魔女の托卵

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見えたのは希望の光、それとも

忍び寄る絶望

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「ん……う、うぅ……」

 頭がずきりと痛む。その痛みで覚醒したリッテルは下腹部にわだかまる痛みに下ばきの当て布を替えなければ、と身じろいだ。

 ここ数日でくせになった、ズボンの汚れ確認をしようと右手を股に持っていきかけたリッテルは、がちり、という音とともに手首を締め付けられて驚いた。

「な、なに?」

 目を開けたリッテルは周囲の暗さに目をみはり、手足を拘束する鎖に戸惑った。横たわったリッテルの両手首両足首には鉄の輪がはめられており、そこから伸びる鎖でそれぞれが引っ張られてわずかに身じろぐことしかできない。鉄の輪と鎖はどれも頑丈な錠前でつなげられていた。

「なんなの、これ……」

 動けない体をよじるたび、頭と腹が痛む。しっかりと目を覚ましてみれば、下腹もまだかすかにじくりと痛んではいるが、いまずきりと痛んでいるのは、右の側頭部だとわかった。おそらく、気を失うまえにジュンナに殴られたところだ。

 満足に動けないながらも周囲の状況を知りたいリッテルは、痛む頭を気にしながら首だけを動かしてあたりをきょろきょろと見回した。

 ろうそくの炎がゆれている。柔らかい寝床に寝かされているらしいリッテルの右足と左足の延長線上にそれぞれひとつずつ、それから頭側にひとつ。

 どこかの部屋だろうか。窓はなく、ろうそくの頼りない明かりだけでは照らせないようで、部屋の四方も天井も闇に飲まれて見通せなかった。見えるのは、寝床とそのしたに敷かれたおおきな敷き布だけ。

 そして、いつの間にか着替えさせられたらしく、いまリッテルの体を覆っているのは、細いひもで肩から吊るしただけの簡素ながらも肌触りの良い真っ白な布だった。両腕もひざもむき出しになっている、頼りない布だ。旅のあいだ着ていた、母親が時間をかけて作ってくれた安布ながらもしっかりと体を守ってくれる服ではなかった。

 着替えさせられて、手足を拘束されて暗い部屋に寝かされている。それだけしか情報が得られなくて、自分の置かれた状況がわからない不安がリッテルの胸に忍び寄る。

「はずっれろ! このっ、この!」

 がちっ、がち! じゃん、じゃりんっ。
 不安に抗うように手足を振りたくれば、金属のこすれあう耳障りな音が部屋に響く。

「うーっ、このっ、なんでっ取れない、の!」

 じゃんっ、がちゃん、がちん、がちがちっ。
 自由にならない体への苛立ちを鎖にぶつけながら暴れるが、鎖が切れるわけもなければ拘束がゆるむ様子もない。

 それでも抗うことをやめられなくて手足を精いっぱいばたつかせていた。そこへ。

「あらあらあら」

 高く澄んだ女の声が聞こえて、リッテルの体がびくりと固まる。

 かつかつかつ。靴音を響かせる人影がろうそくの明かりの届く距離まで近づいて、暗がりからぬるりとその顔が見えてきた。ジュンナだ。

「いけませんわよ、そんなに暴れては、体に傷がついたらどうなさるのです」

 美しく笑って見せた彼女は、まるで駄々をこねる子どもをさとすかのように言ってリッテルの手をさする。その視線を追って目をやれば、手首にはめられた鉄の輪の内側に巻いてある布がずれていないか、確認しているようだった。

 その手つきと表情だけを見れば、ひどくやさしい。けれどリッテルの気持ちを無視した言動に、リッテルは怒りを抑えきれなかった。

「外して! なんなの、これは。なんでこんなことするの! あたしは家畜じゃない。もうあなたたちに頼ったりしない! いますぐ、いますぐあたしを自由にしてっ」

「いますぐには、できかねますね」

 リッテルの叫びに応えたのは、ジュンナではなかった。誰だ、と目を凝らしたリッテルは、ジュンナの後ろにある闇からぬるりと姿を現した長身の男に気が付いた。ジュンナが体をずらして場所をゆずったことで、男の全身がリッテルの視界に入る。

 背の高い男だった。リッテルの父親と同じくらいの年だろうか、笑みをたたえた口元やすこし垂れた目元にしわが見て取れる男は、眼鏡がよく似合う落ち着いた表情を浮かべているのに、どこか酷薄さを感じさせる。色素の薄い瞳と髪のせいかもしれない。

 長身に見合ったがっしりとした体を黒い長衣に包んでおり、ずるりと引きずるほど長い裾の先は暗闇に溶けているようだった。

「生涯をこの場で過ごしていただくわけではありません。安心しなさい。私どもの用が済み次第、お好きな場所へと送ってさしあげます」

 感情の読めない笑顔で男が言うのを聞いて、リッテルは呆然とつぶやいた。

「教主、さま……?」

 そこに立っていたのは、いつか塔の外で見た教主だった。おだやかな表情は人びとの祈りを受けて立っていたあのときと変わらない。慈悲深い教主さま、と誰かがつぶやいていたのを思い出して、リッテルの心に希望が宿る。

「ああ、教主さま。これ、この鎖を外してください! あたしが捕まってるのは、なにかの手違いなんです。あたしはただ、村がひどいことになって、助けてもらうためにこの塔に来ただけで……」

 ようやく自由になれる、と勢い込んでくちを開いたリッテルだったが、だまって自分を見下ろすばかりのシェンダリオンに、ことばを途切れさせる。

 くちびるに笑みをはき、けれど眼鏡の奥の瞳はわめくリッテルを冷ややかに見下ろしている。そのことに気が付いたリッテルは、抱いたばかりの希望にひびが入るのを感じながらも、希望を捨て去ることができなかった。

 「どうして……どうして、いますぐはずしてくれないんですか。用ってなんですか」

 なにかがおかしい、と警戒しながらもリッテルは問わずにはいられなかった。

 いつの間にかその場にひざまづいて、教主の横顔をうっとりと見上げて「シェンダリオンさま……」とつぶやいているジュンナよりはまだ、シェンダリオンのほうがことばが通じるのではないか、とかすかな期待を込めて。
 そんなリッテルを見下ろして、シェンダリオンはゆるりとくちの端をもちあげた。

「あなたの腹で私の子を作るのです。子が生まれれば、すぐ自由にしてさしあげますよ」

 おだやかな声でシェンダリオンが言ったことばは、リッテルの耳にするりとはいった。けれど、そのことばの意味がわからない。

「腹で、子を……?」

 眉をひそめるリッテルに、シェンダリオンがうなずく。その様子はまるで、じょうずに答えられた子どもをほめるかのようだ。

「ええ。気づいてはいないでしょうが、あなたの腹にはすばらしい力が宿っているのです。この腹で子を宿せば、生まれてくる子どもは力を持ってこの世に生まれ出る。すばらしい、奇跡の子となるのです」

 言いながらうすい腹を撫でられて、リッテルの背中が粟立った。シェンダリオンの手つきはあくまで丁寧でやさしいのに、布越しに感じるその指先が、腹部に遠慮なく降り注がれる愛し気なまなざしが、リッテルに恐怖をおぞましさを感じさせる。

「力……力って、なんですか。あたしそんなの、持ってない!」

 パァン!
 思わずリッテルが叫んだとたん、ほほに熱い衝撃が走る。遅れて、その箇所がじわじわと痛みをうったえる。

 衝撃で信徒たちからそれていた視線をゆるゆると戻せば、そこには腕を振りぬいた姿でシェンダリオンをかばうように立つジュンナがいた。

「くちの利きかたがなっていないようですわね。子を成す前に、躾直しが必要かしら?」

 赤い唇を吊り上げたジュンナは目を輝かせて言う。目のまえでごきりと音を立てて握られるその手に、リッテルは唾を飲み込んで体を固くした。
 そこへ、ぽんと軽い音を立ててシェンダリオンの手がジュンナの肩に添えられる。部屋にはいったときから変わらない微笑みをたたえた彼は、罪人を許す聖人のようなおだやかさを持つ声を出した。

「構いません。彼女は魔女に托卵されし者。我らの希望を体現し得る者です。大切なのは、その身が損なわれることなくここにあることなのですから」

「はい、シェンダリオンさま」

 おごそかに言う男に、女はひざまずいて両手を組みうやうやしく首をたれる。暗闇に溶けてしまいそうな二人の姿は、ゆらゆら揺れるろうそくの明かりによっていっそ神秘的なほどだった。
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