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11. 責任あるとはなんですか

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 彼女もほっとしたのか肩の力を抜いて溜め息を落とした。
「よかった。やっと見つかりました」
 見つかった? どうしてお兄さんの何を探していたのだろうと、宗佑と一緒に美鈴は首を傾げる。
 彼女がまた美鈴を見た。
「兄が、珍しく私に。『責任あるつきあいをしようと思っている』と知らせに来てくれたんです」
「お兄さんが、姉のことを、ということですか!」
 あの人が警官だった。その人が姉のことを忘れずに、家族に紹介したいと真剣に考えてくれていた。宗佑が一気に喜びを見せた。
 だが香江の表情も一変する。今度は打って変わって厳しい眼差しだった。
「責任あるとはなんですか」
 彼女が美鈴に問う。責任あるものがなんなのか、美鈴にはすぐにわかった。彼となにも隔てずにそのまま愛しあったこと。美鈴のなかに彼の子供が出来たかもしれないことだと思った。
 香江もそれがわかっていたようだった。だから美鈴のお腹へと視線が落ちた。
「お腹にいたとしても、まだ目立たない時期ですよね。でも、そうであるならば、もうそろそろ……貴女には変化があるでしょう」
「だとして、どうだとおっしゃりたいのですか」
 兄が女性を妊娠させたかもしれない。まだ結婚もしていない兄が。それを案じて慌てて捜しに来て、あの人より先に会いに来てしまった妹から、あの人の正体を聞くことになってしまった。先回りをしてきた妹の言いたいことはなに? 美鈴は身構えた。素性もわからない女の中に兄の子供が出来ること、着物の質を見てもいいところの奥様だろう妹はどう思ってここまで来てしまったのか。
「できれば……。そのお腹に宿っていて欲しいです」
 どうしてか妹の彼女が憂いある目で、緩く微笑んだ。やっと、憂い色を見て彼女と彼の目が似ているんだと美鈴は気がついた。
「私が妊娠しているから、責任を取るとおっしゃっているのですか」
「怖いんですよ。兄は。独りならば何が起きても自分一人のこと。妹の私はもう結婚していますし夫と家族がある。軽い認知症が出ている母も私が引きとっています。私達のことは自分がいなくてもなんとかなる。でも妻と子供は違う。だから兄は自分の家族を持つのが怖いのでしょう」
「怖い……ですか」
 彼がなにを怖がっているのか、美鈴にはよくわかった。あんな仕事をしていれば、常に危険と背中合わせ。いつどうなってもいい、身軽でいたいと思っていたのかもしれない。
「いままで結婚を億劫がっていた兄が、責任あるという言葉を使ったのがどうも気になっていたんです。生真面目な人なんです。だから、ひとつひとつの言葉に重みを感じられる、気軽に言葉にしない。だからこその責任への真剣さを感じました」
 まさにその通りだと美鈴は思う。朴訥と言葉を発する滅多に喋ってくれない彼だったからこそ、彼の意志で出てきた言葉はどれも信じられた。
 そして美鈴と宗佑は顔を見合わせ、二人揃ってふっと笑ってしまう。
「俺もそう思います。生真面目に俺の料理を食べてくれていました」
「私もです。甘いものに目がないようでお子様向けのチョコフレークを差し上げようとしたら、自分は遠慮するとおっしゃって……。とても食べたそうにしていらっしゃったのに」
「そうなんです。兄ってあんな顔ですっごい甘党なんですよ。私と一緒にケーキバイキングについてきちゃうんですよ」
 妹さんとケーキバイキング! あの厳つい顔で! 美鈴も宗佑も笑いそうになったが堪えた。でも、なんだかわかる。あの人なら行きそうだと姉弟で頷きあってしまう。
「そのお醤油アイスも、お兄様とても気に入ってくださったようでした」
「まあ、やっぱり。兄が好きそうだと思いましたの。見逃すはずがありませんもの。ほんと、とっても美味しいわ、これ」
「あの、どうして、お兄様がうちの店に通っていたとお判りになったのですか」
 尋ねると、アイスをほおばっていた彼女が上品な和ハンカチで口元を拭く。
「いつ、その女性を紹介してくれるのかとしつこく連絡したんです。仕事柄ですが滅多に電話も出てくれなくて、メールがやっと返ってくるぐらい。そのメールに『松山の人だから、いますぐには連れてこられない』との返信がありました」
「松山だけでは探せないと思いますが」
「港で、姉と弟だけで切り盛りしている美味い店に通っていたと話してくれました。私たち兄妹は早くに父を亡くしています。兄妹で支え合ってきたことも多かったです。ですから、早くに親を亡くして子供達だけで頑張る姿が兄は気になっていたようです。そこのお姉さんを、近いうちに会わせたいと言ってくれました。ただ仕事の関係で、いまは彼女と連絡が取れない状態だとも言っておりました」
 姉ちゃん! 弟が嬉しそうに美鈴の背を叩いた。
 彼は美鈴を忘れていなかった。二ヶ月会えないのも、仕事のため? 警察官なのに、ヤクザのふりをしているだけで、人には言えないような仕事だったのだと今ならわかる。だから、今も、仕事で彼が動けなくなっているだけ?
「そのメールだけの兄が『香江にしか聞けない』と、最近、妙に思い詰めた電話をしてきたんです。『子供達がお腹にできた時どんなかんじだったのか』とか、『つわりがわかるのは何週目ぐらいだ』とか、変に遠回しに聞いてきたのです。どうしてそんなこと聞くのと問うても、捜査で知りたかっただけ、他の女性には聞きづらいと誤魔化していましたが、そんなわけありません。捜査となればそんなこと平気で兄は聞くでしょう。それが『捜査、仕事ではない』から他人には聞けない、妹の私に聞いてくる。それでぴんと来たんです。港のお店の彼女さんと、そうなったのかもしれない。なのに兄はいつまで経っても私のところに連れてきてくれない。広島の兄の自宅に行ってもいつだって留守で、仕事で忙しくて会えないのか、それとも躊躇っているのかやきもきしてたんです」
「それで、お兄さんが姉に会いに来る前に、香江さん自ら姉を捜しに来てくださったということですか」
「はい。だって、兄が会いに来られない間に、もし、貴女が兄のことを諦めて赤ちゃんも諦めてしまったらと思うと居ても立ってもいられなくて。またタイミングが合わなくて女性と上手くいかなかったというなら兄も諦めつくのでしょうけれど、赤ちゃんがだめになったと知ったらもう兄のことだから、精神的に大打撃を受けるのが目に見えています。なのに、仕事でどうしても動けないこともよくあるようで……」
 そう苛む妹の気持ち、その気持ちがこの店と美鈴を捜し当てたのだろう。
「妊娠はしておりません、安心してください」
 ここまでわざわざ捜しに来てくれた妹の香江のために、美鈴ももったいぶらずに告げた。
 香江が残念そうにうつむいた。
「そうでしたか……。もしかすると、そうであるならば兄は……。いままでの仕事だけの生活に戻ろうと思うかもしれません」
 さらに香江は申し訳なさそうに、美鈴に話してくれる。
「兄は警部補で刑事です。私の夫も、兄の先輩警察官で警部をしておりまして、県警におります。警察官の兄と夫を家族に持ちますと、彼等はまったく仕事の話はしてくれないんです。警察官の家族とはそんなものです。首を突っ込んではいけない、突っ込ませてもならない。そして一般民間人である家族が首を突っ込むことがどれだけ危ないことかも心得ております。だからなのです。兄がどこでなにをしているのか、なんの仕事をしているのかさっぱりわかりません。夫はすでにデスクワークの管理職なのでそれほど危険なところにはいないとわかっているのですが、兄はまだ現場気質の男性なので捜査であちこち配置されているからと夫から聞き、無事につつがなく捜査に参加しているとだけ伝えられても、常に案じています」
 やっとなにもかもが明かされた気がした。
 しかも『刑事』だった。
 もう美鈴も肩から力が抜けていく……。隣に座っている宗佑は逆に興奮していた。
「かっけええ。刑事だって姉ちゃん」
 だから拳銃も持っていたし? 素晴らしい腕前だったし? 場慣れしたような落ち着きと冷徹さだった? だったらどうして警察から、同業者から逃げたの?
「もしかして、兄は……。刑事に見えないような姿でこちらに来ていましたか」
 美鈴と宗佑は戸惑う。警部の奥様から『家族には一切の情報を伝えない』と聞いてしまったから、姉弟一緒に気がついてしまう。あの人が素性を隠して捜査をする刑事だったのならば、ヤクザのふりをしていたことも隠していたはず。それを家族は知らされていない、知ってもいけない。だから妹さんは知らないだろう思うと、はっきりと兄の現状を言えずにいた。
「私も兄がどのような仕事をしているかわからず、常に案じております。兄は貴女にもそんな心配はさせたくなくて、躊躇っている。でも、本気で愛してしまったからなんとかしないとと、もがいている気がします」
 決めた。
 美鈴は彼の妹を目の前に、真っ直ぐに見据える。
「お兄様のご自宅がどこか教えてください」
 香江が驚いた顔で固まった。
「私から会いに行きます」
 彼女の笑顔が輝いた。それは宗佑もおなじだった。
「ありがとう。もう、貴女と兄が向きあわないとだめだと思って……。でも、兄のような仕事をしている男性をどう感じているのかと心配で……」
 美しい和ハンカチで彼女が滲んだ涙を拭った。兄を思う妹の気持ちが美鈴には通じてくる。
 彼女には言えないけれど、美鈴は涙を流す香江を静かに見て心の中でひとり呟く。大丈夫ですよ。入れ墨のあるあの人を好きになってしまったのだから。ヤクザの彼でも待っていたのだから。彼が刑事とわかってもおなじこと。彼がどんな人でも信じている。そして彼はあの真摯な黒い目をもつ男らしい人ということはまったく変わらないの――と。
「行ってこい、姉ちゃん。うち臨時休業にしたっていいんだから」
 宗佑まで涙を滲ませてくれている。
「兄の自宅の住所を渡しますね」
 香江からそのメモを受け取った。
「でもね……。近所に住んでいる私が訪ねに行っても、滅多に会えないの。すぐに会えるかしら……」
 それでもいい。彼に会えるまで、私、張り込む。
 彼がどうやって美鈴を見つけて、どうして仕事のためにこの港町にいたのかわからない。でも彼は美鈴が知らないうちからそっとそっと近づいて、そしていつのまにか……。
 だったら、今度は私が彼を見つけに行く。捕まえに行く。

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