけるように突破すると、その穴に後続部隊が突入して、織田軍の前線を分断した。
 磯野員昌の錐戦法に、織田軍の一陣坂井政尚が破られると、二陣の池田信輝、三陣の木下藤吉郎、四陣の柴田勝家までが切崩された。
「たわけー」
 信長は本陣で見ていて信じられなかった。
 坂井も池田も、激戦を潜った武将である。
 三陣の藤吉郎は敵に機敏に応対できる戦功者だったし、四陣を任された勝家は織田家一の猛将だった。
 その四陣営が磯野員昌の、たった一隊に蹴散らされた。
 辛うじて第五陣の森可成が、磯野隊の猛攻を食い止めた。止めたというよりも人数に差がありすぎた。磯野隊の息切れを見た長政は、第二陣の浅井政澄、三陣の阿閉貞秀、四陣の新庄直頼を続けさまに出撃させた。敵の新手を見た信長も第六陣に控える佐久間信盛を送り出すと、五万人が戦意を剥き出しにして殺しあう大激戦になった。
 横山城を包囲していた丹羽長秀は、小高い丘の上から両軍の死闘を見ていた。
 織田、徳川と朝倉、浅井の旗が入り乱れ、霧のような埃と罵声が大渦を巻いていた。
(―――いまだ)
 大激戦の真只中だと察知した長秀は、横山城を包囲している氏家直元と安藤範俊の二千人を、長く延びた浅井軍の側面に突入させた。
 この攻撃が効いた。
 全神経を敵に向けて殺し合いをしているところを、横から襲われたら防ぎようがなかった。このとき、織田軍の氏家、安藤隊と同じように、横山城に籠もる浅井勢が命懸けで織田軍の背後を攻撃すれば勝敗は分からなかった。
 しかし、横山城の三田村、大野木、野村の部隊は、長政からしつこく攻撃命令を伝達されても、丹羽長秀の包囲網を過剰に恐れ、横山城から打って出なかった。
 織田軍を蹴散らせて進撃していた磯野員昌隊も、一度勢いが止まると立て直せなかった。
 人数に大差があるから、一度崩れると敵に囲まれた錯覚に陥り、山崩れとなって、我先にと小谷城に敗走しだした。
 朝の五時から始まった決戦は、九時を過ぎて、やっと勝敗が決した大激戦だった。  
 勝敗が決った戦場の一角で、老武者の遠藤喜右衛門は疲れた体を槍で支えていた。
 気が付くと鎧が破れ、体の所々に血のりがついていた。
(戦場で息がきれたら、死ぬときだ)
 若い頃からの教訓が現実になった。
 喜右衛門は側にいる才八郎を呼んだ。
「これまでだな」
 乾いた声だった。
 喜右衛門はどかっと地面に座ると、予てから命じていた才八郎に、
「首を討てー」
 と言うと、目を閉じた。
「・・・・・」
 才八郎の顔もほこりで白く乾いていた。
「才八郎、信長の首を獲れ。とるのじゃー」
「・・・・・」
「獲らないと、浅井家が滅ぶ」
 間をおくと、置くほど迷う。意を決した才八郎は、
「ご免―」
 目を閉じて座っている喜右衛門を仰向けに倒すと、右足で喜右衛門の肩を踏んだ。そして左手で顔を押さえると、右手に持っていた太刀の先を地面につけ、刃を喜右衛門の首に当てた。
 当てると同時に、一気に体を重ねた。
 ごぼごぼごぼーと喜右衛門の咽喉が鳴いた。
 その咽喉から堰を切ったように血しぶきが舞うと、才八郎に襲いかかった。
 それは喜右衛門の怨念が、才八郎に乗り移ったようにも見えた。
 才八郎は血まみれの身体で、もう一度刀に全体重を乗せた。
 刃が地面につくと、喜右衛門の首がころっと横を向いて、胴体から離れた。
 胴体と離れた喜右衛門の顔が、生きているように見えた。
 才八郎は顔にかかった血を手で拭うと、髪を乱し、用意していた柴田隊の丸に二雁金紋の指物を取り出した。
 そして、喜右衛門の首を抱かかえると、
「浅井家侍大将、遠藤喜右衛門を討ち取ったー」
 空に向かって雄叫びを上げることで、押さえていた感情を爆発させた。
 生暖かい喜右衛門の首から血が滴り落ちていたが、かまわず織田の本陣目がけて走った。
 首を抱いて走る才八郎の鬼のような形相に、織田兵が道を開けた。
「侍大将、遠藤喜右衛門の首だー」
 才八郎は怒鳴ることで、精神を集中させた。
 前方の分厚い人垣が左右に開いた。
 人垣の真中に織田信長がいた。
 信長は悠然と黒い笠を被り、陣羽織を纏って床几に腰をかけていた。
 兵隊が殺しあっている世界とは、違う空間に信長がいた。
 その信長の目が僅かに動いた。
(―――遠藤喜右衛門だと)
 信長は、与えた脇差を受け取らなかった小柄な老武者を思い出した。
 信長が床几から立ち上がった。
「殿―、遠藤喜右衛門の首ですぞ」
 才八郎は左手に抱いていた喜右衛門の首を見せながら、右手の太刀を握りなおした。
 信長が前に出てきた。
 才八郎が信長に近づこうとしたとき、若武者が立ちはだかった。
「まてー」
 鎧を身に付けていたが、才八郎が溝に落ちたとき、槍を突きつけた近習だった。
「待て、それ以上、前に出てはならん」
 その近習と目が合った。
「おまえはー」
 仙千代と呼ばれた近習が、驚いて言った。
 才八郎は止まらなかった。
 猛然と信長に駆け寄ると、切りかかった。
 刀は空を流れた。
 もう一度刀を振り上げようとしたら、焼け付くような熱いものが何本も才八郎の身体を貫いていた。
 
 姉川の合戦は織田、徳川軍の死者八百人に対し、浅井、朝倉軍の死者は千七百余人で、織田、徳川軍の勝利に終わった。
 遠藤喜右衛門が危惧したように、この合戦を機に浅井、朝倉家は威勢を失い、数年後に滅亡した。

                                       
                           了
   

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