名もなき朝の唄〈湖畔のフレンチレストランで〉

市來茉莉(茉莉恵)

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【2】名もなき朝の写真《北星秀、最期の撮影》

4.写真を辞めよう

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 葉子と仕事をするようになってから、秀星の心は揺れた。
 彼女に好意があったとしても、もう、どうこうなろうとは思っていなかった。
 だが、幾久しく、彼女の父親のように見守ってあげたいと思っている。
 なにか彼女に残してやれるとしたら、やはり『生きていく術』だ。

 だから本気になって、彼女に『給仕の仕事』を叩き込んだ。
 葉子もなにか思うところがあるのか、仕事中は『給仕』のことを第一にして、決して『唄を続けたい』本心を垣間見せることもなくなった。
 やがて、その仕事が身につき始める。

 秀星はそんな彼女や十和田シェフと、これからもこうして生きていきたいと思うようになっていた。

 それには諦めなくてはならないものがあった。

 この大沼公園に住みたい――と思うようになったキッカケ、『夢』を捨てなければならない。

 秀星が死ぬまでに撮りたい、ここで、撮りたいと思っているのは『吹雪開け』の夜明け写真だった。
 囂々と吹雪いた夜、朝方、茜と紫苑が入り交じる満天の星と、森林の樹木の枝先が真っ白な雪細工になっている。そんな写真を撮りたいのだ。
 枝先のつもりたての雪は吹雪開けでないと、時間と共に粉雪が落ち痩せた枝先になったり、やがて氷に変化し積もりたての雪のやわらかさが消えてしまう。
 ぱさりと細かい雪がはらはらと落ちて、夜明けの色に染まる。駒ヶ岳が悠然と浮かび、星々に包まれているのだ。

 それには夜明けの吹雪く中で、吹雪開けを待たなければならない。

 どうしてこの瞬間を撮りたいのかといえば、一度だけその景色に遭遇したからだ。
 それもバカみたいな行動を取ったからだ。
 北海道での撮影旅行が秀星の念願だった。夏の北海道は経験したので、次は冬だと決めていた。数年前、冬の休暇をもらった時に函館に来た。鉄道を札幌へ帯広へと向かって乗っていく計画を立てる。
 気になった駅で降りて、なにげない北国を撮影する。日程が終わったら札幌に到着しなくても、そこで神戸に帰るという気ままな旅程にしていた。

 函館から一時間もしないところで『大沼公園駅』があり、真冬の湖でも見てみるかと最初の下車をした。


 北海道で初めて出会った『冬の大自然』だった。
 幸いに晴れた日で、真っ白な湖面の向こうには雄大な冠雪姿の駒ヶ岳がそびえていたのだ。
 これはいいな――と、よくある『快晴青空』の写真をひとまず収めた。
 夏には睡蓮が咲き、秋には紅葉が湖面に映ると知り、ますます興味を持った。その日はこの大沼公園周辺の宿を取り、翌日もどのような表情を見せてくれるのか、もう少し散策してみようと宿泊をきめた。

 その日の夜だった。囂々とした激しい吹雪となった。
 吹雪も初めてで、秀星はカメラ片手に、宿の窓辺にずっと立ってわくわくしていた。

 ああ、これ。外で撮ったらどうなるのかなあ。
 写真家の魂が疼いて疼いて、夜も眠れなかった。
 ついに朝方、秀星は吹雪の中へとカメラを担いで湖畔へと向かう。
 危険だとわかっていた。装備も軽いものになるのだろう。
『少しだけ、湖畔を見るだけ。五分だけだ』
 そう決めて、大沼小沼蓴菜湖の湖畔に立った――、その時。
 雪の風が少しずつゆるやかになり、小雪のベールが開かれるようにして、紫苑と茜が入り交じる星空と駒ヶ岳、真っ白な枝先の森林に湖面――という自然の色彩にあふれていたのだ。
『すごい』
 呆然としてその景色を魅入っていた。カメラを持っていたのにセットするのを忘れていたのだ。
 はっと気がついた時には夜が明け、あっという間にその色彩が薄れていた。
 写真家とは……。そんなときでもカメラをセットする冷静さがあるものなのではないのか?
 愕然とした気持ちも同時に襲ってきた。
 宿に帰ると、オーナーに叱られる。たとえお客様でも命を顧みない行動は困ります――と。道外から来る者はときどき北国の気候に対して無茶をするから気をつけてほしいと釘を刺された。

 この撮影旅行の失敗が、秀星の心にずっと残る棘となった。
 ずっと抜けずに、じくじく傷み、さらにあの魅惑的な色彩の夜明けにもう一度会いたくてしようがない。

 念願の大沼に住むようになっても、何度も吹雪に出会った。
 だがあれは『命がけ』だとも心に刻んでいる。北国に住むようになって、あれが如何に危険な行為かわかるようになった。
 そしてあれはまさに『千載一遇』の瞬間だ。
 たまたま『吹雪開け』の瞬間に、北国初体験の己が立ち合っていたのだ。あの吹雪開けの瞬間に出会うには、今度は吹雪いているその時、夜明けの時間にそこに立っていなくてはならない。吹雪だっていつ止むかわからない。それを何度やればいい? その日も仕事がある。仕事を放り投げてまでやれる決断がつかないまま、何回も吹雪の夜をやり過ごしてしまった。

 十和田シェフには迷惑をかけたくない。

 だったらもう。あの危険な撮影を望むのはやめようと思う。
 まだまだ素晴らしい瞬間はたくさんある。
 十和田シェフとハコと、あのレストランを支えて、北海道のいろいろな自然を撮影していけばいい。僕はそうして生きていけばいいのだ。

 それは……夢を諦め、やわらかな日常に身を落とした男の生き方。
 そこに秀星は初めて甘みを感じていたのだ。その甘味を味わって生きていくのも悪くはないと思い始めていた。

 ランチタイムが始まって、黒いジャケットベストに白いシャツ、黒いボウタイのスタイルで、葉子と並ぶ。
 凜とした空気を放つようになった彼女と、この仕事に向かう時の瞬間も、秀星は今まで以上に誇らしく思っていた。初めて、指導する若い者を愛おしく思っていた。

 この先、若い彼女は誰かを愛して結婚して母親となっていくことだろう。それを見守っていてあげたいのだ。支えてあげたい。



 なのに。運命とは意地悪なもので、秀星の耳にとある天気予報が飛び込んでくる。
『夜は吹雪くでしょう。ですが未明には止み、朝は晴れやかな天気となるでしょう』
 いままでも何度も聞いては迷ってきた予報が今年も耳に入る。

 いつになく激しく迷った。
 何故なら『もう諦める』と決めたからだ。でも諦めようという衝動が起きたのはつい最近だ。だからこそ、これが最後のチャンスだと思ったのだ。


 秀星は支度をする。今度は北国で学んだ寒さを凌ぐ装備を揃える。

「一時間だけだ。それで駄目だったら引き返して、それで終わりだ」

 これが終わったらもう。写真は本当に趣味にしよう。
 これからは、そばにいる人々と穏やかに暮らしていこう。
 十和田シェフを支え、ハコを見守る生き方を優先する。

 横殴りの雪は密度を増し、歩く道の向こうも見えない……。ホワイトアウト状態だった。
 それでも秀星はあのポイントに向かう。
 あのポイントで毎日毎日、この大沼の移りゆく四季を撮り続けてきた。
 あれは決意がつくまでの慰みみたいなものだった。
 ほんとうに撮りたい写真の決意が出来るまで、淡々と刻々と変わっていく大沼と駒ヶ岳の日々をただ撮っていただけ。

 決意がこんなふうにやってくるとは、この年齢まで静かに生きてきた秀星には思わぬ大波が被ったような気分だった。
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