名もなき朝の唄〈湖畔のフレンチレストランで〉

市來茉莉(茉莉恵)

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【後日談1】シェフズテーブルで祝福を

8.シェフズテーブル〈ポワソン〉

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 秀星が広島の篠田家へと、几帳面に届けてた年賀状。
 ハンカチーフに包まれているそれを、葉子からは手に取れず、まだ戸惑っている蒼の様子をみつめることしかできないでいる。

「どうして……。年賀状が来ていることは報告してくれていたけど……。なにが書いてあるかだなんて……」

 教えてくれなかったと蒼は『どうしてもっと前に教えてくれなかったのか』と家族に怒り出しそうで、葉子はハラハラしてきた。

「まあ、読んだらわかるよ。そういう蒼だって秀星さんから毎年もらっちょったんでしょ。『いま』だから、数年前の言葉が生き返るってわかるよ。読んでみい。生きていたら他愛もないことばかりやけん。でも、いまならそうでもないんよ」

 蒼がそばで立ったまま見下ろしている姉を見上げた。
 そこには惑う気持ちを、頼りがいある姉が導いてくれる頼もしさに安堵するような、男の子の目に葉子には見えてしまった。

 やっと、蒼がその包みに手を伸ばした。
 母親のハンカチーフから広げていく。葉子も一緒に見えるようにと、二人が並んで座っている間に持ってきてくれる。

 選んでいる写真は、睡蓮が水面に散らばる大沼と、その向こうに夏の陽射しと青空に映える駒ヶ岳という、大沼らしい一枚だった。

『あけまして、おめでとうございます。昨年から北海道に移住いたしました。蒼君がメートル・ドテルを引き継いでくれたおかげです。函館そばの大沼国定公園という景観がすばらしいところに落ち着きました。夏は青い湖に睡蓮がたくさん咲きます。いま勤めているレストランで、すばらしいシェフと出会いました。よろしければ、一度いらしてください』

 葉子が東京でまだ頑張っているころ、まだ秀星とは出会っていない、彼が先に大沼のレストランに居着いたころのものだった。

「深雪さん、これ……」

 その年賀状に父のことが書かれていたので蒼が、母に手渡した。

 その次の年賀ハガキは星と月が湖面に映る夜明けの写真。そのハガキに綺麗な文字なのに、小さくひっつめて綴っている文章があった。
 その綺麗な文字を追っているうちに、葉子の目に一気に涙が溢れてきた。

『神戸のレストランでは、蒼君がメートル・ドテルとして実力を発揮しているようです。出会ったときから意識が高く努力家の蒼君。ときどきメールなどで仕事の相談も来ますが、ご安心ください、仕事は一流だと見守っています。そんな僕も、こちらのレストランで、もう一度、新人の給仕を育てることにいたしました。これをやると決めたら、彼女も意識を高めて仕事を磨き上げる、そんな強い目を持っています。蒼君をよく思い出します。大沼の湖沼の風の中、神戸の日々を思い出すと蒼君に会いたくなります。お父様お母様にも、いつかシェフの料理を食べていただきたいです』

 私の意識が高い? 初めて言われ、葉子は『そんなはずはない』と動揺した。でも、誰よりも信頼していた恩師に言われたのなら、彼の目にそう見てもらえていたということは、ある意味『合格』をもらえていたんだといまになって、嬉しさが込み上げてくる。
 しかも結婚しようと決めた男に似ている? 秀星のなかでは、あの時にはもう、蒼と葉子が重なって結びついていたことにも驚いている。

 それは隣にいる蒼もだった。

「こんなこと一度も……。葉子ちゃんのことは、話題には出てきていたけど、俺と似ているだなんて……」

 そこへ篠田の父が入ってくる。

「おそらく、広島で息子を案じているだろう親に『安心してください』と伝えたくての文章だったんじゃろな。それと、蒼のこと、秀星さんは、姉の真由子がそうであるように兄貴の心で可愛がってくれとったんじゃ。そして大沼に来て、今度は葉子さんを見て、蒼を思い出す。この子は蒼同様に給仕に邁進してくれることを仕事の生き甲斐にして、メートル・ドテルを譲っても自分は元気につつがなく過ごしていることを報せてくれたんだと思うよ。ご自分はご両親を亡くしているから、余計にわしらのような遠くで見守っている親のことを気にしてくれたんやと思ってる」

 静かにしていた珠子義母も、やっと語ってくれる。

「もろうた時には秀星さんの、ただの近況や思ってたんやけどね。先月、蒼が葉子さんを連れてきたやろ。短い滞在時間やったけん。二人を見送った夜にお父さんと、その年賀状のこと思い出してね。あれって葉子さんのことやったんじゃないのって。読み返してみると、もろうた時とは違う文章に見えてびっくりしちょったんよ。その時にこれ、届けようってなってね」

 何年も前の、まだ大人になりきれていない葉子が、彼のそばにいてもわからなかった大人の男の気持ちがそこにある。
 また篠田義父の『育てることを仕事の生き甲斐にして』という言葉に、涙が止まらない。
 私が、私が、秀星さんの日々を支える生き甲斐だった?
 そんなこと考えたこともなかった。

 後追いで蒼からハガキを渡されて眺めている母も、ハンカチを握りしめて泣いている。昴の目にも涙が浮かんでいるようで、母と寄り添うように静かに眺めている。

 秀星の年賀状はほんの数枚だったが続く。
 そこにはだいたい蒼と離れていても、どのように過ごしているのか報せるものが多い。そして自分の近況に必ず十和田の家族か葉子のことに触れている。

『ここにきて何度目かの冬を迎えました。毎日、充実しています。オーナーシェフのご家族がよくしてくれて楽しくすごしています。おそらくきっと。ここにずっと居ると思いますので、ご旅行で函館に来られるようなことがあれば、お立ち寄りいただければと思います。今度は僕におもてなしをさせてください』

「それが最後や。……三月に亡くなる前の、正月のもんや」

 亡くなる二ヶ月前。その時の秀星は『ここにずっと居る』という気持ちを持ってくれていたと葉子は知る。
 じゃあ、いつ……、いつ? いつ、あの撮影を決めたの? なにがあったの?
 もう蒼の前でも、篠田のご家族の目の前でも、涙が堪えきれなかった。
 そんな葉子を、蒼も涙を落としながら抱きしめてくれていた。
 それよりも、母のほうが声をもらしてすすり泣いている。

 蒼のそばに立ったままついてくれていた真由子義姉も、ハンカチを目元に当てて、涙声を堪えながら伝えてくれる。

「うちも、秀星さんは、十和田の家族そのものだったと思っちょるよ。それでも、あそこに行くことは、きっと……、大沼に来た時から決めていたことやったんやないかな」

 それも葉子にはわかる。父が言っていた『大沼で狙っていた素材は最後の吹雪開け』、それが目的で移住してきたのだろう。
 どうして最後まで一緒にいようと思ってくれていたのに、危ない撮影に踏み込んじゃったの? それさえなければ、なければ、いまごろは……?

 なんど心の整理をしたって、これで最後と心決めても、秀星は幾たびも幾たびも葉子の中に蘇って、心をかき乱す。
 そんな泣き崩れる葉子を、蒼はいつだって、まるごと抱きしめてそばにいてくれる。

 だから、いまはもう。葉子もすぐに涙を拭いて、前を向ける。

「大丈夫、だから。蒼君……」
「いや、俺も……、葉子とおなじだよ」

 これもずっとおなじだった。葉子が哀しみの淵に落ちていっても、蒼も手を繋いでそこに落ちている感覚がいまもある。
 だから今度は、葉子がハンカチで蒼の濡れている頬を拭いてあげる。

 厨房では、父がこちらを気にしながらも、料理に集中している。
 気が乱れないようにじっと耐えているのが、葉子にも伝わってくる。

 バターと海鮮の薫りが、湖畔の緑の風に混じっている午後。

 つぎのひと皿ができる前にと、最後は真由子義姉宛てに届いていたという年賀状のハンカチーフを広げて、蒼と確かめる。

 こちらは女性向けを意識したのか、小沼の散策道から撮影した睡蓮が咲き誇っているハガキに、真っ白なシマエナガのハガキなど、愛らしいものを選んで送っていたようだった。 


『お元気ですか。ご家族と北海道にこられた際は、ひとことお声かけてくださいね。いまも蒼君とバカなことを言い合いながらたのしく連絡を取り合っています。僕は両親も亡くし独りになりましたが、蒼君が気にかけてくれることに感謝しています。また僕も広島に行きたいとよく思っています。お姉さんの広島風お好み焼きが忘れられません』

『ご両親、真由子さんとご家族ともども、よき一年でありますように。昨年、雪でまっしろな枝先に、かわいくとまっているシマエナガの撮影に成功し、お姉さんへの年賀状にしてみました。こちらで、蒼君の目に似たお嬢さんを給仕として育てています。自分の失敗を許さないところなど、蒼君そっくりです。毎日、彼女を見て、蒼君に会いたくなってしまいます』

『あけまして、おめでとうございます。今年も無事に大沼で新年を迎えました。こちらのオーナシェフのご家族と過ごすことにすっかり馴染みました。居心地がよいので、次はどこに行こうかという願望がまだ湧いてこないのです。おそらく長く居着くと思いますので、ご旅行の際にはお立ち寄りくださいませ』

 やはり真由子義姉への最後の年賀状にも『ここに居着く』とある。
 それでも最後の撮影に挑んだのは――。
 徐々に葉子の胸にも、静かに静かに、秀星の想いが流れ込んでくる感覚がある。『ここに居着く。これが最後。大沼に来た目的、それだけはやっておこう』、そう思っていた? 蒼が言っていたのは、ほんとうのこと、かも、しれない……? そんな想いが芽生えてきた。

「俺と彼女が似ているってなんだよ。葉子を通して俺のことも……いつも……」
「私も知らなかった。蒼君に似てるなんて、思わなかったし……」

 涙でも繋がり離れない二人を見て、篠田の義父も遠い目をしている。

「なんや、葉子さんに初めて会った気がせんかったのは、秀星さんの毎年の近況報告のおかげじゃったんやないかと、母さんと話しとったんよ」
「ほうなのよ。もうそれだけで、蒼が連れてきた女性が、どのようなご家族のお嬢様かわかってねえ。もうええ年齢になった息子が決めたことならというのもあったけれど、なんや違和感なんもなかったんよ。ねえ、真由子」
「そうなんよね。うちも、葉子さんのこと初めて会ったような気がせんかったもん。あの秀星さんが、身内がいなくなっても、そこで温かに生きているような場所だったなら、蒼もそりゃ追いかけたくなったかもねって。そういうお家の人々なら親族になっても大丈夫っていう安心感かな――」

 つまり、葉子とご家族の初対面がいきなりの『結婚したいと思っている』という報告でも、すんなりと受け入れてくれたのは――。
 やっぱり、秀星さんのおかげでもあるんだと、葉子はまた目元を拭った。

 彼がたくさんの糸を手にしていて、彼が持っている糸はぜんぶ、葉子へと結んでくれていた。

 葉子ちゃん、ハコちゃん。僕のご縁を頼むね。

 そう聞こえてきてしまった。
 秀星が大沼に来るまで繋いできて、吹雪のなか息絶えるまで、握りしめてくれていた糸――。それをいま、葉子は引き継いだ気がしたのだ。

「俺、こんなに先輩に愛されていたんだな」

 姉に届いたシマエナガのハガキを手に、ずっと秀星の文字を眺めている蒼がそう呟いた。
 男の蒼が男からの想いに対して『愛されていた』と言い出しても、なんら可笑しくもないほどに、うなずけるものだった。

「それとおなじくらい。葉子も、秀星さんに愛されていたんだよ」

 結婚する男が、そこまで言及してくれることに葉子は驚いたが。でも、素直にその言葉も葉子の胸に浸みてくる。

 あの人の愛を胸に、私たちは一緒になろう。
 だから愛してくれたあの人を、私と貴方は共に忘れない。
 ずっと、私たちの間で生きてもらう。今度は私たちが、あの人を愛していく。

 改めて、そう思える。秀星からの言葉の数々だった。

「父ちゃん、母ちゃん。姉ちゃん。ありがとう。俺と葉子には、最高の祝いだよ」
「秀星さんの言葉を思い出して、気にして持ってきてくださったこと感謝いたします」

 広島のご家族もほっとした顔を揃えている。

「昴、お父さんにどれぐらいでできあがるか聞いてきて」
「うん、わかった」

 母も秀星が大沼では言葉にしなかったものを、父に早く見せたいようだった。昴が席を立とうとした時、まだ盛り付けをしている父が、両手にひと皿ずつ持って、こちらのテーブルへ向かってくる。

「アイナメと木の芽のフリカッセでございます」

 父が自ら持ってきて、蒼のご両親の前へといちばん最初に置いた。

「シェフ、呼んでいただければ、俺が運びましたのに」
「居てもたってもいらねえ空気を送って来やがて、待てなかったんだよ」

 シェフズテーブル、逆に客席の空気が厨房に直撃していたせいで、できあがってすぐに、給仕も呼ばずにすっとんできたということらしい。

 それでも、篠田の義父と義母は、あたらしい料理がやってきて笑顔になっている。

「あら、木の芽のよい香り。おいしそう」
「おさきにどうぞ。木の芽はこの駒ヶ岳周辺で摘んだばかりのものです。もうしわけありません。ちぐはぐな流れになりまして……」
「いえいえ、厨房で、しかもお嫁さんのお父様が自らふるまってくれる家族だけの席ですけえ。シェフもざっくばらんに行きましょう。そちらの年賀状、お父様にもお見せしてあげてくれんか、蒼」

 あとの皿の盛り付けは、スーシェフの石田さんがしてくれるらしく、父も一度、昴の向かいの席に座り込んだ。

「シェフ、これです。うちの両親と姉のところに、秀星さんが届けていた年賀状だそうです」

「すみません。見させていただきます」

 父がまず、最初の年越しに届いたという夏の大沼が写るハガキを手にした。『すばらしいシェフに出会った』という文面のものだ。

 もうそれを見ただけで、父も憚らずに涙をこぼし拭っていた。
 追って、最後のハガキにも、すすり泣いている。

「でも、逝っちまったんだな。わかってる。あれがほしくて大沼に来たんだ。手に入れたんだってわかってる……だから……」

 だから『受け入れて見送るよ』。
 父が写真集に寄せてくれた秀星への言葉、原稿にはその気持ちが綴られたものだったことを葉子も思い出す。

 ここに長く居着くと思います。
 彼の死後すぐのころは『俺との仕事もなにもかも捨てる覚悟だったのか』と、父の胸にずっと燻っていたもの。
 そうではなかった。その気持ちだけでも、父に届いたのでは――。葉子はそう思った。
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