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ナンパ撃退
彼の、犬としての優れた聴覚が捉えている。
あの、店の隅の、暗い影の中から聞こえてくる、地獄の釜が開くような、低い、低い、唸り声を。
彼の、優れた嗅覚が、嗅ぎ取っている。
あの影の中から、発せられる、血と、鉄と、そして、王族の獅子だけが放つ、濃厚な死の匂いを。
青年が、ぎ、ぎ、ぎ、と、錆びついたブリキ人形のように、ゆっくりと、その視線を、恐怖の発生源へと向ける。
そこには、フードを目深にかぶった、大柄な男が、静かに座っていた。
そして、そのフードの、暗闇の、さらに奥で。
二つの、黄金の光が、まるで、溶岩のように、どろりと、燃え上がっていた。
それは、間違いなく、自分に向けられていた。
『その女から、手を、離せ』
『さもなくば、その腕を、根元から、食い千切る』
声は聞こえない。
しかし、その黄金の瞳は、確かに、そう語っていた。
「ひっ…!」
青年の喉から、潰れたような、短い悲鳴が漏れた。
彼は、ミミの肩から、火傷でもしたかのように、勢いよく手を離すと、もつれる足で、数歩、後ずさる。
そして、ミミにも、勘定の残りにも、目もくれず、脱兎のごとく、店の出口へと駆け出した。
「わ、悪かった!ごめん、なさいッ!」
意味不明の謝罪の言葉を叫びながら、彼は、転がるようにして、店の外へと、逃げ出していった。
その背中は、完全に、獲物に怯える、敗残者のそれだった。
何事も、なかったかのように。
青年が、店の外へと消えた瞬間、店内に張り詰めていた、あの絶対的な恐怖の波動は、すうっと、嘘のように消え失せた。
後に残されたのは、あっけにとられた客たちと、何が起きたのか、まったく理解できていないミミだけだった。
「…え…?な、なんだったの、今の…?」
残された青年の仲間たちも、顔を見合わせるばかりだ。
ミミは、ただ、呆然と、青年が消えていった扉を、見つめていた。
あれほど、陽気で自信に満ちていた人が、なぜ、あんなにも、何かに怯えて、逃げ出していったのだろう。
彼女の頭は、混乱でいっぱいだった。
ふと、ミミは、ある、可能性に思い至った。
そして、おそるおそる、店の隅のあの席へと、視線を送る。
そこには、レオンハルトが、いつの間にかスープを飲み干し、静かに、席を立つところだった。
彼は、いつも通り、テーブルに代金の銀貨を置く。
ミミの視線に気づいたのだろうか。
彼は一瞬だけ動きを止めた。
そして、ミミの方をちらりと見たが、すぐに、まるで、バツが悪い子供のように、ぷいと、顔をそむけた。
そして、何も言わず、いつもより少しだけ、足早に店の扉へと向かい、夜の闇の中へと、消えていった。
カラン。
ドアベルの、澄んだ音が、やけに、大きく響く。
ミミは、その大きな背中を見送ることしかできなかった。
彼の、去り際の気まずそうな横顔。
そして、ミミには確かに見えたのだ。
彼の、フードの影からのぞいていた、耳の先がほんのりと赤く染まっていたのを。
あの、不思議な威圧感が、彼から発せられたものだとは、ミミは、まだ、確信するには至らない。
しかし、あの青年が、彼を恐れて逃げていったのだとしたら。
それは、もしかして。
自分のために、彼が怒ってくれた、ということなのだろうか。
その、考えに至った瞬間、ミミの胸の奥で、小さな、温かいものが、ぽん、と弾けた。
それは、恐怖でもなく、戸惑いでもない。
もっと、甘くて、少しくすぐったいような、初めての感情だった。
彼の、意外な、そして、少しだけ不器用な一面を垣間見てしまったこと。
その事実に、ミミの心臓は、知らず知らずのうちに、小さく、そして、愛おしげに、ときめいていることを彼女自身はまだ気づいていなかった。
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