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後悔の始まり 09/09加筆修正
その頃、王都の煌びやかな貴族街の一角。
騎士団長としての功績とイザベラとの婚姻により、念願の王都栄転を果たしたガロウ・シュヴァルツの新しい屋敷は、夜の闇の中で沈黙していた。
ミミを追い出した地方の官舎とは比べ物にならないほど豪華なはずの家は、しかし主の心を映すかのように冷たく閉ざされている。
カチャリと重い音を立てて扉が開いた。
一日の激務を終えたガロウが、鉛のように重い体を引きずって中に入る。
その瞬間、彼の鼻腔を不快な匂いが突き刺した。
飲み残された高級ワインの酸っぱい匂い。甘ったるくむせ返るような数種類の香水。そして食べ散らかされた料理が放つ、微かな腐敗臭。それら全てが混じり合い、淀んだ空気となって屋敷の中に充満していた。
「……ひどいな」
思わず低い声で悪態が漏れる。
リビングの光景は、彼の想像をさらに超えていた。
豪華な絨毯の上には、高価な酒瓶が無造作に転がっている。テーブルには、ほとんど手も付けられていない料理の皿が、ソースをこびりつかせたまま放置されていた。クッションは床に散らばり、誰が脱ぎ捨てたのか、レースのショールがきらびやかなシャンデリアに引っかかっている。
イザベラがまた、友人たちを呼んで夜通しパーティーを開いていたのだ。
そのことはすぐに分かった。
ミミが大切に磨き上げていた銀の花瓶は、指紋でべたべたに曇っていた。壁にかけられた風景画には、誰かがふざけて飛ばしたのだろう、クリームのようなものが付着している。
かつてこの家を満たしていた、清潔で穏やかな空気は、もはや一片たりとも残されてはいなかった。
ガロウは苛立ちを隠さず、大きな音を立てて扉を閉めた。
その物音に気づいたのか、二階の寝室から、ゆったりとした足音が聞こえてくる。やがて、けばけばしい絹のガウンをまとったイザベラが、あくびをしながら階段を降りてきた。
「あら、お帰りなさいガロウ様」
その声には、夫を労わる響きなど微塵もなかった。ただ、眠りを妨げられたことへの不機嫌さだけが滲んでいる。
「ああ、今帰った。この惨状は、一体どういうことだ」
ガロウは、リビングの惨状を顎でしゃくりながら、低い声で問いただした。
「まあ、ご覧の通りですわ。友人たちと、少しだけお茶会をしていただけよ」
「これが、少しだけか。後片付けもせずに、皆帰ったのか」
「ええ、そうよ。わたくし、とても疲れてしまって。明日、メイドにやらせれば済むことでしょう?」
イザベラは、さも当然のように言い放つ。
彼女にとって、この家は自分の享楽のための舞台装置でしかない。それを維持するための手間など、考えたこともないのだ。
ガロウの眉間の皺が、さらに深くなる。
騎士団長としての激務。部下たちの信頼を失いつつある焦り。
ミミを一方的に離縁したことは、騎士たちの間で「番を捨てる非道な行い」として密かに囁かれていた。
家柄の良いイザベラと結ばれた手前、表立って非難する者はいなかったが、かつて彼に向けられていた尊敬の念は、今や侮蔑と不信の色を帯び始めている。その冷ややかな視線が、彼のプライドを日々苛んでいた。
そして、家に帰ればこの有様。彼の神経は、もう限界まですり減っていた。
「食事は、まだなんだが」
絞り出すように言うと、イザベラは心底面倒くさそうに、大きくため息をついた。
「わたくしに、お料理をお望みですの?ご冗談でしょう?わたくしは、あなた様のために、夜会の準備や、社交で忙しいのですわ。厨房に立つ時間など、ございませんことよ」
「……そうか」
「ええ、そうですわ。何かお食べになりたいのでしたら、ご自分で、パンでもお探しになったらいかが?」
そう言って、イザベラはひらひらと手を振った。そして、ガロウの疲れ切った顔など見向きもせず、再び優雅に階段を上っていく。
「わたくしは、もう休みますわ。おやすみなさいませ」
その背中が、寝室の扉の向こうに消えていく。
パタン、と閉まる無慈悲な扉の音だけが、広すぎるリビングに虚しく響き渡った。
一人、残される。
静寂が、耳に痛いほどだった。
この家に、自分を待っていてくれる者は、誰もいない。
その冷たい事実が、鈍器のように、ガロウの心を殴りつけた。
彼は、力なくリビングのソファに腰を下ろそうとして、やめた。クッションの上には、べったりと、赤い口紅の跡がついていたからだ。
舌打ちを一つすると、彼は、重い足取りで厨房へと向かった。
かつて、ミミが毎日、愛情を込めて料理をしていた、あの場所へ。
厨房もまた、パーティーの残骸で溢れていた。
洗い物が、シンクに山と積まれている。床には、砕けたグラスの破片が散らばっていた。
あの女は、メイドにやらせればいいと、そう言った。
だが、そのメイドを雇う金が、もう底を尽きかけていることを、彼女は知らない。イザベラの浪費は、ガロウの予想を遥かに超えていた。高価なドレス、宝石、夜ごとのパーティー。シュヴァルツ家の財産は、この一年で、見る影もなく食いつぶされていたのだ。
ガロウは、無意識のうちに、パンケースを開けた。
中には、昨日焼かれたのであろう、硬くなったパンが、一つだけ、ぽつんと残されている。
彼は、それを無言で取り出すと、皿にも乗せず、そのまま、大きくかじりついた。
パサパサとして、味気ない。
ただ、空腹を満たすためだけの、餌のような食事。
その時だった。
ふと、彼の脳裏に、ある光景が、鮮やかに蘇った。
騎士団長としての功績とイザベラとの婚姻により、念願の王都栄転を果たしたガロウ・シュヴァルツの新しい屋敷は、夜の闇の中で沈黙していた。
ミミを追い出した地方の官舎とは比べ物にならないほど豪華なはずの家は、しかし主の心を映すかのように冷たく閉ざされている。
カチャリと重い音を立てて扉が開いた。
一日の激務を終えたガロウが、鉛のように重い体を引きずって中に入る。
その瞬間、彼の鼻腔を不快な匂いが突き刺した。
飲み残された高級ワインの酸っぱい匂い。甘ったるくむせ返るような数種類の香水。そして食べ散らかされた料理が放つ、微かな腐敗臭。それら全てが混じり合い、淀んだ空気となって屋敷の中に充満していた。
「……ひどいな」
思わず低い声で悪態が漏れる。
リビングの光景は、彼の想像をさらに超えていた。
豪華な絨毯の上には、高価な酒瓶が無造作に転がっている。テーブルには、ほとんど手も付けられていない料理の皿が、ソースをこびりつかせたまま放置されていた。クッションは床に散らばり、誰が脱ぎ捨てたのか、レースのショールがきらびやかなシャンデリアに引っかかっている。
イザベラがまた、友人たちを呼んで夜通しパーティーを開いていたのだ。
そのことはすぐに分かった。
ミミが大切に磨き上げていた銀の花瓶は、指紋でべたべたに曇っていた。壁にかけられた風景画には、誰かがふざけて飛ばしたのだろう、クリームのようなものが付着している。
かつてこの家を満たしていた、清潔で穏やかな空気は、もはや一片たりとも残されてはいなかった。
ガロウは苛立ちを隠さず、大きな音を立てて扉を閉めた。
その物音に気づいたのか、二階の寝室から、ゆったりとした足音が聞こえてくる。やがて、けばけばしい絹のガウンをまとったイザベラが、あくびをしながら階段を降りてきた。
「あら、お帰りなさいガロウ様」
その声には、夫を労わる響きなど微塵もなかった。ただ、眠りを妨げられたことへの不機嫌さだけが滲んでいる。
「ああ、今帰った。この惨状は、一体どういうことだ」
ガロウは、リビングの惨状を顎でしゃくりながら、低い声で問いただした。
「まあ、ご覧の通りですわ。友人たちと、少しだけお茶会をしていただけよ」
「これが、少しだけか。後片付けもせずに、皆帰ったのか」
「ええ、そうよ。わたくし、とても疲れてしまって。明日、メイドにやらせれば済むことでしょう?」
イザベラは、さも当然のように言い放つ。
彼女にとって、この家は自分の享楽のための舞台装置でしかない。それを維持するための手間など、考えたこともないのだ。
ガロウの眉間の皺が、さらに深くなる。
騎士団長としての激務。部下たちの信頼を失いつつある焦り。
ミミを一方的に離縁したことは、騎士たちの間で「番を捨てる非道な行い」として密かに囁かれていた。
家柄の良いイザベラと結ばれた手前、表立って非難する者はいなかったが、かつて彼に向けられていた尊敬の念は、今や侮蔑と不信の色を帯び始めている。その冷ややかな視線が、彼のプライドを日々苛んでいた。
そして、家に帰ればこの有様。彼の神経は、もう限界まですり減っていた。
「食事は、まだなんだが」
絞り出すように言うと、イザベラは心底面倒くさそうに、大きくため息をついた。
「わたくしに、お料理をお望みですの?ご冗談でしょう?わたくしは、あなた様のために、夜会の準備や、社交で忙しいのですわ。厨房に立つ時間など、ございませんことよ」
「……そうか」
「ええ、そうですわ。何かお食べになりたいのでしたら、ご自分で、パンでもお探しになったらいかが?」
そう言って、イザベラはひらひらと手を振った。そして、ガロウの疲れ切った顔など見向きもせず、再び優雅に階段を上っていく。
「わたくしは、もう休みますわ。おやすみなさいませ」
その背中が、寝室の扉の向こうに消えていく。
パタン、と閉まる無慈悲な扉の音だけが、広すぎるリビングに虚しく響き渡った。
一人、残される。
静寂が、耳に痛いほどだった。
この家に、自分を待っていてくれる者は、誰もいない。
その冷たい事実が、鈍器のように、ガロウの心を殴りつけた。
彼は、力なくリビングのソファに腰を下ろそうとして、やめた。クッションの上には、べったりと、赤い口紅の跡がついていたからだ。
舌打ちを一つすると、彼は、重い足取りで厨房へと向かった。
かつて、ミミが毎日、愛情を込めて料理をしていた、あの場所へ。
厨房もまた、パーティーの残骸で溢れていた。
洗い物が、シンクに山と積まれている。床には、砕けたグラスの破片が散らばっていた。
あの女は、メイドにやらせればいいと、そう言った。
だが、そのメイドを雇う金が、もう底を尽きかけていることを、彼女は知らない。イザベラの浪費は、ガロウの予想を遥かに超えていた。高価なドレス、宝石、夜ごとのパーティー。シュヴァルツ家の財産は、この一年で、見る影もなく食いつぶされていたのだ。
ガロウは、無意識のうちに、パンケースを開けた。
中には、昨日焼かれたのであろう、硬くなったパンが、一つだけ、ぽつんと残されている。
彼は、それを無言で取り出すと、皿にも乗せず、そのまま、大きくかじりついた。
パサパサとして、味気ない。
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その時だった。
ふと、彼の脳裏に、ある光景が、鮮やかに蘇った。
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