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【後日談1】シェフズテーブルで祝福を

10.シェフズテーブル〈デセール〉

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 いよいよ、葉子から申し出た『クレープフランベ』でのおもてなしの開始。

 ワゴンには、ブランデー、コアントロー、クレープ、オレンジジュース、シュガーシェイカー、バター、オレンジ。そして、盛り付け用の清美オレンジのカットと、ハスカップのコンフィチュール。

 緊張を高めつつも、葉子は火で温まった銀のクレープパンを手にする。
 シュガーシェイカーで、まんべんなく砂糖をまぶし、カラメリゼを開始する。

 よく見て、砂糖が白色から茶色に変化していく様子をしっかりと見極める。焦げすぎると苦みが強くなる、焦げないと香ばしさが足りなくなる。何度も練習をしたところだ。蒼が、いや『篠田給仕長』がいつも隣にいて、じっと黙って見守っている時もあれば、『足りない』『やりすぎ』と声をかけてくれたところでもある。

 今日もスーツ姿の彼が、そっと葉子のそばに付き添ってくれている。

 よし、ここだ。見極めた葉子は、そこでバターを投入する。溶かしてオレンジジュースを追加する。『うん、いいね』という声が聞こえてくる。蒼が満足そうに微笑むのが見えた。
 クレープパンから、じゅわっとした音が立ち、バターとカラメルの甘い香りも漂ってくる。

 ここで蒼も動き出す。
 ワゴンの上にあるひと玉のオレンジとナイフを手にする。

「本日は、オレンジの皮から炎を伝わせるフランベをしたいという葉子からの申し出により、こちらの作り方でご提供いたします。ですが、まだ彼女が行うには未熟な部分がありまして、このオレンジの皮のカッティングは、指導してきた私がさせてきただきます」

 葉子は既にクレープにソースを染みこませる作業に入っている。
 クレープパンの上で、クレープを三角に織り込み、一枚、二枚と端に寄せていく。
 その隣から、オレンジの鮮烈な香りが届く。
 葉子の隣で、フルシェットに突き刺したオレンジを回転させながら、蒼がナイフで螺旋状に皮を剥いているところだった。

『そうだ。ふたりの共同作業ってことにしよう。これからも、できないことがあっても二人で力を合わせて頑張ります――という姿を見せるのはどうだろう』

 それが蒼が言い出した『いいこと思いついちゃった』だった。

『でも……。私ができないから、蒼君が支えてくれるって感じになっちゃうよね……』
『どうして。葉子ちゃん、ここまでクレープフランベができるようになっただろ。俺が教えてここまでできるようになってくれて嬉しいよ。俺、クレープフランベをここまで教え込んだことないから』
『そうなの……?』
『若い子が育っていくのって、嬉しいもんだよ。俺だって指導するということを、若い子に教えることで勉強しているんだから。教え子が育ってくれて嬉しいな。そういうお互い勉強っていうのを、見せようよ』

 婚約はすぐにできたが、仕事のスケジュールが詰まっているため、結婚式の日程は未定で、予定の目処も立っていない。それだけ『フレンチ十和田』に予約が入っている。だからこそ、この食事会でふたりの決意を見せようと蒼が言い出した。

『よくあるじゃん。披露宴でさ、夫婦で最初の共同作業ですって、ウェディングケーキに入刀するの。つまり、あれをクレープフランベでやろうってやつなのね』

 そう聞いて、葉子は急に恥ずかしくなったのを思い出す。
 あれ、自分がやるとしたら照れる……自分の時にはどうしよう……。なんて、親戚の結婚式に出席したときによく思っていたのだ。

『ああいうの、恥ずかしいんだけど。夫婦共同作業って……』
『あら、かわいい。照れ屋さんらしいですねえ。恥ずかしがり屋の澄ましたあなたのお顔も大好きですよ、わたくし』

 また真剣な会話の中で、硬くなっている葉子の心のロックを、ふっと外すような緩い口調を挟んできた。
 当然、葉子はおかしくて笑い出していた。
 それで一気に恥ずかしいという思いが吹き飛んでしまったのだ。だから『うん。蒼君と一緒ならやる』という気持ちになれた。

 蒼の『いいこと思いついちゃった』は、いまから行われる。

 蒼のオレンジの皮むきが終わる。
 葉子が焼いているクレープも、良い頃合になった。

 いつものように、蒼がテーブルへと向かう。

「彼女はまだ修行中ですので、技術が追いつかないところは、私が手伝うことにいたしました。『ふたりが結婚するための共同作業にしよう』と決めた時、葉子は『私ができないから、蒼君が支えてくれるようになってしまう』と言いました。私の返答は『給仕長として、教えることが勉強になっている』でした。いつもの毎日でも、お互いに与え合っていると思っています。今日のクレープフランベは、葉子から言い出したことです。広島から来る私の両親に姉をもてなしたい一心で、しかも、普段は店では取り入れていない、オレンジを使ってのフランベにして華やかにしたいという彼女からの気持ちです。できないことは、これからもこうして、夫になる自分が補い、また若い彼女がまっすぐに頑張る姿をそばに、私も元気をもらって前に進めることが、これからも出来ると思っています。今日はふたり一緒に仕上げをいたします」

 広島のご両親は、にっこり微笑みながら『そうだ。ふたりで頑張れ』と拍手をしてくれる。お姉さんも『蒼、かっこよすぎ!』と茶々を入れてきた。
 蒼の言葉に、母の深雪がもう涙ぐんでハンカチで目元を押さえている。
 いつのまにか母の隣に座っている父が、そんな母の肩をそっと抱き寄せていた。

「ちょっと待って! 俺、カメラ持ってくる! それ、撮影するから」

 昴が急いで厨房を出て行った。まだ間に合うので待っていると、愛用の一眼レフカメラを首にかけて戻って来た。

「よっしゃ準備OK。蒼兄ちゃん、姉ちゃん、どうぞ!」

 ワゴンの足下に跪いた昴が、一眼レフのレンズをこちらへと上向きにするようにしてアングルを固定した。
 それを見た真由子義姉もスマートフォン片手に、昴のそばにやってきた。

「私も! これ、うちのパパに見せなくちゃ、子供たちにも!」

 えー! なにこれ!? 披露宴みたいになってる! と、葉子は怖じ気づいたがそれどころではない。

「大丈夫。いっぱい練習したでしょ。さ、レードルにコアントローを入れてフランベの準備を――」

 そこは『婚約者共同作業』であっても、篠田給仕長の声になっていた。
 それだけで葉子の気持ちも引き締まる。
 照れや恥ずかしさよりも、『おもてなしの心』へと集中力を高める。



これをやると決めたら、彼女も意識を高めて仕事を磨き上げる、そんな強い目を持っています。



 秀星が生前に見ていてくれた『私』の姿をここで証明するかのように――。

 レードルにコアントローを入れ、そっと火へと近づける。
 艶やかに光るコアントローへと、青い炎が儚げに揺らめきながら灯る。

「では、オレンジ・フランベ、まいります」

 蒼が螺旋状に皮を剥いたオレンジを葉子の目の前に掲げてくれる。
 オレンジの果実から垂れ下がっている螺旋の皮へと、炎が揺らめくレードルを近づける。

 皆が固唾を呑んでいるの緊張感が伝わってくる。
 でも、葉子は呼吸を整え、そっとそっと螺旋状の皮へとレードルを傾ける。

 ゆっくり、くるりと、オレンジの皮をつたってコアントローが降りていく。それを追うように青く柔らかな炎も伝って降りていく。

「わ、綺麗だな」
 昴がそう言いながら、カメラのシャッターを繰り返している。
「ほんと、綺麗。素敵ね」
 真由子義姉も昴と顔を見合わせ微笑みながら、スマートフォンのレンズをこちらに向けて撮影している。

 銀色のクレープパンへと青い炎が広がっていく。
 ぐつぐつと優しく煮込まれていくクレープシュゼット。
 最後にシュガーシェイカーを振って、仕上げをする。

 蒼と一緒に、清美オレンジのカットと、ハスカップのコンフィチュールを添えたプレートへと綺麗にクレープを並べ、オレンジソースをかける。

「できあがりました。クレープシュゼット・フランベです」

 それぞれの席へと蒼と一緒に配膳していく。

「あたたかいうちに、どうぞ」

 蒼と一緒に並んで、家族へと勧める。

 娘の仕事具合がずっと気になっていたのか、父が待ち構えていたようにして、いちばんに頬張っている。

「おぉ!? うそだろ。葉子、おまえ、うまくなってるな!」

 プロのシェフのひとことに、葉子自身がびっくり跳び上がりそうになる!

「ほ、ほんとに!?」
「おう、あとひといきだな。これなら、蒼君の代理をしてもらってもいいぞ」

 嬉しそうに飛び上がったのは葉子だけではなく、隣にいる蒼もだった。

「えー!? どうしよう、まさかの奥さんに、メートル・ドテルのお仕事奪われちゃうかも!? いや、これって俺の指導の成果でもありますよね!」
「いやー、葉子がまさかの、ここまで……。蒼君、根気強く、ありがとうな」
「いや、ですから、言ってるじゃないですか。お嬢さんは頑張り屋さんですよ。それに秀星先輩も年賀ハガキに書いていたでしょ。意識を高めて磨き上げる強さがあるって。そのとおりのセルヴーズなんですよ」

 そこで蒼が急に、ジャケットの襟を正すような仕草をみせて、父に向かった。

「ですから、シェフ。十和田葉子さんは、セルヴーズとして合格。これからはソムリエを目指す指導に移行したいと思っています。さらに、これからは神楽君にもクレープフランベの指導を入れていきます。よろしいですね」

「こんなプライベートの時間に仕事の打診かよ。まったく……。サービスについては篠田給仕長に一任しているから、任せるよ」

 プロのシェフが娘が仕上げたものでも『これなら合格』と宣言したので、広島のご家族もさっそくひとくち、口に運んでくれる。

「おお、オレンジの好い香りがするな」
「ほんと、おいしいわあ」
「クレープシュゼット、初めて! 食べてみたかったの~! これって、大沼に遊びに来たら、いつでも食べられるってことだよね!」

 また調子の良い真由子義姉の明るい声に、篠田の義父が『ちゃっかりしとるわ』と言い出したが、葉子は蒼と一緒に笑って『もちろん、いつでも』と返していた。

 そして、父がニヤニヤしていた。

「そうか~、葉子がソムリエにねえ~。そうか~」
「あ、父さん。案外、期待してる? だよね、父親がシェフで、自分がつくった料理に合わせて娘がワインやドリンクを選んでくれるなんて、父親として最高だよね~。娘がソムリエで、婿がメートル・ドテルって最強じゃん」
「もう~、お父さんったら。仕事じゃないから、顔に出ちゃってるじゃない~。やっぱり娘と一緒に仕事ができるようになって嬉しいのよ」

 昴と母にそう返されても、父がずっとニヤニヤしているので、また母が笑っている。

 最後はパティシエの松本さんが、この日の食事会のために考案してくれた『デセール・マリエ』と名付けた、結婚祝いをデザインしたひと皿を仕上げてくれる。

 マリエ『結婚』をイメージしてくれたそのひと皿は、赤いベリーの彩りをアクセントに、ピンク色のマカロンをオブジェに、アイスとケーキのデザートになっている。

 ちいさな小学生だったころから葉子を知っているパティシエのおじさん、松本さんが作ってくれたひと皿に、葉子も嬉しくて涙が滲んでしまった。

 五月の爽やかな森の匂いがする厨房の窓辺にあるテーブルは、それからも、賑やかさが続いていた。




 食事が終わり、篠田のご両親が言い出したのは『秀星さん』へのお参りだった。十和田家の仏壇へと手を合わせた後は、あの場所へ花を手向けたいと言い出した。

 まだ日が高いうちにと、レストランから湖畔の散策道へと向かう。
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