魔女の托卵

exa

文字の大きさ
上 下
1 / 30
森のそばの村

おだやかな村を染めあげる

しおりを挟む
 耳に音がふれた気がして、リッテルは顔をあげた。

 家からほど近い森のなか。葉と葉のすきまから射し込む陽の光が、うす暗い森のそこかしこに降っていて、あたりをやわらかい明るさで満たしている。

 ―――気のせいかな。

 しばらく見渡していても、なにも変わったものは見つけられない。すましている耳に聞こえてくるのは小鳥のさえずりや木の葉がざわめく音ばかり。いつも通りの森に安心したリッテルは途中になっていた祈りを済ませるため、ふたたび足元に視線を落としてその場にしゃがんだ。
 ふわり、動きにあわせて濃い土のにおいが舞い上がる。同時にただよう緑のにおいも楽しみながら、リッテルはくちのなかで祈りのことばをつぶやく。

「願いは神のもとへ。祈りは形を成し、我らの力とならん」

言いなれた祈りを唱え「恵みに感謝を」とリッテルは手を伸ばしてきのこをつんだ。ひとつ、ふたつとつんではかごのなかに入れ、次の群生を探して歩き、土から顔を出しているきのこを見つけてはつんでいく。

「いた……」

 不意に軽い痛みを感じた腹部を押さえて、リッテルは足を止めた。
 へそよりもすこし下のあたりが痛む。立っていられないほどではない、けれど確かな痛みがずきり、ずきりとわいてきて、リッテルの表情をくもらせる。

 ―――なにか、変なもの食べたかな。知らない木の実は食べてないし、朝ご飯だって傷んでるふうではなかったし……。

 きのこをつみながら見つけてつまんだ木の実を思い出していると、リッテルの内ももを熱いものが伝い落ちる。
 思わぬ感触におどろいて、もらしてしまったのかと恥ずかしさに顔を赤くしたリッテルは、急ぎ足で駆けこんだ木陰で下ばきを確認して息をのんだ。

 ―――血だ。

 べったりとした赤い色が下ばきを汚していた。驚いてすぐに下ばきを引き上げたけれど、その赤暗い色はリッテルの目に焼き付いた。

 ―――血が出てる。なんで? どこかにひっかけた? けがしてる?

 考えるけれど、思い当たることはない。痛む箇所も、腹の内側以外には感じられない。腹のなかが傷ついているのだろうか、そういう病気があるのだろうか。
 考えてもわからない。けれどどうして血が、なんで腹が痛むのか、そう考えてしまって、リッテルの鼓動は速くなる。胸がどきどきするのに合わせて腹もずきずきと痛む。心なしか、先ほどよりも痛みが増している気がする。
 どきどきとずきずきを抱えて、リッテルが思い出していたのは父親の言いつけだった。

「森でけがをしたときは、すぐに家へ帰っておいで。血の匂いで獣が寄ってくるからな」

 がっしりした手でリッテルの頭をなでる父親の横で、繕いものをしながら母親も言っていた。ひざのうえに広げられているのは、今度の秋祭りでリッテルが着る祝い着だ。

「獣も怖いけれど、ひとりでいつまでも森にいると魔女の呪いをもらうのよ。こわいこわい呪いだって聞くわ」

 おどろおどろしい母親の物言いにおびえるリッテルを抱き寄せて、両親はやさしく言った。

「だから、早く帰っておいで。けがをしていてもしていなくても、転ばないように気を付けて帰っておいで」

 リッテルはきのこの入ったかごを抱きしめると、あわてて森のなかを駆け出した。

 ―――帰らなきゃ。

 やわらかな下草を踏みつけて、張り出した木の根を飛び越える。

 ―――早く、早く帰らなきゃ。

 家に帰り着けば母親がいる。やさしい母親に下ばきについた血のことを伝えれば、きっとすぐに腹をそっとなでてくれる。やさしく「だいじょうぶ」と言ってくれる。そうすればきっと、傷みも血もすぐによくなるに違いない。
 それで治らなくても、頼れる父親がどうにかしてくれる。ことば数は多くないけれど、たくさんのことを知っている父親がきっと助けてくれる。
 そう信じてリッテルは駆けた。

 ドキドキと早鐘を打つ胸は不安のせいなのか、走っているせいなのかわからなくなるほどに駆けた。
 そうして、いくらもしないうちに森の切れ間が見えてきた。
 あたりを包み込むやわらかいうす闇がとぎれ、陽の光がリッテルの目を焼く。まぶしさに一瞬すがめた目を開いたリッテルは、そこに見慣れたわが家を見つけてほっと安心した。
 あたたかい陽射しに包まれた、ちいさな家。ところどころレンガの欠けが目につくうえに、屋根のそばまで這い登った蔦やきしむ玄関扉は気になるところではあるが、それでも家族三人が暮らすには十分な家だ。

 ―――ああ、良かった。

 住み慣れた家を目にしたとたん、リッテルの胸いっぱいにふくらんでいた不安が一気にしぼんでいった。それとともに忘れていた腹の痛みを思い出して、リッテルはそろりと家に向かう。
 近寄ると、玄関扉がすこし開いていた。

 ―――獣が入るからきちんとしめなさい、っていつもうるさいのに。お母さんったら。

 母親に会ったら、いつも言われていることを言ってやろう。不安のなかにちいさないたずら心が生まれる。
 母親の口調をまねして言って、それから腹痛と下ばきについた血のことを相談しよう。それでなんてことなかった、と笑ってきのこのシチューをいっしょに作って食べて。

「お母さん、ただいま」

 穏やかな日常を思い浮かべながら扉に手をかけ呼びかけたけれど、返事がない。

「お母さん……?」

 あまりに静かすぎる家のなかにリッテルは違和感を覚えた。何より、異臭がした。わずかに開いた扉のすき間から、あたたかな臓物のにおいがむわりと漏れ出ている。父親が罠にかかったうさぎの腹をさばいたときに立ち上ったにおいに、よく似ていた。

「お父さん?」

 父親が大きな獲物を捕まえて、さばいた残り香かもしれない。そんな願いを込めたリッテルの呼びかけに返る声はない。ただ、いやなにおいと静けさだけが家じゅうに満ちている。

 ―――血抜きに失敗して、お母さんとふたりで夢中で処理してるのかもしれない。……村一番の腕利きだって言われるお父さんが? ううん、だれかに解体のやり方を教えているのかも。そう、きっとそう。

 自分に言い聞かせながら恐る恐る扉を開き、家のなかに足を踏み入れたリッテルは、自分の信じていた平穏が息絶えたことを知った。

 せまい家のなか、見渡す限りを染めているのは赤黒い血。いつも家族がそろって食事をとるテーブルにも暖炉にも、母親が大切にしているお気に入りの壁掛けの織物にも、父親が仕留めた大きな熊の毛皮にも、べったりとまとわりついている。
 そして、その血をまき散らしたのは獣などではなく、リッテルの母親と父親だった。

 母親は、玄関扉のすぐそばにうつ伏せで倒れていた。いつもきれいに結わえてある髪は途中で無残に切り落とされ、ばさりと乱れて血の池に広がっている。髪の毛とともに背中も切られたらしく、右肩から左脇にかけてざっくりと肉が裂かれて血を流していた。

 父親は、家のなかほどにあるテーブルのそばで仰向けに倒れていた。身体の前側に複数の切り傷が見える。その手に獣の皮を剥ぐときに使うナイフを握りしめていることから、なにかと戦ったのだろう。苦悶の表情を浮かべた父親の首にはおかしな方向へ曲がるほど深い切り傷があり、それが致命傷になったのだろう。家の壁や天井にまで血を吹き上げて、リッテルが過ごしてきた日常を絶望に塗り替えていた。
しおりを挟む

処理中です...