夢喰うあやかし 悪食ヒアイ

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二章 惑いと選択

3、申し訳ありませんでした

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 ゆめがひかりの部屋に駆け込んだときには、室内は無人だった。
 大学は休みだがひかりは仕事なのかもしれない。あるいは社交的なひかりのことだ、友人と出かけているのかもしれなかった。

(ひかりちゃん、いないんだ)

 しんと静まり返った部屋に出迎えられてほっと息をついたゆめは、シャワーを浴びて手早く身支度を整える。
 いまひかりに会えば、遅くなると連絡しただけで無断外泊をしたことを叱られると身構えていただけに安堵は大きかった。
 問題との直面を先延ばしにしただけだとゆめにもわかっている。けれど、いまははじめたばかりのアルバイトに遅刻しないことが優先だ、と街を駆ける。

(そういえば、ひかりちゃんからの連絡が一つも無かったな)

 アルバイト先に向かう電車のなか、時間を確認するために取りだしたスマホに目を落としてゆめは気が付いた。
 ヒアイと出会った夜、帰宅の遅くなったゆめにひかりは何度も何度もメールを送り電話をかけてきたけれど、昨夜はそれがまったくない。

(もしかして許してくれたのかな)

 淡い希望を抱いてはみるものの、ゆめは自身でその希望を否定する。

(ううん、わたしが送ったメールに返事もくれなかったんだもの。きっとひかりちゃん、怒ってるんだ。だからメールも電話も来ないんだ)

 あれほど口うるさく言って来ていたひかりが連絡をいっさいしてこないことに言いようのない気持ち悪さを感じながらも、ゆめはアルバイト先に急いだ。
 勤務先の店舗がある駅に到着する間際、スマホの画面を確認すると出勤時間まであと十五分ある。

(間に合った)

 そう思いながら店の裏口の扉をくぐる。
 すぐ目に入った先輩アルバイトの女性にゆめは声をかけた。

「おはようございます! 今日もよろしくお願いします」
「あれっ、星宮さん?」

 いつもであれば「よろしくね」と明るく笑い返してくれる女性店員は、ゆめの顔を見て目を丸くする。その瞬間に向けられた感情は『驚き』。
 予想外の感情を抱く女性に、ゆめは嫌な予感がした。
 売り場のほうにちらりと視線をやった彼女は、すばやくゆめに近寄ってきて顔を寄せる。

「アルバイトやめたんじゃなかったの? 今朝になって急に『もう星宮ゆめは出勤しません』って連絡があったって、店長すっごい怒ってたよ」
「えっ」

 ささやくような声は、店長に気づかれないようにという彼女なりの配慮だろう。驚いたゆめが声をあげるのを唇の前に指を立ててみせた彼女は、早口で続ける。

「なんか星宮さんの保護者です、って名乗ったらしいけど。心当たりある?」
「あり、ます……」

(ひかりちゃんだ……)

 呆然と答えたゆめに、女性はあちゃー、と額に手をあてて天を仰いだ。

「そっかー。なんかね、店長が『本人から申告してもらわないと了承できません』って答えたのに『だったら警察に訴えます。契約時間外に未成年を働かせる店だ、って言いますよ』って返したらしくって。店長も気が短いもんだからさあ『じゃあもう来てもらわなくて結構です!』って言っちゃったらしくってさー」

 だから代わりに急遽あたしがシフトに入ったのよねー、と続いたことばに、ゆめは慌てて頭を下げた。正直、聞かされた話でいっぱいいっぱいになってはいたが、目の前の彼女に迷惑をかけたことには変わりない。

「あのっ、すみませんでした! ご迷惑をおかけして」
「ううん、いいのいいの。星宮さんもなんか大変みたいだし。……でもねぇ」

 いつもひとの良い笑顔を浮かべている彼女が、ふと表情を暗くした。
 途端に流れ込む感情もひやりと温度を変えるものだから、ゆめはびくりと肩を震わせる。

「店長の機嫌損ねられると、あたしたちも迷惑なのよね。だから、気づかれる前に帰ってくれる? 仕事用のエプロンなら、あたしが受け取っとくからさ」

 ことばとともに届いた『迷惑』という感情が、ゆめの心をちくちくと刺す。
 憐憫や同情を多分に含んではいるけれど、存在そのものを迷惑に感じられていることがゆめを確実に傷つけていた。

(店長に謝らなきゃ……申し訳ありませんでした、って言って、ひかりちゃんが怒ったのは帰る時間が遅くなったからだって契約どおりにしてもらえるように約束して、それで時間内は精一杯働きますから続けさせてくださいって言って……)

 頭のなかで自分がとるべき行動をなぞりながら、ゆめは震える唇を開く。

「あの……じゃあ、よろしくお願い、します……その、申し訳ありませんでした……」

 思考とは裏腹に、体は勝手に仕事用のエプロンと従業員証を女性に差し出し頭を下げていた。
 手渡されたときのパリッとした生地が保たれたままのエプロンを手放す情けなさに打ちのめされながらも、ゆめはこの場所から逃れられるならばと懸命に頭を下げ続ける。

 迷惑、不快、嫌悪。
 ゆめに向けられた感情は、幼いころに両親と別れたときに向けられたそれらを思い出させた。足元が一瞬にして崩れ落ち、別れの日から積み重ねてきた時間もひととの触れ合いもすべて飛び越えてゆめを絶望させる。

「はいはい、店長に渡しておくから」

 そっけないことばと共に手の中のエプロンが無くなった。
 顔をあげられないまま女性に背を向けたゆめは、力の入らない手で裏口の扉を押し開けた。

「さよなら」

 別れのあいさつは素っ気なく、そこに乗せられた感情は無関心と安堵。
 自身が居なくなることを喜ぶひとを前にして、ゆめののどがぐっと詰まる。

「お世話に、なりました……」

 どうにかそれだけ口にすると、目の前で扉がばたんと音を立てて閉まった。
 ほんの今さっきまでアルバイト先だった場所は、一瞬でゆめにとって無関係な場所に変わってしまう。重く、冷たい扉を見つめていたゆめは、ふらふらと階段に向かった。
 ついさっき駆け登ってきた従業員用の階段は暗く冷ややかだ。

(まるで奈落の底につながってるみたい……)

 重い足を引きずるように、ゆめは階段を下っていった。
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