名もなき朝の唄〈湖畔のフレンチレストランで〉

市來茉莉(茉莉恵)

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【後日談2】トロワ・メートル

19.銀の形見を引き継いで

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 大沼の午後の陽射しの傾きが、すこし早い時間になってきた。
 甲斐チーフがフレンチ十和田にやってきて、一ヶ月が経つ。
 睡蓮の季節は終わり、碧い湖と緑の駒ヶ岳だけの姿に戻った。


 矢嶋社長が神戸から来るまで、葉子は甲斐チーフの指導の下、さらにワインの扱いについての実践を繰り返した。
 これまでもアルコールの準備は蒼が担当しており、その手伝いを葉子や神楽君、江藤君のコミ・ド・ランが補佐をするという形だった。ここにきて、本当に『葉子だけでやっていく仕事』にしようと、上司の蒼も、指導役の甲斐チーフも本気を出してきたことが伝わってくる。

 だから葉子も真剣に取り組んだ。もう蒼は手伝ってくれない。いや、手伝わせたらいけない。
『フレンチ十和田』のソムリエは娘の自分がなるのだと、決意を新たにする。



 今日もデキャンタをしたほうがよいボトルがあり、甲斐チーフに指示をされ、ディナー開店前に合わせ、葉子がデキャンタージュを行う。

 ボトルを斜めにして収納するワインバスケット『パニエ』に、澱が瓶底に沈むよう寝かせておく。
 そのままの状態で開栓、キャップシールを切り剥がし、コルクを抜く。
 ボトルの注ぎ口でワイン液が透けて見えるように、テーブルにハンディライトを上向きに立てて置く。注ぎ口のガラスの中、ライトの光で透けてみるところを注視しながら、デキャンタの容器に、澱が入らないよう注ぎ移す。

 その時の甲斐チーフの視線が鋭い。黙って息を潜めて、葉子の動作だけを見ている。
 その緊張感の中、葉子も実践を重ねていく。

「よろしいでしょう。大丈夫ですよ」

 最後にお師匠さんが、にこっと笑顔になると合格の合図。葉子もホッとする。

 借りていた道具を甲斐チーフに返すと、彼がため息をついて葉子に言う。

「そろそろご自分の道具を揃えましょうか。使い慣れていないといけませんから。ソムリエ試験には実践もあります。三次試験にデキャンタージュなどありますからね」

 それまでは、蒼や甲斐チーフが持っている道具を借りていた。秀星がいなくなった後は、父の道具を借りたりもしていた。自分専用の道具は持ったことがない。
 自分は、いままでも、これからも『一介のセルヴーズ』、ソムリエになるだなんて夢にも思っていなかった。未だに『なる』ということに、おこがましさを感じている。だから、道具なんてまだ持つ資格はない……とすら思っていたのだ。

 指示されたワインをカーブへと取りに行こうと、厨房そばにある地下への階段へ向かうときだった。

「葉子ちゃん」

 給仕長室で事務仕事をしていた蒼が、ジャケットを脱いだ姿で入り口から姿を見せた。
 その呼び方だと『夫』として呼んでいるなと思った。
 ディナー準備中の業務時間に入っていたが、葉子はそのまま彼のそばへと、給仕長室へと向かう。

「えっと、なに? 仕事中だけど、いいの?」
「いいの、いいの。ちょっと入ってくれるかな」

 蒼から手を握ってひっぱってきたので、葉子は驚く。
 それでも仕事中なのに、彼からそんなことをするには、余程のことがあるのだろうと葉子も従った。

 蒼がドアを閉め、小さな部屋にふたりきりになった。
 今日も窓の向こうは、白樺木立に、まだ青い空と大沼が見える。夕の風ですこし波立っていた。

「甲斐さんが、そろそろ本格的な道具を揃えさせたらどうだと言っていたからね」
「あ、それ。いまデキャンタージュを終わった後に、言われたばっかりなの」
「揃えなくていいよ」
「え、なんで……?」

 あっけらかんと笑顔で言われたので、葉子は訝しむ。

 今日もパリッとした白シャツに黒のスラックスでキリッとしているメートル・ドテル姿の蒼が、にこにこしたまま、デスクの隣にある棚へと手を伸ばした。その銀パイプのシェルフ上段には、いまも秀星が愛用していたカメラのひとつが置かれている。その下の段に置いてある箱を取り、デスクの上へと置いた。

 その蓋を、彼がそっと開ける。
 そこに入っているものを見て、葉子は目を瞠り、どうしてそれが出てきたのかすぐに理解したから驚きのまま、蒼を見上げた。

「使えるように手入れをしておいたから」
「これ、もしかして……秀星さんの……」
「そう。ここで業務をしていた時に使用していたものだよ」
「いいの?」
「そのほうが喜ぶよ。先輩らしいよ。カメラにこだわっていたように、仕事でも道具には妥協しない。いいものを揃えているから、これを使って、ソムリエを目指してください」

 そこには、ワインを開栓するための『ソムリエナイフ』、ワイン用の『温度計』、デキャンタージュで使う細い『デポライト』、そして試飲で使う銀色の小さなカップ『ワインテスター』があった。

 どれも、蒼も甲斐チーフも持っているものだった。秀星が使っていた姿も、葉子は覚えがある。
 フレンチ十和田のように、ソムリエがいない店もある。その時は、メートル・ドテルが補うことが多い。また一流の給仕を目指すメートル・ドテルならば、その知識を持ち合わせているもの、だから三人の師匠たちは、その道具も揃えている。

 いちばん最初の師匠。秀星が使っていたものを葉子に使ってほしいと、二番目の師匠でもある蒼が準備してくれていた。

 その中から、葉子は銀色の『ワインテスター』を手に取った。

「覚えてる。これで、毎晩、準備したワインの味を確認していた」

 夫のように、先輩だった彼も、いつもパリッとした白いシャツに艶やかな黒い蝶ネクタイのすっとした佇まいで、この小さな銀カップを指にひっかけて、ワインの試飲をしていた。
 お客様に出すのに、きちんとした風味になっているか、チェックしていた。

 それが葉子の手に……。
 カメラは引き継ぐことはできなかったけれど、葉子にはこの銀のカップが引き継がれる。

「ありがとう、蒼君」
「そこの棚に置いてある箱に入れっぱなしのようだったから。それフランス製のいいやつだよ。ソムリエナイフも本格的。大事にして」
「ソムリエになるって、最近になって決意したばっかりだから。思いつきもしなかった」
「先輩が、これからもずっとそばにいるよ。頑張って」
「うん……」

 ソムリエナイフも覚えがある。あの人の手が、美しい手さばきで、ワインボトルを開封していた姿も思い出す。

「甲斐さんがレクチャーを始めてから、俺も感じているよ。秀星さんも、将来は葉子ちゃんをソムリエにしようとしていたんじゃないかって……。俺も同じ思いに至ったのだから、きっとそうだよ」

 葉子も『きっと、そうだった』と思えるから、夫に笑顔で頷いた。

 頑張って、ソムリエになるよ。
 唄もやめない。

 あなたのように、好きなものを愛しながら、それを支える仕事にも手を抜かない。
 葉子も、秀星の生き方を思い出し、心に誓った。
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