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十三の春、明朝
しおりを挟む「ユウくーん!」
俺のベッドのすぐそばでひなたが騒ぐ。
つないだ手がもぞもぞと動きだした段階で目を覚ましていた俺は、重いまぶたを押し上げて枕元の時計に目をやる。
「……四時、二十二分……」
嘘だろ、という気持ちでもぐり直そうとしていた布団が、消失した。いいや、ひなたが布団を奪い取ったのだ。
襲い来る寒さに吹き飛ばされる眠気。
それでも精いっぱいの抵抗を見せようと、ベッドの上で膝を抱えた俺の腕がぐいぐい引っ張られる。
「朝だよ、起きてよ! あたしの制服姿、見たげてよー!」
うるさい声に俺はまぶたを開けるもんか、と意固地になった。
見なくてもわかる、となりのベッドに座ったひなたが、俺を起こそうと騒いでいるのだ。
「ひなた、ベッドの間のカーテンはめくらない約束だろ」
ひとつの部屋に並べられた俺とひなたのベッド。
その二つを隔てるカーテンは、布切れ一枚のたよりない境界だけれど、俺とひなたが同室で暮らすために作られた大切なルールでもある。
だというのにひなたはおかまいなし。
カーテン越しにつないだ手をぶんぶんと振り回してくれる。
「だってかわいいよ? ネクタイの色、赤色なんだよ。かわいい服を着たらユウくんに一番に見せなきゃでしょ!」
遠慮のない動作に、カーテンは激しくめくりあげられているんだろう。
バッサバッサと音がして、風が吹く。
その合間に「ほらあ」とひなたが俺を誘う声。
――ほんとうに、どうしてこんな子に育ったのか……!
観念して俺はまぶたを持ち上げた。
「おはよ、ユウくん!」
「おはよう、ひなた。本当にすごく早いね……」
四時だ。窓にかかるカーテンを閉め切った部屋は薄暗く、カーテンのすき間から射しこむ光はない。
いや、たぶんカーテンを開けていても部屋のなかは薄暗いだろう。なにせ日の出前なのだから。
俺の疲労まじりのあいさつにも、ひなたはお構いなし。
間仕切りがわりのカーテンの下から顔を突き出して、誇らしげに笑ってみせる。
「そうなの! 早いの! だって目が覚めちゃったんだもん。でもね、だってね、楽しみで仕方なかったんだもん。だってだって、今日は中学二年生になってはじめての日でしょう? あたしの人生ではじめての『二年生』なんだよ。今日からあたし、先輩なんだよ!」
輝くような笑顔をはじけさせるひなたをそれ以上、止める気にはなれなかった。
――楽しみにしていたんだもんな、ずっと。
春休みのあいだじゅう、指折り数えるひなたの姿を見ていた俺は、ほほえましさと切なさとを覚えてひなたを見つめる。
「んふふふふふ…………」
喜びに満ちた笑い声がふと途切れた。
同時に、好き放題に振り回していた腕から力が抜け、つないだままの俺の手を巻き込んでベッドに落ちる。
いいや、ベッドどころか空想世界へと、彼女の意識は落ちていた。
「ひなた」
応えはない。ただ、見開かれたままのうつろな瞳が空想世界を映すだけ。
さっきまで楽しげにばたついていたひなたの腕と脚はだらりと下がり、手足はベッドを通り抜けて空想世界にあるのだろう。布地をとぷりと通りぬけて見えなくなっている。
今はまだ沈みきらない身体や頭も、つないだ手を残してじわりじわりと消えていく。
ここではない、空想の世界へ。
「ひなた!」
くったりと力の抜けた身体を抱き抱えて、彼女と額を合わせた。
うつろな瞳に映る世界を覗き込むためだ。
舞い散る薄桃色の花びら。行き交う人影。青く晴れた空の色。
そのただなかに意識を飛ばすひなたには、にぎやかにざわめく人びとの声まで聞こえているのだろうか。
「ひなた、そっちじゃない。ここだよ」
絡めた両手をしっかりと握りしめ、額を合わせたまま目をのぞきこんで呼びかけた。
ぴくり、指先のかすかな反応をとらえて俺は重ねてささやく。
「ここだよ、俺はここにいる」
刷り込むように強く言い聞かせれば、ひなたの虚ろな瞳から幻想の色が、すうっと去って行くのが見えた。
代わりに現れたのは、夜明け前の静けさを乗せた明るい茶色の瞳。
「あ……」
「おかえり、ひなた」
ぼうっと瞬きを繰り返す彼女に笑いかければ、返って来たのははじけるような笑顔。
「ただいま、ユウくん!」
「うん」
首に抱きついてきたひなたの勢いに負けて、俺の身体はベッドに倒れてバウンドする。
逆さまに見える枕元の時計が示す時刻は五時ジャスト。
「まだ朝が早いから、もうひと眠りしよう」
「えー、制服がくしゃくしゃになっちゃうよー」
そう言いながらも、俺のうえに転がるひなたはくすくす笑っている。本当は俺とひなたが同じベッドに寝るのはルール違反だけれど、今は特別。
――もしもまた、沈んでしまってはいけないから。
言い訳を胸のうちでつぶやいて、笑い声といっしょに降ってくる甘やかな吐息ごとひなたを腕に囲い込む。
「なになに、ユウくんてば。せっかくかわいく結べたリボンがぐちゃぐちゃになっちゃうよう」
「あとで結び直してあげるから。だからひなた、俺の手だけは離さないで。俺だけはひなたの手を離さないから。ひなたが沈むときは、俺も……」
口にしかけた願望を最後までは言えずに、ひなたを抱きしめる。
互いの距離が近すぎて、ひなたの表情は見えやしない。
だから、ひなたが目を見開いたことも、震える唇が怯えるように呼吸をひきつらせていたことも、俺は見ないふりをして目を閉じた。
※※※
「おっはよー! おはよう、おはよー!」
となりを歩くひなたは、家を出てから会う人会う人みんなにあいさつをする。
同じ制服を着ている人だけじゃない。スーツを着た人、犬の散歩をしている人。
小学生から働き盛りのお姉さん、腰の曲がったお年寄りまで老若男女、無差別に視界に入ったすべての人に、だ。
「おはよう、ポスト氏! きょうも赤色が目立ってるねえ、だけど今日からはあんたばっかり目立たせはしないよ! あたしだって赤いネクタイの二年生だからね! へいへい!」
訂正。
人だけでなく、道端の無機物にもあいさつをし、絡んでいる。
すれ違う人の好奇の目を感じて、俺は三角コーンに赤色の鮮やかさ対決で挑んでいるひなたを引き寄せた。
「ひなた、離れすぎ。手をつなげなくなっちゃうでしょ」
「あっ。ごめんごめん」
からりと笑ったひなたと絡めた指に力を込めて、顔を寄せる。
「俺を置いて行かないで」
「……うん、わかってる」
笑顔を消したひなたの瞳に、俺となんの変哲もない通学路が映っているのを見ていると。
「道路の真ん中でいちゃつかないでくれる?」
淡々とした声が後ろから投げられた。
「やあ、蓮」
「おっはよー! レンレン!」
振り向きながら俺たちが言えば、背後に立った小柄な少年、神崎蓮が不満げに口をへの字に曲がる。
「レンレンはやめろって言ってるだろ。あとその手の繋ぎ方。もっとほかにやり方は無いの」
レンレン、こと神崎蓮はあからさまに顔をしかめて俺たちの間で繋がれている手に視線をやった。
「ふふ、うらやましいでしょー」
ひなたが得意げに持ち上げた俺たちの手は、お互いの指を絡める、いわゆる恋人つなぎ。
人目のある通りで堂々とそんなつなぎ方をしている理由を蓮はとうに知っているけれど、知っていて今年度も指摘してくれるらしい。
あえて声高に、周囲に聞こえるように。その意図を改めて聞いたことはないけど、俺はこそりと蓮の肩を叩いた。
「助かるよ」
蓮のトゲトゲしい物言いに、周囲の視線がさりげなく外されていく。
ひなたが握った手にぎゅうぎゅう力を入れながら「レンレンありがとねー!」と言うので、ささやいた意味は無くなったが。
「べつに」
ふん、とそっぽを向きながらも蓮が俺の隣に並ぶ。
べつに、と言いながらも周囲の視線を伺っているのが蓮の良いところであり、誤解されやすいところでもある。
――蓮はひなたの次くらいに顔がかわいいんだから、もうちょっと素直になれば取っ付きやすくなるのになあ。
本人に言えば余計なお世話だ、と返されそうなことを思いながら蓮を眺める。
春休みのあいだ会わないうちに小柄な友人の背がぐんと伸びた、ということはなかったようだ。成長を見越して大きめサイズを買ったのだろう制服の袖が、手の甲まで覆っていることに変わりはない。
むしろ休み前より、すこし見下ろしやすくなったような気のするつむじを眺めながら歩いていると、横目でじろりと睨まれた。
「で? 君らはまた休みの間じゅう、部屋にこもって過ごしたわけ?」
「ああ」
「そーだよ! ふたりでね、ユウくんの部屋と家の廊下を使って先輩後輩ごっこしたの!」
にゅ、と顔を突き出して、俺越しに蓮を見たひなたの手が離れてしまわないよう、指を絡め直す。
「何ごっこだって?」
「先輩後輩ごっこだよ!」
蓮の怪訝そうな問いかけに、ひなたの笑顔がはじける。
俺を挟んで満面の笑みとひどい渋面。わけわからないんだけど、と言いたげな蓮の視線があんまりにも厳しいものだから、俺はつい口を挟んでしまう。
「そんなに不可解そうな顔をしないでほしいな、蓮。ひなたは」
「はいはいはい。病院通いで小学生のあいだ学校に行けなかったから、中学生にもなって馬鹿みたいに浮かれてても大目に見てほしいって言うんでしょ。わかってるよ」
俺の言葉をさえぎって対外的に伝えている理由をすらすらと口にした蓮は、言い合えるなり興味をなくしたようにふい、と横を向いた。
ずいぶんとあっさりした態度に首をかしげるまでもなく、まだ残っていた周囲からの好奇の視線がひなたにとって友好的な、もっと言えば同情的なものへと変わったのがわかって、俺は笑ってしまう。
「蓮はやさしいね」
「うんうん、レンレンはやさしーよ! もちょっと笑えばきっともっとかわいいのに」
「はあ? 意味わかんないんだけど。ていうか、君の話はいつもつながりがおかしいんだよ。やさしいからどうしてかわいいに変わるの。もっと考えてから話せって、休み前に言ったよね?」
「うんうん、レンレンの話はちゃあんと聞いてるよ! お姉さんになんでも話してみなさい」
どん、と胸を叩いてみせるひなたに蓮が「はあ?」と不満げな声をもらし、ふたりのやりとりに俺が笑う。
いつもどおりのやりとりをしているうちに学校について、行きあった去年のクラスメイト達が通りすがりに声をかけてくる。
「今年度もそのスタイルでいくんだね」
「木許矢野夫妻は二年になっても熱々だねえ」
「朝からいちゃついちゃってもう」
あいさつに続いて口々に言われるのは、俺たちの絡めあった手のことだ。
けれどからかう響きはあっても馬鹿にするものはないことを確認して、俺はにっこり笑って返す。
「ああ、ありがとう」
照れを見せればいじられる。恥じらいを見せれば隙になる。
そうして去年一年間、堂々と手を繋ぎ続けた結果、俺とひなたは学年公認の恋仲なのだと認識させることに成功したのだ。
――この立ち位置を保つんだ。今年度も、来年度もきっと。
笑顔の裏で俺が密かに決意をしていると、元クラスメイトがひなたに声をかける。
「ひなちゃん、うらやましいなあ。こんなに大切にしてくれる王子さまみたいな彼氏がいて!」
「えっへへー! 照れるなあ」
ひなた自身に俺のような策謀はないだろうけど、明るい性格で難なく受け流してくれたことにほっとしている、暇もなく。
「あ、あ! 見て見てユウくん! 二年一組! ひなたとユウくん同じクラス!」
ぐいぐいと俺の手を引っ張って靴箱前の掲示板へと向かうのだから、油断ならない。手をつないだままぴょんぴょん跳ねるせいで、ひなたの髪がひらひら踊るたび俺の身体もつられて揺れる。
「ああ、今年もひなたと同じクラスだ。蓮の名前もあるな」
「教えてくれなくても見えるけど? なに、僕の身長じゃ見えないだろ、って言いたいの?」
「はは、そんなこと言ってないよ」
「レンレンってばおもしろーい!」
わあわあと騒ぎながら生徒の流れに乗って、二階の教室を目指す。
――今年もひなたとの平穏を守り切れますように。
願いをこめて、つないだ手を握り直した。
※※※
俺たちがついた時には、教室のなかには、すでにほとんどの生徒がそろっていた。
体育館で行われている入学式に顔を出しに行っているため、担任教師はまだ来ていない。
『各自確認のうえ、着席して待つこと』
担任の字だろう指示書きとともに、黒板に貼られた席次表は五十音順ではないらしい。中央最後尾にひなた、その左隣に俺。ひなたの前に蓮が配置されている。
「おおう、ナイス席! 昨年に引き続き、ユウくんのおとなりさんいただきました。ラッキーあたし! 一番うしろでまったりのんびりできるうえに、ユウくんとレンレンに近い場所なんてパーフェクトでは!?」
「良かったな、ひなた」
俺たちは手をつないだまま席につく。
――ラッキーではないんだが、まあそう思ってたほうがうれしいだろう。
真実を知らないまま、ひなたは俺を見ては「はじめまして、ひなたです」と言い、蓮の背中を突いては「ひなたと言います。プリント一枚足りないんですが?」と配りものごっこをして遊んでいる。
実を言うと俺とひなたが隣り合うことは、三年間確定している。
入学前、俺と俺の両親とで学校側にそう頼んだからだ。
もっと言えば俺が左側、ひなたが右側という並びで隣り合うはずだ。俺は両利きにしてあるから問題ないけれど、ひなたは右手でなければうまく文字が書けない、と申告してある。
――理由は精神的な問題で、俺と手をつないでなきゃいけないから。
蓮の席が近いのもおそらくその流れで、昨年仲良くしていたことからくる学校側の配慮というやつだろう。
蓮はきっちりと前を向いて座り、かばんの中身を整理して机に入れている。
――新しい巣箱を点検する小動物のようだな、なんて。
言えばきっと怒らせるだろう、しばらくはそっとしておこうと、俺はひなたに声をかけることにした。
「ひなた、おとなりさんに挨拶はしたのか」
俺とは反対となりの席の生徒に視線を向けて促す。
「そだそだ。おはようからこんばんはまで、あなたのおとなりさん一号の矢野ひなただよ。よろしくね!」
くるりと振り向いたひなたは、うつむいた相手が顔もあげないうちから元気いっぱい、勢いのあるあいさつを繰り出した。
ひなたの右隣に座っていた人物が顔をあげる。
――なんというか、シンプルなひとだな。いや、いっそ地味と言うべきか。
染めていないのだろう真っ黒い髪は首の後ろで無造作にひとつにくくられ、学年共通の長袖長ズボンジャージに包まれた身体は中肉中背。
フチの太い眼鏡をした横顔は、ある意味で目立つが記憶にない。昨年のクラスメイトではないようだ。
――またいちから、ひなたと俺の関係を理解させなきゃいけないのか、面倒だな。
いっそ蓮をその席に配置してくれればよかったのに。胸中で学校への不満を抱いていると。
手元の本に丁寧にしおりを挟んだ相手が、顔を向けてくる。
「おはようございます。どうも、小野千明です」
ずれてもいない眼鏡をなおしながら小野が会釈した。中性的な外見に似合いのハスキーな声だが、たぶん女子なんだろう。たぶん。
彼女はひなたを認識し、その手が俺とつながれていることをちらりと確認すると、視線を手元に戻す。
――無反応か。珍しいってほどでもないけど、ここまで無反応なのは初めてかもな。
例えるならば、道端で自動販売機に目をやる程度の興味の薄さ。
大っぴらにスキンシップを取ることの少ない日本において、公然と手を繋ぐ俺たちは視線を集めやすい。
すれ違う誰もがちらりと目を向けてくるなかで、チクチク刺さる好奇はまだ良い方。相手の虫の居所が悪いと嫌悪すら向けられることもあるのだから、まあ面倒だ。
――つないだ手に気づいてない、わけじゃないな。
関わり合いになりたくないと思われたのか、とも勘ぐったが、それにしては態度が話しかける前と変わらなすぎる。眼鏡でわかりづらいが、表情もまったく変化がないように思う。
――他人に興味がないタイプか? それならそれで好都合だが。
万一、俺が目を離したすきにひなたを傷つけるようなタイプだったら、許し難い。
「小野さん、俺は木許優。ひなたとはいつもいっしょにいるから、これからよろしくね」
さわやかだと評判の笑顔と軽いあいさつでさぐりを入れる。
すると、やはり表情を変えないまま彼女がちいさく頭を下げた。
「よろしくお願いします。おふたりのうわさは以前から耳にしております」
――うわさ?
平坦な声にすこし身構える。
うわさなんてろくなものではないだろう。特に、年中手をつないだまま過ごしている男女に対して中学生がたてるうわさなんて……。
「手をつないだまま行動する、というのはネタとしてすでに過去に有名になったゲームで使用されており、それだけではオリジナリティとして弱いのです」
「ん? なんて?」
首をかしげるひなたの言葉は、まるっきり俺が言いたいことだった。
いま、彼女は何を言ったのだろう。言語としては理解できるはずなのに、話した内容を理解できない。
そんな戸惑いが伝わったのか、眼鏡ごしの視線がちらりとこちらを向く。
「つまりは、おふたりがどれほど特異な行動をとろうとも自分は関知しない、ということです。ただ、ネタとしておいしい部分は利用させていただきますし、自分の助力が必要な折にはどうぞ遠慮なく。無理であればこちらも遠慮なく断りますので」
「あ……うん。わかったよ、ありがとう」
――いや、何もわからないが。
「ありがとー! あたしと千明っち、親友になれる予感!」
す、と本に戻っていった小野の視線を見送って、俺は確信した。
――何もわからないが、こいつは変人だ。それだけはわかる。
間違いなく、ひなたの隣に座る彼女は変人だ。
飛びつくひなたに動じず「いまは読書中です。友好を深めたいとおっしゃるなら、のちほど時間を取りますので」と言っているあたり、かなり変である。「そっかー、おっけー。またあとで!」と笑いながら俺とつないだ手を揺らすひなたはかわいいので、問題ない。
俺とひなたの関係性にまるっきり興味を持たない点でも変人だし、そのくせ自身が助けられるときには手を貸すと言ってくるなど、変人以外の何者でもない。
――でも、ハズレではないな。たぶん。
過度な興味を持たれるよりよほど良い。俺の第一任務はひなたの手を離さないこと。
時には妙は興味と好奇心で、俺たちのことを根掘り葉掘り聞きたがる厄介なやつもいたが、小野はちょっと、いやかなり変だが、ひなたに害はないだろう。
――今年度もどうにか、ひなたが楽しくやれそうかな。
そう思ってわずかに肩の力が抜けたとき。教室に担任教師が入って来た。くたびれた背広がしっくりくる男性教師だ。一言で表すなら『人の良い苦労人』。
「はーい、おはよー。担任の平川です。みんな席ついて……」
「ひなた!」
のんびりとした教師の声をさえぎって、放たれたのはひなたの名前。
びくりと震えたひなたの手を強く握りしめ顔をあげると、担任教師を押しのけて入って来る人影がある。
明るい茶の髪色をした女子生徒がひとり、胸に花飾りがついていることから一年生なのだろう。彼女は明らかにこちらをにらんでいた。
いや、睨んでいるのはひなたのことだ。
――あれは……見たことある顔のような。
記憶の照らし合わせより警戒を優先させて、ひなたを庇えるよう脚に力を込めた。
女子生徒の容姿を見つめる俺の手のなかで、ひなたの指が小刻みに震える。
「やっと見つけた。あんた、なに笑ってんのよ。ひとの家族めちゃくちゃにして、ユウくんのこと縛り付けて、なにひとりだけ幸せそうに笑ってんのよ!」
まっすぐに放たれた言葉はひどく怒りに満ちていた。女子生徒の怒りに気圧され、しんと静まり返った教室のなかに、小さな囁き声がぽつぽつといくつも生まれる。
「なに、どういうこと?」
「家族って……不倫とかそういう?」
「でも叫んでる子も言われた子も中学生でしょ、まさかあの子の親と、ってこと?」
ざわざわざわ。
不快なざわめきに満ちた教室のなか、つないだ手のひらにじっとりと汗がにじむ。
ひなたを連れて退室すべきか、と横目に見たとき、ひなたが目を見開いて呆然とつぶやいた。
「ひより、ちゃん……」
――ああ、そうか。
俺は既視感の正体に気がつく。
ひなたの空想落下症が明らかになるまで、家族ぐるみで付き合いがあった、妹のような女の子。
いや、もっと最近まで。ひなたの中学校入学まで、妹のようにとなりで過ごしていた女の子、矢野ひよりが、見たこともない表情でそこに立っていた。
ふと、目があった。
その瞬間、険しい表情は溶けるように消えて、ひよりの顔にやわらかな笑顔が浮かぶ。
――間違いない、ひよりだ。あんまり怖い顔しているから、わからなかった。
表情が緩んだ一瞬をついて、担任の平川がひよりの前に立ちふさがる。
「その胸の花、一年生か? 教室間違えたんだな。先生が送っていこう」
即座に肩を怒らせたひよりを刺激しないようにか、いつも通りの口調で言って平川は素早く教室の扉を閉めた。
再びわあわあと叫ぶひよりの声は、教室のざわめきに飲まれて不明瞭で、けれど決して良い意味の言葉を口にしているのでは無いと響きでわかる。
「ひよりちゃん……」
笑顔を貼り付けたまま、ひなたの手が俺の手を強く握る。見れば、ひなたの足元の床がじわじわとにじんでいた。空想が広がり始めているんだろう。
「大丈夫だ。この手を離さないで」
落とすものか、と抱き寄せた俺の横にさりげなく立った蓮は、揺らぐひなたの足元を隠してくれているんだろう。
「ありがとう、助かる」
「別に」
俺と蓮とで前と左横を隠し、最後列だから後ろは気にしなくていい。右側だけが人の目にとまる危険があったけれど、そこは椅子に座ったままの小野が壁になっていた。なんとこの状況でも、小野は読書に勤しんでいる。
――わかってやってるわけないだろうけど、助かった。
俺が胸を撫でおろしている間も平川先生はひよりをなだめてすかして、最後は騒ぎを聞きつけたのだろう。一年生の担任らしき女性がやってきて、ひよりを階下へと連れていった。
「はー。若いって怖いわあ」
ぼやきながら戻ってきた平川先生は、くたびれた顔で教室をぐるりと見回す。
教室に残った不穏なざわめきと、何より青ざめたひなたの顔色を心配したのだろう。
「具合が良くなさそうだ。今日は授業もないから、はやめに帰りなさい。木許くんも、家まで付き添ってあげて」
「はい。帰ろう、ひなた」
「うん……」
気遣う声を素直に受けて、俺たちは来たばかりの学校をあとにした。
応援ありがとうございます!
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