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トラブルと運命1
その夜の「森の恵み亭」は、まるでお祭りの前夜のような熱気に包まれていた。
週末の金曜日ということもあり、店内は早い時間から満席だった。日雇いの仕事を終えた屈強な熊獣人の職人たちがエールを飲み交わし、市場の商人たちがその日の儲けを陽気に語り合う。非番の若い衛兵たちは、ミミの作った甘いデザートを頬張りながら、上官の愚痴をこぼしていた。様々な種族の、様々な人生がこの小さな食堂で交差し、活気という名の温かいスープのように、店全体をぐつぐつと煮詰めていた。
「ミミ、悪いけど五番テーブルにスープを頼むよ!」
「はい、ただいま!」
ミミは厨房とホールを、蝶のように軽やかに舞いながら働いていた。ターニャが屈強な腕で振るう巨大なフライパンから立ち上る香ばしい煙を浴び、常連客たちの気さくな声援を背中に受ける。その目まぐるしい忙しさの中には、かつての孤独な日々を忘れさせてくれる確かな充実感があった。
そんな喧騒の只中にあって、店の奥、いつもの窓際テーブルだけは、まるでスポットライトを浴びた舞台のように、静寂な空気を纏っていた。
そこに座っているのは、もちろんあの男だった。
今日は珍しく、いつもより少しだけ早い時間から、彼はそこにいた。深くフードを目深にかぶり、その巨躯を微動だにさせず、ただテーブルに置かれた水差しを静かに見つめている。周囲の馬鹿騒ぎなどまるで存在しないかのように、彼の周りだけが、濃密な静けさで満たされていた。
ミミは注文の品を運びながら、何度か彼の姿を盗み見た。
(レオンさん、今日はどうして早い時間から…)
心の中でだけ呼ぶことを許された、彼の特別な名前。その存在が、この喧騒の中にあるというだけで、ミミの心は不思議と落ち着き、そして、ほんの少しだけ浮き立つような気持ちになるのだった。まるで、嵐の海に浮かぶ、揺るぎない灯台のように。
「女将さん!こっちのテーブル、名物のビーフシチューを大鍋で一つ頼むぜ!」
店の隅で一際大きな声が上がった。ドワーフの鉱夫の一団だった。彼らはこの店のシチューが大好物で、給金日には仲間たちとこうして大鍋で注文するのが常だった。
「あいよ!ミミ、頼んだよ!」
厨房からターニャの威勢のいい声が飛ぶ。
「はい、かしこまりました!」
ミミは店の看板メニューである大鍋のシチューを用意するため、厨房へと駆け込んだ。かまどの火でことことと煮込まれ続けた寸胴鍋の蓋を開けると、芳醇な香りと共に、もうもうと湯気が立ち上る。牛肉は繊維がほろりと崩れるほど柔らかく煮込まれ、ソースは深い琥珀色に輝いていた。
ミミは両手で持つタイプの、ずしりと重い陶器の大鍋に、その熱々のシチューをたっぷりと注いでいく。鍋の縁までなみなみと注がれたそれは、大人の男が数人がかりで食べるほどの量があった。
「よし…」
ミミは両手で鍋の取っ手をしっかりと掴み、慎重に持ち上げた。熱い。ずしりとした重みが、彼女の華奢な腕にのしかかる。
彼女は息を止め、一歩、また一歩と、慎重に厨房からホールへと足を踏み出した。テーブルとテーブルの間の狭い通路を、まるで薄氷の上を歩くように、ゆっくりと進んでいく。客たちの陽気な笑い声や、食器の触れ合う音が、やけに遠くに聞こえた。
ドワーフたちのテーブルまで、あと数歩。
そう思った、まさにその時だった。
「おい、もっと飲めよ!」
「へへ、まだいけるぜ!」
ミミのすぐ横のテーブルで、酔いの回った猪獣人の二人組が、ふざけ合って互いの肩を乱暴に突き飛ばした。そのうちの一人が、大きくぐらりと体勢を崩す。
そして、その巨体が、ミミの小さな背中に、横から、まともにぶつかってきた。
「あっ…!」
ミミの喉から、短い悲鳴が漏れた。
突然の衝撃に、彼女の華奢な体は、いともたやすくバランスを失う。視界が、ぐにゃりと大きく傾いた。
手の中の、ずしりと重い大鍋が、彼女のコントロールを離れ、宙へと踊り出る。熱いシチューが、鍋の中で大きく揺らめき、その一部が燃えるような飛沫となってミミの腕に降りかかった。
「熱っ…!」
焼けるような痛みに、ミミの手から、完全に力が抜ける。
大鍋は、スローモーションのように、ゆっくりと、ゆっくりと、彼女自身の体めがけて、落下を始めた。鍋の中に満たされた、灼熱のシチューと共に。
もう、だめ。
避けられない。
ミミは、恐怖に固く目をつぶった。全身に大火傷を負うであろう、次の瞬間の激痛を覚悟する。
しかし。
衝撃は、いつまで経ってもやってこなかった。
代わりに、ミミの体は、まるで岩のように硬く、それでいて、不思議なほど温かい何かに、背後から、ぐっと力強く抱き寄せられていた。
ごつり、と後頭部が、誰かの分厚い胸板に当たる。
そして、ミミの顔のすぐ横を、信じられないほど大きな腕が、影のように素早く伸びていった。
次の瞬間、ミミの耳元で、肉が焼ける、恐ろしい音がした。
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週末の金曜日ということもあり、店内は早い時間から満席だった。日雇いの仕事を終えた屈強な熊獣人の職人たちがエールを飲み交わし、市場の商人たちがその日の儲けを陽気に語り合う。非番の若い衛兵たちは、ミミの作った甘いデザートを頬張りながら、上官の愚痴をこぼしていた。様々な種族の、様々な人生がこの小さな食堂で交差し、活気という名の温かいスープのように、店全体をぐつぐつと煮詰めていた。
「ミミ、悪いけど五番テーブルにスープを頼むよ!」
「はい、ただいま!」
ミミは厨房とホールを、蝶のように軽やかに舞いながら働いていた。ターニャが屈強な腕で振るう巨大なフライパンから立ち上る香ばしい煙を浴び、常連客たちの気さくな声援を背中に受ける。その目まぐるしい忙しさの中には、かつての孤独な日々を忘れさせてくれる確かな充実感があった。
そんな喧騒の只中にあって、店の奥、いつもの窓際テーブルだけは、まるでスポットライトを浴びた舞台のように、静寂な空気を纏っていた。
そこに座っているのは、もちろんあの男だった。
今日は珍しく、いつもより少しだけ早い時間から、彼はそこにいた。深くフードを目深にかぶり、その巨躯を微動だにさせず、ただテーブルに置かれた水差しを静かに見つめている。周囲の馬鹿騒ぎなどまるで存在しないかのように、彼の周りだけが、濃密な静けさで満たされていた。
ミミは注文の品を運びながら、何度か彼の姿を盗み見た。
(レオンさん、今日はどうして早い時間から…)
心の中でだけ呼ぶことを許された、彼の特別な名前。その存在が、この喧騒の中にあるというだけで、ミミの心は不思議と落ち着き、そして、ほんの少しだけ浮き立つような気持ちになるのだった。まるで、嵐の海に浮かぶ、揺るぎない灯台のように。
「女将さん!こっちのテーブル、名物のビーフシチューを大鍋で一つ頼むぜ!」
店の隅で一際大きな声が上がった。ドワーフの鉱夫の一団だった。彼らはこの店のシチューが大好物で、給金日には仲間たちとこうして大鍋で注文するのが常だった。
「あいよ!ミミ、頼んだよ!」
厨房からターニャの威勢のいい声が飛ぶ。
「はい、かしこまりました!」
ミミは店の看板メニューである大鍋のシチューを用意するため、厨房へと駆け込んだ。かまどの火でことことと煮込まれ続けた寸胴鍋の蓋を開けると、芳醇な香りと共に、もうもうと湯気が立ち上る。牛肉は繊維がほろりと崩れるほど柔らかく煮込まれ、ソースは深い琥珀色に輝いていた。
ミミは両手で持つタイプの、ずしりと重い陶器の大鍋に、その熱々のシチューをたっぷりと注いでいく。鍋の縁までなみなみと注がれたそれは、大人の男が数人がかりで食べるほどの量があった。
「よし…」
ミミは両手で鍋の取っ手をしっかりと掴み、慎重に持ち上げた。熱い。ずしりとした重みが、彼女の華奢な腕にのしかかる。
彼女は息を止め、一歩、また一歩と、慎重に厨房からホールへと足を踏み出した。テーブルとテーブルの間の狭い通路を、まるで薄氷の上を歩くように、ゆっくりと進んでいく。客たちの陽気な笑い声や、食器の触れ合う音が、やけに遠くに聞こえた。
ドワーフたちのテーブルまで、あと数歩。
そう思った、まさにその時だった。
「おい、もっと飲めよ!」
「へへ、まだいけるぜ!」
ミミのすぐ横のテーブルで、酔いの回った猪獣人の二人組が、ふざけ合って互いの肩を乱暴に突き飛ばした。そのうちの一人が、大きくぐらりと体勢を崩す。
そして、その巨体が、ミミの小さな背中に、横から、まともにぶつかってきた。
「あっ…!」
ミミの喉から、短い悲鳴が漏れた。
突然の衝撃に、彼女の華奢な体は、いともたやすくバランスを失う。視界が、ぐにゃりと大きく傾いた。
手の中の、ずしりと重い大鍋が、彼女のコントロールを離れ、宙へと踊り出る。熱いシチューが、鍋の中で大きく揺らめき、その一部が燃えるような飛沫となってミミの腕に降りかかった。
「熱っ…!」
焼けるような痛みに、ミミの手から、完全に力が抜ける。
大鍋は、スローモーションのように、ゆっくりと、ゆっくりと、彼女自身の体めがけて、落下を始めた。鍋の中に満たされた、灼熱のシチューと共に。
もう、だめ。
避けられない。
ミミは、恐怖に固く目をつぶった。全身に大火傷を負うであろう、次の瞬間の激痛を覚悟する。
しかし。
衝撃は、いつまで経ってもやってこなかった。
代わりに、ミミの体は、まるで岩のように硬く、それでいて、不思議なほど温かい何かに、背後から、ぐっと力強く抱き寄せられていた。
ごつり、と後頭部が、誰かの分厚い胸板に当たる。
そして、ミミの顔のすぐ横を、信じられないほど大きな腕が、影のように素早く伸びていった。
次の瞬間、ミミの耳元で、肉が焼ける、恐ろしい音がした。
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