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逃亡と絶望の森1
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ざあ、と世界が泣いているような音がした。
激しい雨が、エーデルガルド王城の神殿塔にある私の部屋の窓ガラスを、ひっきりなしに打ち叩いている。分厚い防音魔法が施された窓だというのに、その音は心の隙間から染み入るように耳の奥まで届いてくる。
「聖女リリアンナ様、万歳!」
「我らが聖女様の祈りのおかげで、今年も豊作だ!」
「ああ、リリアンナ様! どうか、私の病の父にも御慈悲を!」
遠く、城下の広場から聞こえてくる民衆の熱狂的な声。それは本来、感謝と敬愛の言葉のはずだった。けれど今の私には、ただ自分を苛む呪詛のようにしか聞こえない。耳を塞ぎ、豪華だが冷たいベッドの上で蹲る。シルクのシーツが肌に触れる感触さえ、今は不快でしかなかった。
私の名前はリリアンナ。このエーデルガルド王国で、ただ一人の『聖女』。
生まれながらに神から聖なる力を授かり、その祈りによって国に豊穣をもたらし、魔物や厄災から人々を守る存在。国民からはそう信じられ、神聖なものとして崇められている。
けれど、その実態は違う。
私は、国の安寧を保つための『生きた祭具』だ。
幼い頃に聖女として見出されて以来、この神殿塔の最上階にある鳥籠のような部屋から一歩も出ることを許されず、ただひたすらに祈りを捧げることだけを宿命づけられてきた。家族の温もりも、友と笑い合う時間も知らない。窓から見える華やかな王都の景色は、私にとって永遠に手の届かない絵画と同じだった。
「もう、祈れない……」
か細い声が、唇からこぼれ落ちた。
誰に聞かせるでもない、魂の悲鳴。
私の祈りは万能ではない。この力は、私の生命そのものを燃料にして燃え上がる、儚い灯火のようなものだ。祈れば祈るほど、心と体は内側から削られ、すり減っていく。日照りが続けば雨を乞われ、疫病が流行れば浄化を求められ、魔物が国境を脅かせば守護の結界を願われる。際限なく押し寄せる期待と要求に、私の魂はとうの昔に燃え尽きてしまっていた。
『いいかい、リリアンナ。聖女はね、決して自分のために祈ってはいけないんだよ』
ふと、先代の聖女様が遺した言葉が脳裏をよぎる。私がまだ幼かった頃、唯一の話し相手であり、母親代わりでもあった優しい人。彼女は、力を使い果たして枯れ木のように痩せ細り、私の腕の中で静かに息を引き取った。国民に惜しまれながらも、その死の真相を知る者はほとんどいない。あれが、私の未来の姿なのだ。
民衆の歓声が、また一段と大きくなる。
「リリアンナ様!」「聖女様!」
やめて。そんな風に呼ばないで。
私は、あなたたちが期待するような、完璧な聖女なんかじゃない。
私の祈りでは、救えない命だってたくさんあった。日照りで枯れていく作物を前に涙を流す農夫の姿も、疫病で家族を失い悲しみにくれる子供の顔も、私の脳裏に焼き付いて離れない。祈りが届けば感謝され、届かなければ私の力が足りないと嘆かれる。その繰り返しに、もう耐えられなかった。
ぷつり。
心の中で、何かが切れる音がした。
今まで私を縛り付けていた、見えない鎖。責任感、義務感、聖女としての矜持。そういったものが、粉々に砕け散る感覚。
気づけば私は、ベッドから転がり落ちるように立ち上がっていた。衝動的に、窓辺へ駆け寄る。重い窓を押し開けると、湿った夜風が雨粒と共に部屋の中へ吹き込んできた。頬を濡らすのが雨なのか涙なのか、もうわからなかった。
眼下には、手入れの行き届いた神殿の庭が広がっている。その先には高い塀がそびえ、城の出口は屈強な衛兵たちが固めているだろう。逃げられるはずがない。普通なら、そう考えるはずだった。
けれど、今の私の心には、恐怖も打算もなかった。
ただ、ここではないどこかへ行きたい。
この息苦しい鳥籠から、逃げ出したい。
その一心だけが、凍てついた心を動かす唯一の熱源だった。
薄いシルクの寝間着一枚のまま、私は窓枠に足をかけた。大理石の冷たさが、素足に突き刺さる。ドレスでもなく、聖女の装束でもない、無防備な姿。それが今の私には、何より自由の証のように思えた。
高く聳える神殿塔。ここから飛び降りれば、きっと助からないだろう。
それでもいい。
このままここで心を殺して生き続けるより、ずっといい。
私は目を閉じ、躊躇なく夜の闇へと身を投げた。
風が全身を叩き、一瞬、体が宙に浮く。落下する恐怖よりも、ようやく解放されるという恍惚感が勝っていた。しかし、私のちっぽけな覚悟は、いとも容易く裏切られる。
「ぐっ……!」
衝撃と共に、全身を鋭い痛みが襲った。どうやら私は、庭に植えられていた生垣の分厚い茂みの上に落ちたらしい。無数の枝が体に食い込み、棘が柔肌を引き裂いたが、命に別状はなさそうだった。
神は、私に死ぬことさえ許してはくれないのか。
絶望が再び胸をよぎる。だが、その瞬間。
「何者だ!」
「聖女様の部屋の窓が開いているぞ!」
「侵入者か! 探せ!」
激しい雨が、エーデルガルド王城の神殿塔にある私の部屋の窓ガラスを、ひっきりなしに打ち叩いている。分厚い防音魔法が施された窓だというのに、その音は心の隙間から染み入るように耳の奥まで届いてくる。
「聖女リリアンナ様、万歳!」
「我らが聖女様の祈りのおかげで、今年も豊作だ!」
「ああ、リリアンナ様! どうか、私の病の父にも御慈悲を!」
遠く、城下の広場から聞こえてくる民衆の熱狂的な声。それは本来、感謝と敬愛の言葉のはずだった。けれど今の私には、ただ自分を苛む呪詛のようにしか聞こえない。耳を塞ぎ、豪華だが冷たいベッドの上で蹲る。シルクのシーツが肌に触れる感触さえ、今は不快でしかなかった。
私の名前はリリアンナ。このエーデルガルド王国で、ただ一人の『聖女』。
生まれながらに神から聖なる力を授かり、その祈りによって国に豊穣をもたらし、魔物や厄災から人々を守る存在。国民からはそう信じられ、神聖なものとして崇められている。
けれど、その実態は違う。
私は、国の安寧を保つための『生きた祭具』だ。
幼い頃に聖女として見出されて以来、この神殿塔の最上階にある鳥籠のような部屋から一歩も出ることを許されず、ただひたすらに祈りを捧げることだけを宿命づけられてきた。家族の温もりも、友と笑い合う時間も知らない。窓から見える華やかな王都の景色は、私にとって永遠に手の届かない絵画と同じだった。
「もう、祈れない……」
か細い声が、唇からこぼれ落ちた。
誰に聞かせるでもない、魂の悲鳴。
私の祈りは万能ではない。この力は、私の生命そのものを燃料にして燃え上がる、儚い灯火のようなものだ。祈れば祈るほど、心と体は内側から削られ、すり減っていく。日照りが続けば雨を乞われ、疫病が流行れば浄化を求められ、魔物が国境を脅かせば守護の結界を願われる。際限なく押し寄せる期待と要求に、私の魂はとうの昔に燃え尽きてしまっていた。
『いいかい、リリアンナ。聖女はね、決して自分のために祈ってはいけないんだよ』
ふと、先代の聖女様が遺した言葉が脳裏をよぎる。私がまだ幼かった頃、唯一の話し相手であり、母親代わりでもあった優しい人。彼女は、力を使い果たして枯れ木のように痩せ細り、私の腕の中で静かに息を引き取った。国民に惜しまれながらも、その死の真相を知る者はほとんどいない。あれが、私の未来の姿なのだ。
民衆の歓声が、また一段と大きくなる。
「リリアンナ様!」「聖女様!」
やめて。そんな風に呼ばないで。
私は、あなたたちが期待するような、完璧な聖女なんかじゃない。
私の祈りでは、救えない命だってたくさんあった。日照りで枯れていく作物を前に涙を流す農夫の姿も、疫病で家族を失い悲しみにくれる子供の顔も、私の脳裏に焼き付いて離れない。祈りが届けば感謝され、届かなければ私の力が足りないと嘆かれる。その繰り返しに、もう耐えられなかった。
ぷつり。
心の中で、何かが切れる音がした。
今まで私を縛り付けていた、見えない鎖。責任感、義務感、聖女としての矜持。そういったものが、粉々に砕け散る感覚。
気づけば私は、ベッドから転がり落ちるように立ち上がっていた。衝動的に、窓辺へ駆け寄る。重い窓を押し開けると、湿った夜風が雨粒と共に部屋の中へ吹き込んできた。頬を濡らすのが雨なのか涙なのか、もうわからなかった。
眼下には、手入れの行き届いた神殿の庭が広がっている。その先には高い塀がそびえ、城の出口は屈強な衛兵たちが固めているだろう。逃げられるはずがない。普通なら、そう考えるはずだった。
けれど、今の私の心には、恐怖も打算もなかった。
ただ、ここではないどこかへ行きたい。
この息苦しい鳥籠から、逃げ出したい。
その一心だけが、凍てついた心を動かす唯一の熱源だった。
薄いシルクの寝間着一枚のまま、私は窓枠に足をかけた。大理石の冷たさが、素足に突き刺さる。ドレスでもなく、聖女の装束でもない、無防備な姿。それが今の私には、何より自由の証のように思えた。
高く聳える神殿塔。ここから飛び降りれば、きっと助からないだろう。
それでもいい。
このままここで心を殺して生き続けるより、ずっといい。
私は目を閉じ、躊躇なく夜の闇へと身を投げた。
風が全身を叩き、一瞬、体が宙に浮く。落下する恐怖よりも、ようやく解放されるという恍惚感が勝っていた。しかし、私のちっぽけな覚悟は、いとも容易く裏切られる。
「ぐっ……!」
衝撃と共に、全身を鋭い痛みが襲った。どうやら私は、庭に植えられていた生垣の分厚い茂みの上に落ちたらしい。無数の枝が体に食い込み、棘が柔肌を引き裂いたが、命に別状はなさそうだった。
神は、私に死ぬことさえ許してはくれないのか。
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