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一章 別れと出会い
1、あの日の夢
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ひんやりとした感情が胸に流れ込んでくる。
困惑、恐怖、嫌悪、失望、怒り。
それらが綯い交ぜになった結果、母親のくちから飛び出すことばをゆめはもう知っていた。
「あたしのことをわかったような目で見ないで!」
怒鳴る母親に、父親が眉をひそめる。
「そんな言い方はないだろう、お前の子だぞ」
なだめるような口調でありながら、そこににじむ感情はやっぱり冷ややかだ。
呆れ、失望、不安、疑念。
ゆめがはっきり感じ取れるそれらを母親は感じられない。そのはずだけれど、父親の態度から何かを察したのだろう。
母親のとがった感情の矛先が父親に向かう。
「なによ、あなた! あなたは朝から晩まで家をあけて、この子の相手なんかろくにしないからそんなことが言えるのよっ」
「それは! お前がしばらく子育てに専念したいって言うから!」
育児に関わっていない自覚はあったのだろう、図星を刺された父親の動揺を突くように母親が怒鳴る。
「あたしだって、こんな子だって知ってたらさっさと保育園でもどこでも入れたわよ! こんな、こんなひとの心が読める化け物なんて……!」
色濃い恐怖に染まった声がゆめを怯えさせる。母親は恐怖を打ち消すように、怒りの感情ですべてを塗りつぶす。
「どうしてこの子はふつうじゃないの。ふつうの子ならあたしだってかわいがったのに。こんな子だってわかってたら仕事だって辞めずにいて、今頃はもっと昇進してたのに……!」
ぶつぶつと呟くように言う母親の胸に渦巻く感情は、恐怖、嫌悪、否定、拒絶。ゆめが言語化できないだけで、いくつもいくつもの負の感情ばかりがあふれてくる。
「お前が決めたことなんだから、俺は関係ないだろ」
そこへ、父親の呆れまじりの声が油を注いだ。
かっと燃えあがる母親の感情の波に、ゆめは部屋のすみでびくりと体をふるわせた。
「なにが関係ないよ! あなたの子なんだからね。あなたが面倒見なさいよ!」
「そんなことできるわけないだろ。俺には仕事があるんだぞ!」
怒鳴り合う声は、ゆめの胸に燃えるような熱と痛みをもたらす。
その痛みは両親の感情の強さのせいだけではない、彼らが発したことば自体が、幼いゆめの胸をずたずたに傷つけひどい痛みを与えていたのだ。
ゆめは、ただただ耳をふさいでうずくまることしかできない。いつも、いつもそうやって耐えてきた。
母親がわめき、叫び、まき散らす感情に震えて耐えることだけが自分を守る術だった。
(つめたい、こわい、かなしい……でも、わたしがわるいんだ。わたしがおかあさんたちをこわがらせてるから……)
冷え切った感情の渦のなかで震えるゆめの元に、不意にやわらかな光が射す。
「ゆめちゃんはわたしたちが引き取ります」
やわらかな、けれどしっかりとした声が両親の怒声を貫いた。
強い声に宿るのは、ゆめを思いやり心配し、守ろうと決意する温かな感情。
じんわりとにじむような温かさを感じたゆめの肩に、しわだらけの手がそっと乗せられた。背中には、かさついて熱い手のひらが添えられる。
流れ混んでくる慈しみの感情が、ゆめの心をじわじわと温めてくれる。
「おばあちゃん、おじいちゃん……」
幼いゆめのつぶやきに祖母はにっこり笑って、祖父はかすかにうなずいた。
「ゆめちゃんの親権はわたしとおじいさんがもらいます」
凛とした祖母の声に続くはずの両親のことばは、もう覚えていない。
ただ、ゆめを抱え上げてくれた祖父の手の温かさと、タクシーに乗り込んでからゆめを抱きしめた祖母が流した涙の透き通った光だけは、いまでも思い出せる。
~~~
(ああ、またあの日の夢を見たんだ)
目を覚ました星宮ゆめは、ひりつく目尻に手をやってそうっと息をついた。
両親の離婚から十四年。いまだに、両親と暮らした家での最後の記憶を夢に見る。
ゆめの両親が離婚したのは、ゆめが物心ついてしばらくのこと。原因は父親の不倫ということになっているけれど、本当は違う。
母親がゆめを『心を読む化け物』と言って育児を放棄し、そのせいで父親と不仲になり、離婚の手続きをはじめたことで不倫が発覚したのだ。
(いっそわたしが心を読めたなら、お母さんの気持ちを逆なでしないよう振舞えたかもしれないのに……)
そう願ったところでゆめにひとの心を読む力などない。あるのは、ただひとの感情を感じ取りやすいという特技とも言えないような特技。
意識を向けた相手が抱える感情を受け取って、我がことのように感じるだけの半端な特性。
覚えたてのことばを使いたい一心で母親の抱く感情を次々に露わにしてしまった代償として、ゆめは両親を失い生まれ育った家を無くしたのだった。
困惑、恐怖、嫌悪、失望、怒り。
それらが綯い交ぜになった結果、母親のくちから飛び出すことばをゆめはもう知っていた。
「あたしのことをわかったような目で見ないで!」
怒鳴る母親に、父親が眉をひそめる。
「そんな言い方はないだろう、お前の子だぞ」
なだめるような口調でありながら、そこににじむ感情はやっぱり冷ややかだ。
呆れ、失望、不安、疑念。
ゆめがはっきり感じ取れるそれらを母親は感じられない。そのはずだけれど、父親の態度から何かを察したのだろう。
母親のとがった感情の矛先が父親に向かう。
「なによ、あなた! あなたは朝から晩まで家をあけて、この子の相手なんかろくにしないからそんなことが言えるのよっ」
「それは! お前がしばらく子育てに専念したいって言うから!」
育児に関わっていない自覚はあったのだろう、図星を刺された父親の動揺を突くように母親が怒鳴る。
「あたしだって、こんな子だって知ってたらさっさと保育園でもどこでも入れたわよ! こんな、こんなひとの心が読める化け物なんて……!」
色濃い恐怖に染まった声がゆめを怯えさせる。母親は恐怖を打ち消すように、怒りの感情ですべてを塗りつぶす。
「どうしてこの子はふつうじゃないの。ふつうの子ならあたしだってかわいがったのに。こんな子だってわかってたら仕事だって辞めずにいて、今頃はもっと昇進してたのに……!」
ぶつぶつと呟くように言う母親の胸に渦巻く感情は、恐怖、嫌悪、否定、拒絶。ゆめが言語化できないだけで、いくつもいくつもの負の感情ばかりがあふれてくる。
「お前が決めたことなんだから、俺は関係ないだろ」
そこへ、父親の呆れまじりの声が油を注いだ。
かっと燃えあがる母親の感情の波に、ゆめは部屋のすみでびくりと体をふるわせた。
「なにが関係ないよ! あなたの子なんだからね。あなたが面倒見なさいよ!」
「そんなことできるわけないだろ。俺には仕事があるんだぞ!」
怒鳴り合う声は、ゆめの胸に燃えるような熱と痛みをもたらす。
その痛みは両親の感情の強さのせいだけではない、彼らが発したことば自体が、幼いゆめの胸をずたずたに傷つけひどい痛みを与えていたのだ。
ゆめは、ただただ耳をふさいでうずくまることしかできない。いつも、いつもそうやって耐えてきた。
母親がわめき、叫び、まき散らす感情に震えて耐えることだけが自分を守る術だった。
(つめたい、こわい、かなしい……でも、わたしがわるいんだ。わたしがおかあさんたちをこわがらせてるから……)
冷え切った感情の渦のなかで震えるゆめの元に、不意にやわらかな光が射す。
「ゆめちゃんはわたしたちが引き取ります」
やわらかな、けれどしっかりとした声が両親の怒声を貫いた。
強い声に宿るのは、ゆめを思いやり心配し、守ろうと決意する温かな感情。
じんわりとにじむような温かさを感じたゆめの肩に、しわだらけの手がそっと乗せられた。背中には、かさついて熱い手のひらが添えられる。
流れ混んでくる慈しみの感情が、ゆめの心をじわじわと温めてくれる。
「おばあちゃん、おじいちゃん……」
幼いゆめのつぶやきに祖母はにっこり笑って、祖父はかすかにうなずいた。
「ゆめちゃんの親権はわたしとおじいさんがもらいます」
凛とした祖母の声に続くはずの両親のことばは、もう覚えていない。
ただ、ゆめを抱え上げてくれた祖父の手の温かさと、タクシーに乗り込んでからゆめを抱きしめた祖母が流した涙の透き通った光だけは、いまでも思い出せる。
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(ああ、またあの日の夢を見たんだ)
目を覚ました星宮ゆめは、ひりつく目尻に手をやってそうっと息をついた。
両親の離婚から十四年。いまだに、両親と暮らした家での最後の記憶を夢に見る。
ゆめの両親が離婚したのは、ゆめが物心ついてしばらくのこと。原因は父親の不倫ということになっているけれど、本当は違う。
母親がゆめを『心を読む化け物』と言って育児を放棄し、そのせいで父親と不仲になり、離婚の手続きをはじめたことで不倫が発覚したのだ。
(いっそわたしが心を読めたなら、お母さんの気持ちを逆なでしないよう振舞えたかもしれないのに……)
そう願ったところでゆめにひとの心を読む力などない。あるのは、ただひとの感情を感じ取りやすいという特技とも言えないような特技。
意識を向けた相手が抱える感情を受け取って、我がことのように感じるだけの半端な特性。
覚えたてのことばを使いたい一心で母親の抱く感情を次々に露わにしてしまった代償として、ゆめは両親を失い生まれ育った家を無くしたのだった。
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