暁に立つ影(完結)

もちもち

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黒き王子と紅の女王ー出会い編

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白亜の城壁に囲まれたヴィンダム王国の都サガレス。暁の涼気が訓練場を撫でるころ、一人の青年が木剣を振っていた。黒髪の短髪は汗に濡れても乱れず、わずかに長い前髪が青く透けた瞳をかすめるたび、刃のような光がきらりと走る。第一王子ゼル・ウィンダム――生真面目で端正なその姿は、少女漫画の中から抜け出したように美しく、それでいて近寄りがたい。彼は剣を納めると泉に映る自分を見すえ、胸奥で呟いた。

「弱さは許されない。家族と民の盾になるために」

南方からは、軍事国家ラグジュリア王国の喧噪が届き始めていた。若き女王ルディ・ルクセリアが即位してわずか三年、幾度もの戦勝で“紅の覇王”と恐れられている。両国がまだ剣を交えぬ頃、外交交易会議が国境都市エルダランで開かれ、ゼルは父王の名代として出向いた。

夜更け、広場の篝火が鎮まり、石造りの泉に月が落ちていた。甲冑を脱いだゼルが静けさを楽しんでいると、背後に艶のある声が落ちる。

「静かな獣ね、あなたは」

振り向けば、深紅の軍装に黒いマントをまとったルディが立っていた。白い喉元をあえて隠さず、銀の飾りが胸元で星を弾く。

「貴女が噂の覇王か」

「覇王なんて古いわ。私はより強い光を求める女よ」

彼女は泉の水面を覗き込み、指先で撫でるように波紋をつくる。その指が偶然を装ってゼルの手の甲に触れた。冷たい水滴より熱い微震が走り、ゼルは思わず視線を逸らす。

「あなたの国は美しい。でも、嵐に曝された絹のように脆い」

「その“脆さ”を誇りに思う。民の優しさこそが我が国の魂だ」

ルディはわずかに微笑み、その蒼く澄んだ瞳に自らの影を映す。そこにあるのは恐怖でも屈服でもない、折れない信念。征服者の手には届かない光だった。彼女は初めて、領土ではなく一人の人間を“奪いたい”と感じた。

それ以降、ルディは国書と密書を重ねて送り、共闘の提案や友好の婚姻をほのめかした。しかし返ってくるのは丁重ながらも端的な拒絶ばかり。

――私の国は剣ではなく意志で守る。

ゼルの筆跡は凛としていて、それ自体が一つの盾のようだった。手を伸ばすほど逃げる光に、ルディの胸は乾いていく。征服欲とは質の違う渇きが、日に日に熱を帯びていった。

やがて国境での小競り合いが決定的な亀裂となり、ルディは軍を動かす。ヴィンダム王国は防衛に回り、ゼルも玉座に就く前から総大将を引き受ける。彼の最優先は民の避難と家族の安全だった。北の離宮に非戦闘員を移す準備を進める最中、ラグジュリアの最精鋭騎兵が夜霧を裂き離宮を包囲した。

月が雲間からこぼれた中庭、ゼルは最後の石門の前に立つ。蒼銀の甲冑に剣を構え、背後に逃げ惑う子どもたちの声を聞きながらも一歩も退かない。馬を降りたルディが近づき、面頬を外してまっすぐ彼を見つめる。

「降伏を」

「民の安全が約束されるなら」

「命は取らない。ただし、あなたを奪う」

剣を交えるより早く、視線が深く衝突した。ルディはその青い結晶のような瞳に、武力では砕けない強さを見て胸が痛む。結局、彼女は刃を収め、避難する者すべての通行を保証する。その代償として、ゼルを自らの手で連れ帰ることを選んだ。

炎上する城都サガレスの謁見の間。ゼルは鎖一本巻かれぬまま跪いた。長めの前髪が煤けた空気で揺れ、眉間に刻んだ意思は曇らない。

「家族と民の安寧を願う。それが叶うなら――」

玉座を降りたルディは手袋を外し、彼の顎先をそっと指で持ち上げる。

「その代わり、私の隣に立ちなさい」

「王配として生きるのは、誇りの剥奪だ」

「あなたの誇りは奪わない。私が守る。だから私に渡しなさい」

震える唇が触れるか触れないかの距離で交わした約束は、征服の印であり、燃えさしの火種でもあった。

ゼルはラグジュリア王都アレインへ移されても、故国の蒼い上衣を選び続けた。王配としての錦衣を拒み、評議会では毅然と民本の政策を説き、彼女の強硬策をたびたび批判する。
週に一度だけ設けられる戦略会談。室内の暖炉が爆ぜるたび、互いの影が壁に揺れた。

「経済封鎖を続ければ、飢えた民は刃より容赦なく心を折ります」

「甘いわ、王子。恐怖こそ秩序の礎」

「恐怖はやがてあなたをも飲み込む」

口調は冷たいが、視線が合うたび指先がかすかに震えるのをルディは隠せなかった。ゼルの前髪が火の粉を映して橙に染まる一瞬、内側に吹き込む熱が呼吸を乱す。

春の武術競技祭の夜、式典後の静かな武術場でゼルは木剣を振っていた。汗が顎をつたう頃、民衣姿のルディが現れる。

「私の前でだけ剣を抜かぬのは、なぜ?」

「抜けば、貴女を傷つけたくなる」

「私が欲しいのは、あなたの剣ではなく心」

彼女が木剣を奪うように構える。打ち合うたび木と木が鳴り、息遣いが交じる。最後にゼルの剣が彼女の手袋をはじき、素手が夜気に晒された。思わずゼルの手がその白い指を包み込む。驚くほど柔らかい温度。

「あなたの手を戦場に晒したくない」

その囁きは敗者の呻きではなかった。ルディの鼓動が耳の奥で高鳴り、焔のように頬を染める。

翌朝、評議会でルディは突如、穀物税の大幅減免と交易再開を宣言した。戸惑う将軍たちの中で、ゼルは瞳を細め、深く一礼する。
私の瞳の蒼が剣より強い道を示した――ルディはそう告げたかったが、言葉にすれば脆くなる気がして微笑みに留める。彼の誇りを砕くのではなく、並び立つ盾とする道を選んだ瞬間だった。

初夏の黎明、まだ鳥も啼かぬ高回廊で二人は再び向き合う。東雲がルディの紅い髪飾りをほのかに染め、ゼルの黒髪に金色の輪郭を描く。

「私は覇王と呼ばれる女。でも今は、あなたの楯になりたい」

「王配として私は民を守る。そのために誇りを捨てぬと誓った」

「ならばその誇りごと私に預けて。必ず返すから」

差し出された素手を、ゼルは逡巡ののち取る。指と指が絡むほど強くは握らない。でも確かに、離さない。

征服と降伏から始まった物語は、いま共闘と共感へと形を変えつつある。ルディの渇きはゼルの蒼に温められ、ゼルの頑なな盾はルディの素手の温度に溶け始めた。熾火のように小さくとも、二人の炎は風より速く王国の空気を変えていく。やがて本当に隣り合って立つ日、紅と蒼が交わるその光は、旧き地図を静かに塗り替えるだろう。
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