貴方と二人で臨む海

鏡野ゆう

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東京・横須賀編

第十七話 いきなり零距離射撃

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 海軍施設を出たところで、今日はお付き合いいただいてありがとうございましたとお礼を言って解散するつもりでいたら篠塚さんが送っていくと言い出した。

「大丈夫ですよ。毎週通っている道順ですしここから迷うことはありませんから。篠塚さん、また戻ってこなくちゃいけなくなるでしょ?」
「ラッシュともかち合いそうだし門真さんがまた何かしでかしたら困るから送っていく」

 篠塚さんは「また」を妙に強調して言った。

「そんなこと言ったら通勤の時なんてどうなるんですか。毎日のように電車通勤をしていますけど今のところ平穏無事ですよ?」
「なんだって? 何か言ったか門真さん?」

 いつもより一割増の怖い顔で見下ろされた。

「……お心遣いいたみいりますです」
「分かればよろしい」

 電車に乗っていつものように出入口に立つと、篠塚さんは私とサラリーマンさん集団の間に立った。不機嫌そうな顔をしながらも人混みから守ってくれるのはさすが自衛官さん。

「そんな不機嫌そうにするなら送ってくれなくても良かったのに」
「だからこれは元からの顔だって言ってるだろ」
「そうかなあ……」

 だって前に敬礼した時は優しそうな顔をしていたような気がするんだけど。もしかしてあれは痛み止めの薬が見せた幻ですか?

「ところで篠塚さん、そんなに近寄ったら向こうが見えませんよ」

 私のすぐ前に立っている篠塚さんはまるでそびえ立つ壁状態。目の前にはジャケットとその下に来ている服のボタンしか見えない。

「見えなくても問題ないだろ。それに何か見えたらまた余計なことに首を突っ込むことになるんだから見えないぐらいが調度いい」
「そんなことないですよ」
「そんなことある」

 駅に着いてあっちのドアが開いて更に人が乗り込んでくると頑丈な篠塚さんも大勢の人に押されたら動くしかなくて私とピッタリとくっつくような感じになってしまった。

「だからって近すぎですってば」
「仕方がないだろ、帰宅ラッシュで混雑しているんだから。向こうの車両の方が空いていたかもしれないな」
「この車両、乗り継ぎ駅でちょうど階段の横にドアが来ますからね。もうちょっと早く出れば良かったかな。ついついおじさんのガイドが楽しくて長居しちゃったから。すみません」

 本来ならもっと早い時間に終わる筈の見学だったけれどJJおじさんの見学ツアーが予想以上に面白くてつい時間を忘れて隅から隅まで歩き回ってしまったのだ。途中からは軍司令が見学ツアーをしていると聞きつけた乗組員さん達まで後ろに行列を作って着いてくるものだからちょっとした団体様ツアー状態だった。

「いや。それは俺も楽しんだから別に構わない」
「にしても人、多過ぎですよね……」

 たまにタバコのにおいをさせている人なんかがそばに立って泣きそうになることもあるけれど、今日は篠塚さんの壁効果もあってか今のところ混んでいるもののその点では快適な状態だ。

「篠塚さんはタバコ、吸わないんですか?」
「ん? 最初の頃は吸っていたが職場も寮にいた頃ものんびりと吸える環境じゃなかったからな。一人暮らしを始めてからもいつの間にか吸わなくても平気になってた。どうしてそんなことを?」
「近くにいてもタバコのにおいがしないなって思ったから……」
「それは近すぎるからどけと言いたいってやつか?」
「そこまでは言いませんけどね。けど近すぎ」

 気がついたら私はドアと座席の間の角の隅に押しやられていて篠塚さんはその前にこっちを覗き込むようにして立ち塞がっている。そして篠塚さんの唇が自分の目の前に触れるか触れないかぐらいのところまで迫っているのに気がついた。

―― うっかり動いたらおでこか前髪に触れちゃいそう…… ――

 脇の手摺をしっかりと握って電車の揺れで体が動かないように足を踏ん張る。だけど気になりだすとどうしてもそこへ視線がいってしまう。真一文字に引き結ばれた口。そう言えば自衛官さんってお髭をはやしている人ってイラクに派兵された人達の写真でしか見かけないけど隊則的には認められているのかな……。

「……ぷっ」

 真一文字に引き結ばれていた口元がいきなり歪んだ。どうしたことか篠塚さんが急に噴き出して肩を震わせながら笑い出す。

「な、なんですか?」
「いまの門真さんの顔ときたら。寄り目になってとんでもないことになってたぞ」
「そんなことないです、篠塚さんの気のせいですよ」
「そんなことあるだろ、いったい何を見てたんだ?」
「なにをって……特に何を見てたわけでもないですよ」

 はい、嘘です。今にも触れそうになっていた篠塚さんの口元を見てました。

「じゃあ何を考えていた?」
「なにも考えてませんよ。あ、そんなことないかな、近すぎ狭すぎって考えてました」

 それも嘘です。触ったらどんな感じかなってちょっとだけ考えてました。

「大丈夫か、顔が赤いぞ?」
「だってぎゅうぎゅう押してくるんだもん、暑苦しいから何とかしてほしい」
「まったく色々と注文の多い官僚様だな」
「質問されたから答えただけですよ。なんでそこでニタニタ笑ってるんですか、感じ悪いですよ」

 プウッと頬を膨らませてから篠塚さんの目を見つめて不満を表明する。
 
「まあ俺は高卒で門真さんのようなご立派な学歴を持っているわけじゃないが、今の門真さんが何を見ていて何を考えているかぐらいは分かってるぞってやつだな」
「だ、だから狭すぎて暑苦しいんですってば」
「そういうことにしておくか」
「そういうことにしておくじゃなくてそういうことなんです」

 それが嘘なことは私自身が一番よく分かっていたけれど、そこで素直にたぶん篠塚さんのお察しの通りですとはとても恥ずかしくて言えなかった。


+++


「夕飯、どこかで食っていくか?」

 混雑した電車を降りたところでホッとしていた私に篠塚さんが提案してくる。

「そうですねえ……だけどあのケーキのせいでまだお腹に何か入りそうにないですよ。篠塚さんは?」
「実のところ俺もだ。さすがにあのケーキには参った」

 青い見た目はともかく予想外に美味しかったけれどクリームいっぱいでアメリカらしくかなりの大きさだった。残すのも申し訳ないからと完食したのがいけなかったのか今はまだ夕ご飯を食べる気分じゃない。

「このままだと帰ったらお茶漬け程度で終わりそうかなあ……」
「確かに空母の中を歩くぐらいじゃ腹ごなしにならなかったな」

 駅からマンションまでの間を加えても大した距離にはならないから今晩の夕飯は本当にお茶漬けになっちゃいそうな気配だ。

 それから二人であれこれと取り留めのないことを喋りながら歩いた。自宅のマンション前に到着すると篠塚さんの顔を見上げる。

「今日はお付き合いありがとうございました。それに送ってもらっちゃって」
「俺も楽しかったよ。もしこの後にフリューベック大将と話す機会があったら礼を言っていたと伝えてくれ」
「分かりました。じゃあおやすみなさい、また来週のお稽古で」
「おやすみ。ああ、その前に」

 篠塚さんがその場を離れようとした私の腕を掴んで引き留めた。

「なんです?」
「電車の中で門真さんが考えていたことの答えを教えておこうかと思って」
「答えって何も質問してないじゃないですか」
「でもあの時に考えていたよな? 俺の唇に触れたらどんな感じがするんだろって」
「え?!」

 顔が一気に熱くなる。なんで分かったんだろう? まさか無意識に口に出していたなんてことはないよね?! ってことは篠塚さんてば読心術が使える超能力者?!

「まあ実のところ俺の方も興味がある。門真さんの唇は何度か手のひらで触れているからどんな感触かは分かってはいるがお互いの唇で触れてみたらどんな感じなんだろうなって」

 そう言うと篠塚さんは私の頭の後ろに手を回して引き寄せた。そして屈みこんで唇を押しつける。いきなりのことに息をするのも忘れて目を見開いたままその場で固まってしまった。

「どんな感じだった?」

 しばらくして唇が離れると篠塚さんが顔を上げてこっちを見詰めてくる。

「えっと、あの……突然のことでびっくりしちゃったからよく分からなかったです……」
「だったらもう一度」
「えぇ?!」

 更に引き寄せられて唇が触れてきた。しかもさっきよりも強く。息が苦しくなって篠塚さんのことを両腕で押し返しながら空気を吸おうと口を開いたところで何かが口の中に入り込んできた。

「?!」

 口の中に入ってきたのは篠塚さんの舌だった。こ、これはもしかしてディープキス?! 唇だけじゃなくて舌まで触れ合ってしまう深いキスに驚いてしまって思わず手に触れたジャケットを掴む。

 どのぐらいそうしていたのか分からない。篠塚さんの唇がゆっくりと離れていく途中で私の下唇を軽く噛んだ。その痛みにハッと目を開けると面白がっているような顔が私のことを見下ろしている。どうやら気がつかないうちに目を閉じていたみたい。

「それで?」

 再び質問された。

「えっと……」

 初めてのディープキスで唇の感触どころじゃなかったんだけどなと思いつつ、どうだったかなと篠塚さんの唇が触れた時の感触を思い起こしてみる。

「……思っていたより、その……温かくて、それから冬なのにカサカサしてなかった、かな」

 私の答えに篠塚さんは苦笑いした。

「なんだそりゃ。もっと言いようがないのか?」
「だって、その、誰かの唇を触るなんて初めてのことだし」

 しかも手じゃなくて自分の唇で。それにカサカサしてないって思ったのは事実だし。

「なるほど」
「篠塚さんは?」
「俺?」
「私に聞くばかりじゃずるいと思うから……」

 そうだなあと篠塚さんは少しだけ考え込んだ。

「門真さんの唇は手で触った時に感じた通り柔らかかった。それと予想以上にその感触が気に入った、かな」
「そう、なんですか?」

 気に入らないって言われるよりマシかな?なんて頭の隅っこで考える。

「だから少し後悔している」
「後悔?」
「知らないままでいた方が良かったのかもしれないな。一度味わってしまうと今までのように門真さんのことを知らぬ存ぜぬ自分には無関係な女だって自分に言い聞かせるのは難しいから」
「それで後悔なんですか?」
「まあクマのパンツを見ておいて無関係もなにもあったもんじゃないか」

 篠塚さんは途方に暮れたように笑った。

「それ、忘れて下さいよ……」

 お尻のクマちゃんのことを思いついたのは次の日の朝になってからだ。

「そんなこと言われても見てしまったものはしかたがないだろ。それで、だ。今は唇がこんなに柔らかいなら他の部分はどんなに柔らかいんだろうと現在進行形で気持ちをそそられている。どうなんだろうな?」
「どうって……?」
「他の部分」
「……どう、なのかな……」

 他の部分ってどの部分?

「すぐにでも確かめたいのはやまやまなんだが今夜は大人しく帰るとする。そうしないと門真さんのことを抱き潰して今度こそ年末のクソ忙しい時に何てことするんだって高島さんが怒鳴り込んで来そうだから」

 そこで言葉を切ると篠塚さんはニッと笑った。

「抱き潰す……」
「他の部分の探索はそっちが仕事納めの日になるまで楽しみに取っておくことにしようと思う。だからその日の終業後の予定は帰省も忘年会も無しで必ずあけておくように。返事は?」
「え、あの?」
「返事」
「……分かりました?」
「よろしい。じゃあお休み。今日は誘ってくれて感謝する」

 篠塚さんはキスなんて最初から存在しなかったというような顔をして私のことをマンションのエントランスに押し込むと、海自式の敬礼をして歩いて来た道を引き返していった。

「……あれ?」

 ちょっと待って。もしかして今のってとんでもない約束をしてしまったんじゃ?

 エレベーターの中で我に返って慌ててバッグの中からスマホを引っ張り出して篠塚さんに電話をかけた。今ならまだ歩いている途中の筈だ。

『どうした? もしかして今から引き返して来いって話じゃないよな? 明日また仕事を休む羽目になっても知らないぞ』

 繋がった途端に笑いながらそんなことを言われた。

「そうじゃなくて! 仕事納めの日って」
『なんだ。さっき分かりましたと返事をしただろ。返事をしたからには変更は認めない。以上だ』
「でも、あっ」

 ……切られちゃった。もう一度かけてみたら即切りされた。前のお弁当の時と同じパターンだ。つまり篠塚さんはこの件に関して当日までもう話し合うつもりは無いってことらしい。

「仕事納めまであと二回お稽古あるもの、それまでにちゃんと話し合わなくちゃ……」

 そう自分に言い聞かせてはみたものの、今までの篠塚さんとのやり取りからして話し合いに応じてもらえる可能性なんて限りなくゼロに近い気がするのは気のせいじゃない、と思いたい……。
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