貴方と二人で臨む海

鏡野ゆう

文字の大きさ
上 下
32 / 45
東京・横須賀編

第三十二話 多分ここが二人のスタート地点

しおりを挟む
 ここしばらく篠塚さんちに遊びにいくたびに増え続けていた部屋の中の段ボール箱がとうとう綺麗さっぱりなくなった。

「こうやって見ると結構広いお部屋だったんですね」

 最後の拭き掃除を終えて何もなくなった部屋を見渡す。部屋にあるのは玄関に置かれたゴミ袋と篠塚さんのリュック、そして私のバッグだけだ。

「そんなに物は増やしていないと思っていたが結構あれこれ増えていたな。色々と手伝ってくれて助かった」
「とんでもない。仕事をしながらの引っ越し準備が大変なのは私も知ってますから」

 管理会社の人に部屋を確認してもらって鍵を返すと私達はそのまま東京駅に向かう。

 運び出された荷物は今頃は西に向かって移動中の筈で、夕方には引っ越し業者さんによって新しい部屋に運び込まれることになっている。だから篠塚さんも約束した時間までには新しいアパートに着いていなくちゃいけないのでそうノンビリともしていられないのだ。

「最後の日ぐらい門真さんとゆっくり過ごしたかったんだがすまなかった」
「仕方ないですよ。年度末でバタバタしている時のお引越しなんだから。それより五月にはそっちに押し掛けるんだからきちんと荷解きをしておいてくださいよね。私の寝るスペースが無かったら困るので」
「別に無くても問題ないだろ。俺の上で、いてっ」

 なにやらエロいことを言いかけたので肘鉄を食らわして黙らせた。

「まったくますます手に負えなくなってきたな。やはり大津隊長に頼んでいくのも間違いな気がしてきた」
「ダメですよ。隊長さんのせっかくの申し出なんです、ご厚意を無駄にしないで下さい」

 お稽古の師匠に近江さんと長浜さんがなることを却下した篠塚さん、どうするんだろうと思っていたら何と大津隊長さんが申し出てくれたらしい。なんでも自分が篠塚さんを江田島に行かせるのだからその責任はきちんと取っておくとかなんとかこんとか。

 とは言っても相手は隊長さんで偉い人だから、篠塚さんの時のように近江さんと長浜さんが不在の穴を埋めるなんてことは出来ないので今までと同じように毎週見てくれるというわけにはいかなくなった。そういうわけでお稽古は一ヶ月に一度ということに落ち着きそうだ。

 もちろん月一になったからと言って怠けるわけはいかないので、横須賀に来ない時は篠塚さんが考えてくれたトレーニングメニューをこなす予定。

「出世払いをしなきゃいけない相手がますます増えることになるんだがいいのか?」
「隊長さんが俺の分のつけは篠塚に払わせるって言ってたから私には関係ないんじゃないかな」
「やれやれ。また俺の与り知らぬところで余計な取り引きをしたな?」

 困った奴だと笑っている。

 笑っている篠塚さんを見ながら最初の時はなんて怖い顔をしている人なんだろうって思っていたのに随分と雰囲気が変わってしまったなあって思った。こんな風に笑っているのを見るとあの時の怖い顔が嘘みたい。あ、嘘ってことはないかな、普段はやっぱりちょっと怖い顔だし。

「こっちだって少しでも利息を減らそうと必死なんですよ。このまま篠塚さんの言うがままに借りを増やしたらあっと言う間に人生二回り分ぐらいかけて稼がなきゃいけなくなっちゃいますから」
「まったく困ったもんだな。それで、本当に来るつもりでいるんだよな?」
「迷惑?」
「とんでもない」
「良かった。そっちの隊長さんにもお饅頭を持っていくって約束しちゃったから篠塚さんにダメだって言われたらどうしようかって心配しちゃった」

 歩いていた篠塚さんが立ち止まってポカンとした顔で私のことを見下ろした。

「なんだって?」
「特別警備隊の瀬田一佐さんですよ。前にお会いした時にご馳走した実家の近所の饅頭をたいそう気に入ってくださったんです。ゴールデンウィークに篠塚さんちに遊びに行くのでその時にお持ちしますねと言ったら楽しみに待ってるって。あれ、どうしたんですか、篠塚さん?」

 篠塚さんが手を額に当てて何やら唸っている。

「なんですか。別に驚くようなことじゃないでしょ?」
「驚くだろ、普通。自分よりも先にカノジョと上官が昵懇になっているっておかしくないか?」
「別に篠塚さんのことを考えての袖の下ってわけじゃないですよ?」
「そんなこと分かってる。袖の下が通用するような部隊じゃないんだから」

 どうしてそうなったんだ?と呟きながら篠塚さんは再び歩き始めた。

「それより篠塚さん、そろそろ教えてくれても良いんじゃないかなあ……」
「なにが?」
「しらばっくれちゃって! ほら、江田島に行くことを教えてくれた日、何か言いかけたでしょ? 江田島に行くまでにちゃんと教えてくれるって言ったじゃない」

 長浜さんが声をかけてきたせいで言いかけたことを呑み込んでしまった篠塚さん。あの後に改めて話してくれるのかなと待っているんだけど、江田島に行くまでに話すといいながらその気配がないまま今日まで来てしまったのだ。

「ああ、あのことか。あとで話す」
「あとでって。もう電車に乗って東京駅に着いたら新幹線に乗っちゃうじゃない」
「なんだ。ホームまで見送ってくれるんじゃないのか?」
「それは行くけど」
「じゃあホームで話す」
「えーー……なんでそんな落ち着けない場所で話すのー?」

 長浜さんには改めて話すって言っていたからもうちょっと落ち着いた場所で二人っきりの時でも話してくれるのかなって思ってたのに。しかもあの時は「汐莉」って名前を呼んだのにいつの間にか「門真さん」に戻っちゃっているし。

「別に今すぐどうこうって話じゃないんだ。お互いに離れている間にじっくり考えてほしい話なんだよ。だから問題文はホームで渡す。解答は二年後に提出してくれたら良い」
「二年も考えなきゃ出ない解答って一体どんな難題……」

 ブツブツ言っている私のことを篠塚さんは愉快そうに見下ろして笑う。

「ま、それなりに?」
「もったいぶらずに話してくれば良かったのに。もしかしたらお引越しのお手伝いをしている間に答えが出たかもしれないでしょ?」
「ダメだ。少なくとも二年間は離れているんだ。その間に考えてくれ」
「篠塚さんが無事に課程を修了したら離れている期間は更に長くなるじゃない……」
「だからそのことも含めての問題なんだよ。ちゃんと後で話すからきちんと考えてほしい。了解?」
「……了解しました」

 言い出したら絶対に譲らないのは分かっていたから仕方なく引き下がることにした。


+++


 新幹線のホームは土曜日ということでそこそこ混雑していて発車前の新幹線は見た感じだと自由席はほぼ満席に近い状態だった。

「指定席にしておいて良かったですね。自由席の方は満席みたいだし」
「そうだな」
「時間は大丈夫?」
「ああ。今のが出てから到着するやつだから余裕は十分にある」

 空いているベンチに座ると慌ただしく乗り込んでいく単身赴任のサラリーマンさんらしき姿を眺めた。これからお家に帰るのかな? それとも出張かな? 中には某ネズミの国の袋を下げた家族連れさんや学生さん達もいたりしてなかなか賑やかだ。五月の往復は早めに買っておいた方が良さそう。篠塚さんを見送ってから窓口に行ってみようかな。

 あ、そうだ。

「あ、そうだ、篠塚さん、あのね」

 周囲を気にしながら声を潜めながら話しかけると篠塚さんがこっちに体を傾けてきた。

「JJおじさんが次は特別警備隊の訓練を視察したいって言ってましたよ」
「なんだって?!」

 おお、珍しく本気で驚いている。

「さすがにゴールデンウィークは無理だけど、きっと夏ごろにはひょっこりそっちに顔を出すんじゃないかな」

 私の言葉に篠塚さんは真面目な顔に戻って考え込んだ。

「……アメリカ海軍と言えばシールズか」
「ん?」
「いや。きっと大騒ぎになるだろうなって話だよ。また門真さんが案内役を引き受けることになるのか?」
「どうだろう。今度ばかりは公式な視察だと思うから岩国からそっちに直接行くんじゃないかな」

 JJおじさんのことだからいきなり東京にやって来て「夏休みだし遊びに来ちゃったよ、アハハハ」と笑いながら私の前に現れそうだけど。

 ホームに発車を知らせるアナウンスが流れて何人かの人がダッシュして新幹線の駆け込んでいった。その直後に車輛のドアが閉まりホームの柵が閉まる。

 新幹線が動き始めるのを眺めながら次の列車が入ってきたらしばらく篠塚さんと会えないんだなあって考えちゃって何だかちょっと寂しくなってきた。きっとここしばらくお引越しのお手伝いを兼ねて連泊していたから余計そう感じるのかな……。

 そんな私の気持ちを察してくれたのか篠塚さんが私の手を軽く叩いてきた。

「さて、ホームも少し落ち着いたから話しておこうか」
「二年間じっくり考えるってやつね」
「ああ」

 篠塚さんは私の手を握ると黙り込む。

「正直言って訓練課程はかなり厳しくて毎年のように脱落者が出るという話だから無事に修了できるか俺にも分からない。そうなればこっちに戻されることになる」
「私はそんなことないと思うけど」
「俺も横須賀陸警隊は好きだが出戻ってくるのは本意じゃないな」

 それでだと篠塚さんが言葉を続けた。

「これから二年間は会うこともままならない状態になるだろう。ま、門真さんのことだから休みのたびに押し掛けてきても驚きはしないが少なくとも俺がこっちに戻ってくることは無いと思う。本当なら行く前にきちんと約束を取りつけておこうかとも思ったんだが、そういうことが出来るような部隊じゃないからな」

 篠塚さんは私のことを真っ直ぐと見詰めると手をギュっと強く握った。

「汐莉、もし課程を無事に修了して俺が晴れて特別警備隊の一員になったら俺と結婚して欲しい」
「……そ、それって……プ……?!」
「だから直ぐに答えが出るような問題じゃないって言ったじゃないか。俺が二年間かけてゆっくり考えてくれと言った意味が分かっただろ?」

 確かにあの時に言いかけた言葉から推理してそうなんじゃないかなと考えないでもなかった。だけどあの後の篠塚さんはいつも通りだったし相変わらずの「門真さん」だったからきっと私の聞き間違いで考えすぎだったんだろうなって思ってたのだ。

「……うん、納得しました。その返事を二年後に聞かせてほしいってことなのね?」
「そういうことだ」
「でも二年後、篠塚さんが無事に訓練を終えても私が広島にある地方防衛局内の分室にでも配属にならない限りは離れ離れは続くよね? それでも二年後に返事なの?」

 何故か篠塚さんがニヤッと笑った。

「なに? なにか私の知らないことが進行中とか?」
「それは二年後まで秘密だ。答えを聞かせてもらってから教える。ダメだ、今は何も言わないし聞かない。解答は二年後、そこは譲らない」

 どうやら篠塚さんは二年後に向けて何かを計画中みたいだ。だけどそれは私が返事をしてからでないと聞かせてもらえないらしい。しかも今じゃなくて二年後。めちゃくちゃ気になるんだけど。

「その間に遊びに行くから何度も顔を合わせるのに」
「それでも二年後。俺が課程を終えてからでないとダメだ。もしその二年間で俺とは無理だと判断したならそれはそれで構わないから」

 そんなことを口にしているけど例え私が別れたいと思ったとしても離してもらえそうにないのは気のせいじゃない筈だ。

「分かりました。二年の間にしっかり考えます。もちろん遊びには行くけど」
「よろしい」

 それからホームに新幹線が入ってくるまで手を繋いだまま二人であれこれとお喋りをした。

 お喋りの途中でホームに篠塚さんが乗る新幹線が入ってきて東京にやって来たお客さんが反対側のホームに降りいていく。そして車内の清掃が終わってお客さん達が乗り込み始めるのを見てそろそろだなと篠塚さんも立ち上がった。

 ドアのところまで一緒についていくと篠塚さんが立ち止まってこっちを見下ろした。

「じゃあ」
「はい。くれぐれも怪我には気をつけて下さいね。怪我しちゃったらなんにもならないから」

 だって情報本部にもそういう自衛官さんが何人かいるから。情報収集も大事な任務と分かっていても本音は元の部隊に戻りたいって話していたのを聞いたことがある。

「分かってる。汐莉も無茶するんじゃないぞ? 電車の中で痴漢を見つけても飛びかかったりしないように。自分の手に余ることは即通報、いいな? それから足元注意。よそ見してウロウロするな」
「分かってます。ここしばらくずっと同じことを言われ続けてもう耳タコ」

 うちの母より口煩いんだからと呟いたらおでこをツンと突かれた。

「だが気をつけろと言った五分後にはすっかり忘れて階段でつまづくじゃないか」
「まあそこは否定しないけど……」
「とにかく自分の手に余るようなことには手を出すなよ? いや、手に余らなくても手を出すな」

 最後の方は完全に命令口調だ。

「はいはい、分かりました。ほら、そろそろ乗らないと置いて行かれちゃいますよ」

 ホームにアナウンスが流れる。

「じゃあ行ってくる。五月に会えるのを楽しみにしているから」
「私も楽しみにしてます。行ってらっしゃい」

 篠塚さんが乗り込んでしばらくしてからドアが閉まった。

 ドア越しに立っていた篠塚さんがニッと笑いながら敬礼をしてきたので真似をしてみたら角度が違うという顔をされてしまった。うーん、単純な動作なのに敬礼ってなかなか奥が深くて難しい。五月に会いに行った時にはその辺のこともゆっくり教えてもらおう。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

やり直せるなら、貴方達とは関わらない。

BL / 連載中 24h.ポイント:3,862pt お気に入り:2,709

シャウトの仕方ない日常

ライト文芸 / 完結 24h.ポイント:284pt お気に入り:409

装備製作系チートで異世界を自由に生きていきます

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:887pt お気に入り:29,992

イアン・ラッセルは婚約破棄したい

BL / 完結 24h.ポイント:35,047pt お気に入り:1,556

空母鳳炎奮戦記

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:149pt お気に入り:5

処理中です...