名もなき朝の唄〈湖畔のフレンチレストランで〉

市來茉莉(茉莉恵)

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【4】名もなき朝の私《さよなら、先生》

9.恋が壊していく

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 十二月になり、大沼は真っ白に染まる。根雪の季節だった。
 アオイがここにきて一年が経つ。
 彼のひとまずの契約は年度末の三月末まで。それを継続するかどうかの判断を、神戸の矢嶋社長がする時期になっていた。

 葉子の動画配信も室内の録画に変わる。
 空いている時間と休暇に、蒼と一緒に風景動画を撮影することも、『休憩タイム・ハコ』も不定期に続けていた。


 この頃になって、葉子は気になるコメントを見つけていた。
 唄が下手、ギターも下手は、ままあるコメントで、葉子も言われて当たり前の気持ちで受け流していた。いちいち受け止めていたら動画配信など続けられない。
 それでも『今日の演奏の、○○と○○、サビの○節目のコードの押さえ間違い―、いいところなのに音が外れてがっかりする』と妙に詳しい指摘が入るようになった。
『素人さんの演奏とはいえ、毎日やるのであれば上達をすべきです』
 いままでの指摘コメントとは異なるものだった。偶然なのかどうかわからないが、たとえ別人であっても、葉子から見ると安積先生が透けて見えた。

 素人でいいと思っているし、動画配信はそれで許されるから発展していったとも思っている。
 でも……。できるならば葉子もなるべくミスなしでやりたい。それはわかっている。

 このようなコメントが一日一回、入るようになった。

 レッスンも二回に一回、休むようになった。
 先生を避ける。徐々に辞める方向に向かってしまっている。

「葉子ちゃん。いいかな」

 給仕長室で、秀星写真アップの準備をしていると、蒼がいつものスタイルと位置取りで、葉子のそばにある丸椅子に座った。

「安積先生のことなんだけれど。気がついているよな」

 彼がスマートフォンを手にして、ハコの唄チャンネルのコメント欄を見せてきた。
 葉子も観念をして、無言で頷く。

「俺も、こんなことになるとは思わなくて……」
「神戸ではこんなことはなかったの?」
「ないよ。だから、俺が迂闊だったんだ」
「プライベートでの初対面だったからだよ。蒼さんがお店で初めて会ったお客様だったなら、こんなことにならなかったはずだもん」
「それでも。調子に乗りすぎたんだきっと。また先輩に怒られる。君は元気で明るいのが良いところだけれど――ってね」

 初めてコンビニの駐車場で先生と会った時に、葉子と一緒だったばかりに、いつもの『蒼くん』になって気易く対面したことを後悔しているようだった。

「明日は俺、ジムに行く日だけれど。葉子ちゃんはどうする」
「……今月はまだ行っていないから、行く」

 そして葉子も決意をする。

「レッスン、辞めてくる」

 蒼が申し訳なさそうにうつむいた。

「ごめん。ほんとうに……」
「ううん。ギターもだいぶ弾けるようになったから、もう満足だよ」
「また一緒にドライブに行こうな」
「うん。でもまた雪道になって、蒼さん、慣れるまで大変になるよ。今度は冬のアクティビティで一緒に遊ぼう。二度目の冬だから、前よりかは慣れたよね。蒼さん」

 蒼の表情がやっと明るくなる。
 でも、最近はダラシーノモードが見られなくなってしまった。
 葉子が様々なことで苦慮しているので、自分ひとりだけふざけていられなくなったのだと思う。

 こんな状態だから、最近は彼と一緒に出かける機会も減ってしまった。
 まさか。葉子と蒼を引き離すためでもあった? つい、なんでも、勘ぐってしまう。

 それに。引き離すってなんだろう?
 ただ函館に出かける用事が揃っていたから、春からの数ヶ月間、一緒にいただけ。そう、一緒にいただけ……。指導役の男と教え子の女、それだけ。

「来週、矢嶋社長が来るってさ」
「そう、うん、楽しみ」

 父も葉子も、いまや矢嶋社長のコンサルティングに全幅の信頼を置いている。二~三ヶ月に一度来られて、父の料理を食べ、素材と父の腕前を確認し、店内のサービスの質の確認にやってくる。

 最初は完全自営にこだわっていた父も、いまは矢嶋社長の経済的な指導が入るほうが安心しているようだった。料理の創造性については、矢嶋社長の完全お墨付きで、コスト内であれば自由にやらせてもらえるので以前よりずっと精神的に楽になったと言っている。

 これも秀星の置き土産だった。あの人が元々働いていたレストランの、あの人を見初めた経営者。その人との縁も運んで、置いていってくれた。



 ついにレッスンを辞める日。
 それは先生もわかっていたのか。

 レッスンが始まった途端に、彼女が豹変した。
 大好きだった優雅さも、おおらかさも、上品さも、先生から消え去っていた。

「北星さんの写真集は、いつ発売でしたっけ」

 つっけんどんに聞かれる。

「五月ごろになります」
「そう」

 以前だったらここで、北星さんに会いたかったとか、何月何日の写真が大好きと愛らしく笑ってくれるところだった。

「二年間、お世話になりました。本日でこちらのお教室、やめさせていただきます」
「わかりました」

 最後のレッスンという雰囲気ではなく、もう一緒に演奏をする楽しさも、上品なティータイムも随分前にお別れしてしまっていた。

 先生ももうギターを手に持ってくれない。
 だから葉子も帰り支度をする。今日はほんとうにこのひとことを伝えに来ただけになった。

「北星さんのお写真、葉子さんが選んでいるのよね」
「はい」
「少し前にお話してくださったでしょう。遺作を掲載するかどうか悩んでいるって」

 気を許しすぎて、葉子は父と蒼しか知らないことをすっかり先生にもこぼしてしまっていた。いまは反省している。

「人が死ぬ瞬間を掲載するなんてどうかと思うの。その写真集、いりませんから」

 いつか先生にはお持ちすると言ったから?
 二度と関わらないための牽制? きっぱりこれっきりのご縁という宣言?

 それ以上に『人が死ぬ瞬間を掲載するなんて』と言われたことがショックだった。葉子が父と検討に検討を重ねて出した結果であって、まだ写真集が出る前に、第三者の目線からそう言われたことが余計に、葉子の心をえぐっていた。

 そう言われることは父とも蒼とも覚悟をしていた。
 でもそれは、こちらには直接は届かないごくごく一般的な所感や感想だから当たり前の現象だと思うことにしていたのに。
 まさかの、とても信頼をしていた先生にこんなふうに言われるとは思わなかったのだ。

 急に態度が変わったこと。大好きだったレッスンが崩壊したこと。とどめに、葉子の心のいちばん綺麗なところにとどまっている秀星のためにしてきたことを全否定された気分だった。

「お世話に……、なりました……」

 楽しかったです。どんな状態でもこのひと言を伝えて辞めたかったのに言えなかった。

 歩き出す一歩一歩が重い。ギターを背負っているそこから倒れそうだった。
 雪が積もったばかりの坂の道をゆく。いつもの坂の向こうにも真っ白な雪を被った港、雪に囲まれた海は真っ青で、小雪が僅かにちらついている。
 はやく、はやく……。いつもの場所に辿り着きたい。
 あ、でも……。彼はいまジムでトレーニング中なんだっけ。
 途方もなく葉子は歩いていた。なのに、いつもの待ち合わせ場所に、いないとわかっていても向かっていたら、そこにいたのだ。車を駐車させて待っている蒼がいる。
 いつものように、必ず運転席から降りて出迎えてくれる彼がそこにいる。

「葉子……」

 一目見て、葉子が尋常ではない様子で歩いていたのがわかるらしい。
 いつも元気で楽しそうな彼の表情も強ばっていて、泣きそうな顔になっている。

「なんで、ジム……」
「行けるわけないだろ。葉子ちゃんが、俺のせいでこんな思いをしているのに。坂の下で見送って、ずっとここで待っていた。きっと短時間で決裂するだろうと思って――」
「……なんでも、わかりすぎ……、やっぱりアオイさんは、……」

 もう涙が溢れて声にならなかった。
 ダラシーノは、秀星さんのように大人の男性だった。
 秀星さんはわかりにくい人で、でもほんわり伝わってくる人。
 ダラシーノはわかりやすすぎて、でもダイレクトに懐にはいってきちゃう人。どちらもいつだって葉子のことを。

 雪道もすっかり慣れた足取りで、彼が葉子のところまで来てくれる。

「帰ろう。ゆっくり休もう。動画も仕事も、なにもかも忘れるんだ」

 そんなこと出来ない。怒濤の勢いで押し潰されてしまった心が息苦しいままに、葉子はぐしゃぐしゃに涙を流しながら、目の前に来てくれた蒼に叫ぶ。

「秀星さんの、死んだ瞬間なんて……見たく、ないって……、いらないって……言われた。わかってるけど……、人それぞれだってわかってるけど……。だって、だって、秀星さんが、生きていた中でいちばん欲しかった瞬間だよ。死んだ瞬間じゃない……、生きていたからこそ、燃え尽きる場所……きめて……」
「わかった。わかったから。もう、なにも言うな。もう……」

 初めて。背が高い彼がその胸に葉子を深く抱き込んでくれる。
 少し前ならすごく驚いて葉子は突き放して逃げていたかもしれない。
 でも今日は素直に抱きついて泣いた。声を上げて泣いた。
 秀星さんが死んだときだって、こんなに泣かなかった。

 なのに、安積先生はまだ予約をして、蒼のサービスを求めにやってくる。
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