獅子王の運命の番は、捨てられた猫獣人の私でした

天音ねる(旧:えんとっぷ)

文字の大きさ
14 / 42

温かさを求めて2


それは、かつて自分が、愛する夫のために心を込めて作った、あの料理の匂いによく似ていた。牛肉と、香味野菜と、赤ワインがじっくりと煮込まれた、芳醇で、温かな香り。
ミミは、まるで魔法にでもかかったかのように、その匂いに引き寄せられるように、無意識のうちに足を進めていた。

匂いの元は、大通りから少し入ったところにある、一軒の小さな食堂だった。
『森の恵み亭』と書かれた、素朴な木の看板。
窓からは、温かなオレンジ色の光が漏れ、中からは楽しげな人々の笑い声が聞こえてくる。
ミミは、ショーウィンドウに飾られた料理の見本に、釘付けになった。
湯気の立つビーフシチュー、こんがりと焼かれた鳥の丸焼き、色とりどりの野菜が添えられた肉厚のステーキ。
そのどれもが、今のミミにとっては、手の届かない夢の世界の食べ物だった。

ふと、店内の様子が目に入る。
窓際のテーブルでは、小さな子供を連れた家族連れが、幸せそうに食事をしていた。父親らしき狼獣人が、シチューの肉を小さく切って、息子の皿に乗せてやっている。母親らしき兎獣人は、その様子を、愛おしそうに見守っていた。
かつての、自分の姿が、そこに重なる。
いつか、ガロウとの間に子供が生まれたら、きっと、こんな風に、温かい食卓を囲むのだろう。
そう、信じて疑わなかった、あの頃の自分が。

「…………っ!」

胸が、張り裂けそうに痛んだ。
見ていられない。
こんな幸せな光景は、今の自分には、あまりにも眩しすぎて、残酷すぎる。

ミミは、その場から逃げ出すように、踵を返した。
涙が、溢れそうになるのを必死でこらえる。
人々の幸せそうな声が聞こえない場所へ。誰の視線も届かない、暗い場所へ。
彼女は、まるで何かに追われるように、近くにあった、薄暗く、じめじめとした裏路地へと、転がり込むように駆け込んだ。

どん、と背中を壁に打ち付ける。
そのまま、ずるずると、その場に崩れ落ちた。
もう、一歩も、動けない。
指の先から、急速に力が失われていく。
視界が、ぐにゃりと歪み、白く霞んでいく。

(ああ…ここで、終わりなんだ…)

遠のく意識の中、ミミはぼんやりと思った。
故郷を捨て、王都まで来たけれど、結局、何も変わらなかった。どこへ行っても、私に居場所なんてなかったんだ。

(おばあちゃん…ごめんなさい…)

最後に、優しい祖母の顔が浮かんだ。
生きてさえいれば、温かい陽の差す日が来ると、そう言ってくれた。

(私…もう、頑張れないよ…)

心の中で、そう謝罪した、その時だった。

「――お嬢ちゃん、大丈夫かい?」

不意に、頭の上から、声が降ってきた。
低く、少ししゃがれていて、それでいて、不思議な温かみと、芯の通った力強さを感じさせる、女の声だった。
ミミは、ほとんど動かなくなった首を、最後の力を振り絞って、ゆっくりと、ゆっくりと、持ち上げた。

逆光の中に、誰かが立っていた。
山のように、大きな影。
目が霞んで、はっきりと姿を捉えることはできない。けれど、その影は、まるで後光でも差しているかのように、温かく、大きく見えた。

「こんなところで寝てたら、風邪ひくどころか、悪い奴らに何をされるか分かったもんじゃないよ」

声の主は、呆れたように、しかし、その口調とは裏腹に、どこか心配そうな声音で続けた。

ミミは、かすむ目で、必死に目の前の影に焦点を合わせようとする。
ようやく見えてきたのは、自分が見上げるほどに背の高い、恰幅のいい、熊獣人の女性の姿だった。
日に焼けた健康そうな肌。働き者であることを示す、太く、逞しい腕。年季の入った、少し汚れたエプロン。そして、深いシワが刻まれた目元で、こちらを心配そうに覗き込んでいる、優しい、茶色い瞳。

「…ひでぇ顔だねぇ」

女性は、ミミの惨状を見ても、驚くでもなく、眉をひそめるでもなく、ただ、ため息をついた。

「こりゃ、腹が減ってるだけじゃなさそうだ。どこか、悪いのかい?」

ミミは、何か答えようとした。
大丈夫です、と。放っておいてください、と。
しかし、喉はカラカラに乾ききり、唇はひび割れて、ひゅう、ひゅう、と、か細い息が漏れるだけだった。

ミミがもう、返事をする力も残されていないことを悟ると、女性は、「ったく、しょうがないねぇ」と、もう一度、今度は諦めたように呟いた。
そして、屈強な熊獣人ならではの、しかし、予想外に優しい手つきで、ミミの額にそっと触れた。

「…おやまあ、ひどい熱じゃないか。こりゃいけない」

そう言うと、彼女は、次の瞬間、いともたやすく、ミミの体をその太い腕の中へと抱え上げた。
まるで、軽い毛布でも持ち上げるかのように。

「え…?」

あまりに突然のことに、ミミの意識が一瞬だけ、はっきりと覚醒する。
しかし、抵抗する力など、どこにも残されていなかった。

「ちょっと我慢しなよ。すぐに温かい場所に連れてってやるからさ」

ぶっきらぼうな、けれど、不思議なほど安心できる声。
ミミの体は、その女性の、分厚い胸板に、すっぽりと包まれる。
ごつごつしているけれど、温かい。
石鹸と、そして、先ほど嗅いだ、あの美味しそうなシチューの匂いが、その人からはした。

女性は、ミミを抱きかかえたまま、しっかりとした足取りで、薄暗い裏路地から、明るい通りへと歩き出す。
ミミの薄れゆく意識が、最後に捉えたのは、カラン、という、軽やかで、優しい、店の扉のベルの音だった。

(…あったかい…)

その温もりに包まれながら、ミミの意識は、安堵に満たされた、深く、静かな闇の中へと、静かに、静かに、落ちていった。
感想 25

あなたにおすすめの小説

竜帝は番に愛を乞う

浅海 景
恋愛
祖母譲りの容姿で両親から疎まれている男爵令嬢のルー。自分とは対照的に溺愛される妹のメリナは周囲からも可愛がられ、狼族の番として見初められたことからますます我儘に振舞うようになった。そんなメリナの我儘を受け止めつつ使用人のように働き、学校では妹を虐げる意地悪な姉として周囲から虐げられる。無力感と諦めを抱きながら淡々と日々を過ごしていたルーは、ある晩突然現れた男性から番であることを告げられる。しかも彼は獣族のみならず世界の王と呼ばれる竜帝アレクシスだった。誰かに愛されるはずがないと信じ込む男爵令嬢と番と出会い愛を知った竜帝の物語。

一途な皇帝は心を閉ざした令嬢を望む

浅海 景
恋愛
幼い頃からの婚約者であった王太子より婚約解消を告げられたシャーロット。傷心の最中に心無い言葉を聞き、信じていたものが全て偽りだったと思い込み、絶望のあまり心を閉ざしてしまう。そんな中、帝国から皇帝との縁談がもたらされ、侯爵令嬢としての責任を果たすべく承諾する。 「もう誰も信じない。私はただ責務を果たすだけ」 一方、皇帝はシャーロットを愛していると告げると、言葉通りに溺愛してきてシャーロットの心を揺らす。 傷つくことに怯えて心を閉ざす令嬢と一途に想い続ける青年皇帝の物語

救世の結界師マールちゃん~無能だと廃棄されましたが、敵国で傭兵のおっさん達に餌付けされてるので、今さら必要と言われても戻りません~

ぽんぽこ@3/28新作発売!!
ファンタジー
「ウチの子、可愛いうえに最強すぎるんだが――!?」 魔の森の隣、辺境伯家。 そこで八歳のメイド・マールは、食事も与えられず“要らない人間”として扱われていた。 ――そしてある日ついに、毒と魔獣の禁忌領域《魔の森》へ捨てられてしまう。 「ここ……どこ?」 現れた魔獣に襲われかけたその瞬間。 救いに現れたのは――敵国の”イケオジ”傭兵隊だった。 「ほら、食え」 「……いいの?」 焚き火のそばで差し出された“温かいお粥”は、マールに初めての「安心」と「ごはん」を教えてくれた。 行き場を失った幼女は、強面のおじさん傭兵たちに餌付けされ、守られ、少しずつ笑えるようになる―― そんなシナリオだったはずなのに。 旅の途中、マールは無意識に結界を張り、猛毒の果実を「安全な食べ物」に変えてしまう。 「これもおいしいよ、おじさん!食べて食べて!」 「ウチの子は天才か!?」 ただ食べたいだけ。 だけどその力は、国境も常識もくつがえす。 これは、捨てられた欠食幼女が、敵国でお腹いっぱい幸せになりながら、秘められた力で世界を巻き込んでいく物語。 ※若干の百合風味を含みます。

この度、青帝陛下の運命の番に選ばれまして

四馬㋟
恋愛
蓬莱国(ほうらいこく)を治める青帝(せいてい)は人ならざるもの、人の形をした神獣――青龍である。ゆえに不老不死で、お世継ぎを作る必要もない。それなのに私は青帝の妻にされ、后となった。望まれない后だった私は、民の反乱に乗して後宮から逃げ出そうとしたものの、夫に捕まり、殺されてしまう。と思ったら時が遡り、夫に出会う前の、四年前の自分に戻っていた。今度は間違えない、と決意した矢先、再び番(つがい)として宮城に連れ戻されてしまう。けれど状況は以前と変わっていて……。

【完結】身勝手な旦那様と離縁したら、異国で我が子と幸せになれました

綾雅(りょうが)要らない悪役令嬢
恋愛
腹を痛めて産んだ子を蔑ろにする身勝手な旦那様、離縁してくださいませ! 完璧な人生だと思っていた。優しい夫、大切にしてくれる義父母……待望の跡取り息子を産んだ私は、彼らの仕打ちに打ちのめされた。腹を痛めて産んだ我が子を取り戻すため、バレンティナは離縁を選ぶ。復讐する気のなかった彼女だが、新しく出会った隣国貴族に一目惚れで口説かれる。身勝手な元婚家は、嘘がバレて自業自得で没落していった。 崩壊する幸せ⇒異国での出会い⇒ハッピーエンド 元婚家の自業自得ざまぁ有りです。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2022/10/07……アルファポリス、女性向けHOT4位 2022/10/05……カクヨム、恋愛週間13位 2022/10/04……小説家になろう、恋愛日間63位 2022/09/30……エブリスタ、トレンド恋愛19位 2022/09/28……連載開始

わたしさえいなければ、完璧な王太子だそうです。

ふらり
恋愛
人並外れた美貌・頭脳・スタイル・武勇を持つウィンダリア王国の25歳の王太子は、完璧な王太子だと言われていた。ただし、「婚約者さえいなければ完璧な王太子なのに」と皆が言う。12歳の婚約者、ヴァイオレット・オルトニーは周囲から憐みの目を向けられていた。 「私との婚約は、契約で仕方なくなのかい? もう私に飽きてしまっている? 私は今でも君にこんなに夢中なのに」 13歳年下の婚約者少女に執着溺愛する美貌も能力も人間離れした王太子様と、振り回される周囲のお話です。小説家になろうにて完結しております。少しずつこちらにもあげていくつもりです。ファンタジー要素はちょっぴりです。

吹雪の中に捨てられた「無能」な私、最果ての死神伯爵に拾われてとろとろに愛される ~今更戻れと言われても、私は彼の太陽になると決めたので!〜

みみ
恋愛
​王都で「聖女の出がらし」と蔑まれてきたロザリーは、婚約者の王子と実の姉に裏切られ、魔物が蠢く極寒の辺境へと捨てられた。 ​死を覚悟した彼女を救い上げたのは、「氷の死神」と恐れられる辺境伯・ヴァンドレッド。 冷徹な瞳を持つ彼は、なぜかロザリーを離宮に閉じ込め、驚くほどの熱量で溺愛し始めて――!?

無能令嬢、『雑役係』として辺境送りされたけど、世界樹の加護を受けて規格外に成長する

タマ マコト
ファンタジー
名門エルフォルト家の長女クレアは、生まれつきの“虚弱体質”と誤解され、家族から無能扱いされ続けてきた。 社交界デビュー目前、突然「役立たず」と決めつけられ、王都で雑役係として働く名目で辺境へ追放される。 孤独と諦めを抱えたまま向かった辺境の村フィルナで、クレアは自分の体調がなぜか安定し、壊れた道具や荒れた土地が彼女の手に触れるだけで少しずつ息を吹き返す“奇妙な変化”に気づく。 そしてある夜、瘴気に満ちた森の奥から呼び寄せられるように、一人で足を踏み入れた彼女は、朽ちた“世界樹の分枝”と出会い、自分が世界樹の血を引く“末裔”であることを知る——。 追放されたはずの少女が、世界を動かす存在へ覚醒する始まりの物語。