名もなき朝の唄〈湖畔のフレンチレストランで〉

市來茉莉(茉莉恵)

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【後日談2】トロワ・メートル

4.フレンチ十和田のアペリティフ

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 接客はどのお客様にも同様に平等に。秀星からも、蒼からも、葉子はそう教えられてきた。
 それでも、やはり今夜の蒼は少し違う。彼の下にいるコミ・ド・ランという補佐役のセルヴーズだからなのか、妻だからなのか、どちらにしても葉子はそばにいてそう感じている。

 フレンチ十和田は本日も満席。予備席も込みで満席。もうこれ以上のお客様を受け入れることができない状態までの盛況だった。

 ハコチャンネルの視聴者経由で来てくださった岩崎様も、お母様とお父様と向かい合って楽しそうに会話を進めている。
 このお客様とほぼ同時に入ってこられた『師匠』も、同時進行になりそうだった。

「岩崎様に対応してから、甲斐様の順にサーブするから。頼むよ、十和田さん」

 葉子の担当は岩崎様と『師匠』となった。そこへ蒼がもれなくついてくれる形になる。
 給仕長の蒼はほぼ全テーブルをカバーする形になっている。コミ・ド・ランである葉子と江藤君、シェフ・ド・ランに昇格した神楽君とで、それぞれのテーブルを担当し、給仕長としてすべて対応する篠田の補佐をする形を、フレンチ十和田では取っている。
 
 その中でも、神楽君は『シェフ・ド・ラン』に任命されているので、篠田給仕長の手が回らないときは、彼が代役をすることも増えてきた。

 ちょうど、岩崎様のご家族のテーブルと、予備席であった甲斐師匠のテーブルは少し離しているが隣同士となった。

 すっかり日が暮れ、レストランの大窓に映し出される大沼と駒ヶ岳が赤紫の空の中へと、紺の影を落として溶け込んでいく。

「ああ……、綺麗ですね……。北星さんのお写真と一緒だ……」

 岩崎様にサービスドリンクとなっているアペリティフがちょうどお手元に届いたところ。ほの明るいキャンドルライトに黄金色のスパークリングワインの泡がきらきらと光るグラスを片手に、窓辺へとうっとりとした視線がむけられる。岩崎様だけでなく、ご両親も、このレストランの自慢でもあるガラス大窓の向こうに映し出される大沼の姿に感嘆してくれている。

「北星さんが毎日お写真を撮り続けていた訳が、ここにきてやっとわかった気がします」
「岩崎様、ありがとうございます。もうすぐアミューズをお届けいたします。もうしばらく、お待ちくださいませ」

 蒼がほかのテーブルでオードブルを届けているところ。あれが終わったら、こちらのアミューズになる。その前にと、葉子は着席したばかりの師匠のテーブルへ向かう。

「お待たせいたしました。アペリティフはいかがいたしましょう。こちらのドリンクを、写真集のサービスであるドリンクとしてオーダーもできます」

 ドリンクのメニューブックを、甲斐氏へと葉子は差し出す。
 彼もそれを受け取って開いてくれる。
 何故か、葉子はドキドキ。もう、秀星の師匠であるなら、一挙手一投足、チェックされているような気がしてならない。叩き込まれ身についたはずのいつもの姿勢も、いまだって気を抜かずに意識をしているのに、久しぶりに背筋が固くなって緊張している。

「ドリンクメニューを出しているということは、アペリティフにはこれしか出せませんよということですかね」

 ドッキリする。その通りなのだ。
 大きなグランメゾンのレストランや、アルコール飲料を担当する調理人を専門で雇っている店ならば、メニューなど提示しなくてもいいほどに『どんなアペリティフもドリンクもカクテルでもOKですよ』という対応ができる。
 むしろ、この場合、お客様にオーダーするドリンクの知識があって対応することが多い。

 しかしフレンチ十和田は少人数で賄っている地方レストランなので、限られたものしか出せない。その場合は『このドリンクメニューのなかであれば、いますぐ準備できます』という意味でもあるのだ。返せば、『これ以外はすぐには出せない』という意味にもなる。

 まさか。これ以外のものを頼んだら出してくれるのか。そう聞かれる? そうしたらどう対応しよう。
 ああ、いまここに篠田給仕長がいない。葉子一人でなんとかせねばならない。さあ、どう答えようと頭の中はぐるぐる。でも顔はほんのり微笑みを湛えたまま、それだけは決して忘れずに。落ち着いて、お客様のご要望をじっと待つのみ。

「ふうむ。なかなか興味をそそるセレクトだねえ。ワイナリーが多い北海道らしいものが目立ちますね。迷うなあ。鶴沼のスパークリングワインもいいねえ。余市産も飲んでみたいなあ。でも、よし。せっかくだ。大沼産のクラフトビールをお願いします」
「かしこまりました。お待ちくださいませ」
「いま、ドキドキしていたでしょ」

 ああ、見抜かれていると葉子は焦ってしまった。でも、ここはもう誤魔化しようもない。思い切って笑顔でいこう。

「はい。ですけれど、甲斐様がドリンクメニューのセレクトを楽しそうに眺めてくださって、こちらも嬉しくなってしまいました」
「よいセレクトですね。こちらもわくわくしました。そう、このときめきがレストランで大事なのです」
「桐生もそう言っておりました。ワインのセレクトも毎日、桐生が……。私にも様々なワインの味を教えてくれまして、毎晩、それが楽しみでした。いまは篠田給仕長がシェフと話し合って決めております」
「うん。わかるな。よしよし、合格」

 あ、ここでも蒼が試されている――と、葉子はふっと笑ってしまっていた。

「あなたも、笑顔が素敵ですね。桐生の写真そのままのあなたにも会えて良かった」
「……ありがとうございます。あの時はまだ、幼いままの私を桐生が教育しはじめたばかりのころでしたので……。給仕長として、見守ってくれていたからこその、あの写真だったと、あとで見つけたときに知りました。そんな写真です」

 つい、葉子は笑顔を潜めてしまった。はっとしてすぐに笑顔へと戻そうとする。
 なのに甲斐氏は、そんな葉子を咎めることもなく、優しい眼差しで見つめてくれている。

「笑顔を見せるばかりがサービスではありませんよ。お客様と共に、寄り添っていればそれでいいのです。写真集を持ってこられたお客様はきっと、貴女から、そんな北星秀の話を聞きたいはずです」

 嘘の笑顔はいらないのです――。

 やはり、葉子は、ご老人からやわらかに溢れる慈愛の微笑みの向こうに、『秀星』を感じ取っていた。
 そこに秀星から感じていた『芯』を、師匠からも感じている――。

「あちらのお客様のドリンクが半分になりましたよ。篠田もあちらのテーブルを離れました。アミューズのサーブへ厨房へ――でしょうかね。私はドリンクをいただいてから、もう少し後に」

 まだドリンクメニューを手元に広げて、じっと選んでいるふりをして、同様にやわらかな笑みを絶やさないのに。目つきが遠く蒼がいる方向へと向かっていることに葉子は気がつく。

 しかも目配りが素早い。やっぱり師匠、元メートル・ドテル! 葉子はさらに畏れを抱いた。

「かしこまりました。ドリンクをお持ちいたします。お待ちくださいませ」

 急ぎ足にならないよう、でも急いで葉子は厨房へ向かう。
 その入り口の通路で蒼と合流した。
 お客様から自分たちの姿が見えなくなる位置までは気が抜けない。でもその位置に来て、蒼ががっくり肩の力を抜いて叫んだ。

「こわっ甲斐さんの目がこわっ。おめえ、岩崎様のテーブルのアミューズ『はよいけ』って目をしていた!!」
「せ、正解です……」
「わー、葉子ちゃんにそんな話してんの! やだああ、もう、やだああー。秀星先輩、たすけてえっ」

『お、落ち着いて』――と葉子は、せっかくきりっとかっこいいメートル・ドテル姿の蒼の背中を撫でたが、葉子も若干震え上がっているのが否めない。
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