名もなき朝の唄〈湖畔のフレンチレストランで〉

市來茉莉(茉莉恵)

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【後日談2】トロワ・メートル

17.秀星が教えたかったこと

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 甲斐チーフの宿題を、葉子は猛烈に勉強する。
 これで『よくできました』の合格をもらえたら……。蒼が結婚記念日用に、葉子のためにと探してくれたデザートワインを開けてくれる。

 それを楽しみにして、葉子はレポートをまとめていく。

 二階にある自室ではなく、蒼の気配があるリビングやダイニングで黙々と調べたことをまとめていると、『これを貸してあげるよ』と、蒼が勉強したときの参考書も貸してくれる。
 蒼らしく、かいがいしくお世話をしてくれるところは、ほんとうに葉子は心から感謝したいほどだった。

 なのに。来年の記念日のために、こっそり準備してくれていたデザートワインを『お勉強のために試飲したい』なんてドライなことを言ってしまい、葉子は反省している。

 そうだ! 葉子も、蒼が喜びそうなこと思いついた。さて、どうしようかな。




 宿題提出の日がやってきた。
 この日に、甲斐チーフから出される問題に答えられるようにしておかねばならない。

 その日も、葉子と甲斐チーフは、地下のワインカーブ、立ち飲み用の丸テーブルを挟んで向き合う。

「世界三大貴腐ワイン、調べてきましたか」
「はい」
「では、質問します」

 テストは筆記でもなく、レポート提出でもなく、問答形式だった。
 それでも葉子は、調べたことを忘れないよう勉強したレポートの紙束を握りしめ、師匠に向かう。

「世界三大貴腐ワインとは、なんでしょう」
「一つは、フランス、ボルドー地方ソーテルヌ地区バルザック地区で収穫される貴腐ブドウのワイン。二つめは、ハンガリーのトカイ地方の貴腐ブドウワイン。三つめは、ドイツワインの規定で格付けされた最高級ランク『トロッケンベーレンアウスレーゼ』です」

「それぞれ代表的なものをあげてください」
「フランス・ソーテルヌは『シャトー・ディケム』。ハンガリーのトカイ地方は『トカイ・アスー』、『トカイ・エッセンツィア』に区分されたワイン。ドイツの『トロッケンベーレンアウスレーゼ』として格付けされたワイン。以上が、それぞれ代表的なものです」

「よろしいでしょう。では、それぞれの貴腐ワインの特長をお願いします」

「フランスのソーテルヌ地区では、シャトー・ディケムが有名で、ソーテルヌの格付けで最上級ランクの『プルミエ・クリュ・シュペリュール』を唯一獲得している特1級の貴腐ワイン。トカイは貴腐ブドウを使う中でも三つのカテゴリーに分けられます。『トカイ・サモロドニ』、『トカイ・アスー』、『トカイ・エッセンツィア』です。ドイツワインは収穫時の糖度で格付けされます。その最高級の格付けが『トロッケンベーレンアウスレーゼ』です。ドイツのワイン用葡萄は北限に近いところで作られるため、熟する度合いが品質で重要視され『糖度』でランク付けがされます。そのため最高級の格付けされたワインは、貴腐ブドウワインがほとんどとなっております。その格付けにあるものがデザートワインであることが多い」

 シャトー・ディケムのように、銘柄だけで語られるものではない。それぞれの国の生産形態、または、ワインの品質を保つための格付けがあるため、貴腐ワインとしての定義も様々である。そこまで答えたが、甲斐チーフはまだ『合格』とは言わず、質問を続ける。

「トカイのアスーとは」
「ハンガリー語で『しなびた葡萄』、ですが、糖蜜のようなという意味もあり、貴腐ブドウでつくったワインを指します」 

「アスーワインに使われている数字『プットニョシュ』とはなにを意味しますか。ラベルにある5プットニョシュ、6プットニョシュなどです」

「収穫の際に貴腐ブドウを入れて運んだ背負い桶のことで、この桶の数だけ貴腐ブドウでつけ込んだという目安。ベースの白ワインに入れた数、それで糖度が決まります。2013年から残糖度の規定が変更され、現在は5、6プットニョシュで区分されたものがアスーワインとなっています」

『よいでしょう』といいながらも、甲斐チーフはまだ笑顔は見せてくれず、瞼を閉じて、じっと集中しているようだった。だから葉子も気を抜かずに集中する。

「トカイ・エッセンツィアの特長をお願いします」

「トカイワインで、三つにカテゴリー分けされているうちの二つ『サモロドニ』と『アスー』の醸造には、貴腐の菌がつかなかったブドウ粒部分もベースワインとして使用します。それに対して『エッセンツィア』は、貴腐化したブドウ粒のみで醸造されるので、非常に希少で糖度が高いものになっています。また圧縮機にかけず、自然の重みで絞られた果汁を使用、発酵させているのも特長です」

「では。トカイの区分のひとつ、『サモロドニ』はどのようなワインですか」
「貴腐化した葡萄の房から、貴腐のある粒だけ収穫したものを使うのではなく、貴腐していない部分も含めた房ごと使ったものでつくられたワインです」

「そうすることで、どのような特長が生まれますか」

「『アスー』のように、貴腐化した葡萄の粒だけを摘んだものをベースの白ワインに入れて糖度を5プットニョシュ、6プットニョシュ入れたと調整するのではなく、『サモロドニ』の場合は、収穫した房ごと使用。そのため貴腐した粒と貴腐していな粒がひとつの房にあるため、貴腐の含有量が異なる。つまり収穫した房に付着した貴腐の量で糖度が決定する。ですから、甘口にも辛口にもできあがります。残糖度で分けられ、甘口は『エデーシュ』、辛口は『サラーズ』と呼んでいます。ヴィンテージ(収穫した年)毎に貴腐の発生具合が異なるので、そのヴィンテージ(収穫年度)に合わせたスタイルで生産しています」

「では。再度、お聞きします。貴腐ワインなのに、どうして辛口だったのか」

 甲斐チーフが『世界三大貴腐ワインを知っていますか』と、先日のレクチャーで質問した意味を、葉子はレポートを作成している時点で気がつくことができていた。
 貴腐ブドウだけを使用したからではない。トカイのワインにヒントがあったのだ。

「ひとつの房に貴腐化したブドウの粒もあり、貴腐の菌がつかなかった粒もある。その房ごと使われたから――でしょうか」
「そうですね。銘柄が不明になりましたが、そういうワインだったということでしょう。桐生はそれに気がついていたと思います。国産でも、なかなかないものだった。数本のみの仕入れだった。だから葉子さんには、その味を覚えておいてほしかったのだと思います。おそらく生きていたら後々に、私がここにきてから伝えていることも、教えていたはずです」

 あの時の甲斐チーフの質問の意図は、ここに繋がった。
 葉子も宿題をしているうちに『これを伝えたかったのか』と、途中でハッとしたものだった。
 そして、それらは……。秀星が生きていれば……。

『覚えていますか、ハコちゃん。辛口の貴腐ワインがあったでしょう。あれはね、収穫した貴腐ブドウの……』

 いまのキャリアに到達した時の葉子に教えてくていたはずだと、甲斐チーフは今日も断言してくれる。

「特にトカイのサモロドニの辛口サラーズに似ていたのではないかと推測します。ですから、お料理にも合う貴腐ワインだったのでしょう。桐生はそこを踏まえて、デザートワインよりかは、お料理に合わせていたのだと思います」

 さらに甲斐チーフが、また憂う眼を伏せて呟いた。

「彼ができなかったこと、葉子さんに教えたかったこと。私も手伝えて光栄です。これを彼への弔いとしたいと思っています」

 だから葉子に、秀星がテイスティングだけさせて、そのままにしていたことを、勉強してほしかったと言いたそうだった。

 やはり、自分は幸せだと葉子は改めて思った。
 彼はもういないけれど、彼は葉子のところに、たくさんのものを運んできてくれる。いまも。
 葉子を生かすために必要な人々が会いに来てくれる。
 それは彼の短かった人生のすべてが引き起こして遺してくれたもの。
 彼はもういないけれど、葉子をいつだって応援してくれている。

 今日、そう思えた。

 この後も、貴腐ワインについての質問が繰り返されたが、葉子が答えたすべてに対して、甲斐チーフは『よろしいでしょう』と正解としてくれた。

「ですが、まだ合格ではないです」

 まだ? だったらまだ蒼君のご褒美はお預け?
 葉子は少しがっかりする。あとなにが足りないのだろう?

「十日後に、矢嶋社長が来ますよね」
「はい。二ヶ月に一度、視察に来ています」
「その時は、お食事をして、料理にホールのサービス状況をチェックされてるのだとか」
「はい」
「その時に、社長にお出しするアルコールのサービス接客は、十和田さんに一任いたします。そこで合格かどうか決めます」

 え、いきなりソムリエ的接客!?

「あの、まだ私は勉強不足で」
「その勉強不足なりのサービスをお願いします。大丈夫ですよ。ワインリストは、いままでどおりに、私と一緒に選びましょう。選んだワインの冷やし方、勧め方、説明の仕方を覚えるためです」

 全部が全部、プロのソムリエみたいなことを求めているわけではないと知り、葉子もとりあえずホッとする。
 その日のシェフの料理に合わせ、当日決定したワインリストで行うことになった。

 それでも葉子がドキドキしていると、甲斐チーフが『大丈夫ですよ』と、おじいちゃんの笑顔になってくれる。なのに、それも一瞬で、急に鋭い視線になったので葉子はドキッとする。

 でも向けている視線が葉子を通り超して、上階へあがるワインカーブの階段の入り口へと向けられている。

「給仕長。いつからそこにいらしたのですか」

 え! 葉子も驚いて、背後になる階段へと振りかえる。
 そこには誰もいない。でも甲斐チーフはじろっとそこに視点を定めて睨んだまま。
 訝しみながら葉子もじっと見つめていると、階段が隠れている壁の角からひょいっと、蒼の顔だけが出てくる。

「ええっと、なんでここにいるのでしょうねえ」

 とぼけた彼がそこにいた。
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