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4話 仮面の舞踏会に咲く
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「……わたし、本当に行かねばなりませんか?」
鏡の前で、ラス・マデリートはしずかに唇を噛んだ。
照明のもとで輝く薄紅のドレスは、控えめながらも上質な仕立て。襟元には真珠の小粒が繊細に並び、腰には銀糸のリボンが結ばれている。
けれど、その装いよりも遥かに、ラスの顔に浮かぶ不安の色は濃かった。
「ラス様。殿下は“貴女を正式な婚約者として紹介する”と仰いました。今宵の舞踏会は……その機会です」
侍女の声は穏やかだったが、やはりどこか緊張を帯びている。
王宮最大の晩餐のひとつ、仮面舞踏会。
今夜は隣国ユーグリナ王国の姫、アルミリア殿下を歓迎する式でもある。
「……私があの方々の輪に入って……恥をかくだけじゃないかしら」
仮面を手に取る。白いレースと淡い薔薇の飾り。
誰が誰かを覆い隠すはずのその装いさえ、ラスには逃げ道に思えなかった。
「けれど、殿下は仰いました。今夜こそ、貴女を“守る”と」
その一言に、ラスの手が小さく震えた。
胸元に手を当てる。とくん、とくん。早鐘のように鳴る心臓。
それでも——今夜、逃げれば、ずっと後悔する気がした。
「行きます。……私に、できる範囲で」
それは、少女が決めた、小さな誓いだった。
◆
仮面の夜が始まる。
煌びやかな灯りが揺れる大広間には、宝石のような笑い声と香水の香り、衣擦れの音が交差していた。
貴族たちが仮面をつけ、身分も名前も一時だけ覆い隠しながら舞い踊るこの夜。
だが、誰もが知っている。仮面の下に隠せない“気配”というものを。
「おや、お見かけしない顔ですね?」
「可愛い仮面だ。……マデリート嬢、でしょう?」
ラスが一歩進むたび、声がかかる。その視線のどれもが、探るようで、突き刺さるようで。
そして、その場の空気が変わったのは——彼女が一人の姫の前に立ったときだった。
「貴女が……噂の子ね」
銀のマスクを半分ずらし、冷たい笑みを浮かべていたのは、アルミリア・ユーグリナ王女。
雪のように白い肌。長い金髪を編み上げ、サファイアのドレスを纏っていた。
その立ち居振る舞いはまさに王女の威厳に満ち、まわりの空気ごと静めていた。
「アグナス殿下の“婚約者”になった子。ふふ、随分……おとなしいのね」
「……アルミリア殿下」
ラスはお辞儀をした。けれど声はわずかに震えていた。
「私は、神託によって殿下と……」
「神託、ね。それは便利なものです。貴女のような者が、あの方の隣に立てる理由としては」
淡い笑み。されど毒を含んだ声。
「アグナス殿下と私は、幾度も食卓を共にし、舞を踊りましたわ。国と国との未来を語った仲です。それを、貴女は超えられるのかしら?」
言葉に詰まりそうになったその時——
「その必要はない。私は、私の意思でラスを選んだ」
重厚な声と共に、アグナス・レアドール殿下が姿を現した。
銀と藍の仮面をまとい、軍服にマント。まばゆいほどの威光をまとい、会場の空気すら変えてしまう。
「アルミリア殿下。ご厚意には感謝します。だが、私の心は既に定まっております」
「……アグナス」
姫の表情に、かすかな揺らぎが走った。
「ラス」
彼はラスの前に立ち、手を差し伸べた。
「私と踊ってくれますか。今宵、君がこの場で誰よりも美しいと、全員に知らしめたい」
「……でも、私……」
「仮面があるだろう?」
そっと微笑む彼に、ラスは戸惑いながらも手を預けた。
◆
音楽が変わる。
二人は中央へと歩み出る。アグナスが軽くラスの腰に手を添え、ゆっくりと回転する。
仮面の舞踏。誰が誰か分からない——はずなのに。
見つめる瞳と瞳の奥には、すべてが映っていた。
「怖くないか?」
「……怖いです。でも、殿下が手を握ってくれるなら」
「ラス。私の婚約者として、胸を張ってほしい。……私もまた、君の隣に立つ覚悟をしている」
静かに、重なる手と心。
けれど、その瞬間——
「……っ!」
ドレスの裾を踏まれ、バランスを崩しかける。
次の瞬間、アグナスが即座に彼女を抱き留めた。
仮面が落ちる。
転がった仮面の下から、ラスの素顔が露わになる。
会場に、沈黙が走った。
——これが、“神託の婚約者”?
その目、肌、表情すべてが一斉にさらされる。
「……ラス・マデリート嬢だ」
アグナスがその名を堂々と口にした。
「この方こそ、神の導きにより、我が未来を共に歩む女性。貴族であれ民であれ、この名を覚えておいてほしい」
凍りついていた空気が、ほんの少しだけ、動いた気がした。
ラスは俯いていた顔を、ゆっくりと上げた。
震えはまだ残っている。けれど、あのときよりも——少しだけ、胸を張れている気がした。
「……ありがとうございます」
夜の舞踏会。
薔薇の香りの中で、少女は一歩、大人になった。
鏡の前で、ラス・マデリートはしずかに唇を噛んだ。
照明のもとで輝く薄紅のドレスは、控えめながらも上質な仕立て。襟元には真珠の小粒が繊細に並び、腰には銀糸のリボンが結ばれている。
けれど、その装いよりも遥かに、ラスの顔に浮かぶ不安の色は濃かった。
「ラス様。殿下は“貴女を正式な婚約者として紹介する”と仰いました。今宵の舞踏会は……その機会です」
侍女の声は穏やかだったが、やはりどこか緊張を帯びている。
王宮最大の晩餐のひとつ、仮面舞踏会。
今夜は隣国ユーグリナ王国の姫、アルミリア殿下を歓迎する式でもある。
「……私があの方々の輪に入って……恥をかくだけじゃないかしら」
仮面を手に取る。白いレースと淡い薔薇の飾り。
誰が誰かを覆い隠すはずのその装いさえ、ラスには逃げ道に思えなかった。
「けれど、殿下は仰いました。今夜こそ、貴女を“守る”と」
その一言に、ラスの手が小さく震えた。
胸元に手を当てる。とくん、とくん。早鐘のように鳴る心臓。
それでも——今夜、逃げれば、ずっと後悔する気がした。
「行きます。……私に、できる範囲で」
それは、少女が決めた、小さな誓いだった。
◆
仮面の夜が始まる。
煌びやかな灯りが揺れる大広間には、宝石のような笑い声と香水の香り、衣擦れの音が交差していた。
貴族たちが仮面をつけ、身分も名前も一時だけ覆い隠しながら舞い踊るこの夜。
だが、誰もが知っている。仮面の下に隠せない“気配”というものを。
「おや、お見かけしない顔ですね?」
「可愛い仮面だ。……マデリート嬢、でしょう?」
ラスが一歩進むたび、声がかかる。その視線のどれもが、探るようで、突き刺さるようで。
そして、その場の空気が変わったのは——彼女が一人の姫の前に立ったときだった。
「貴女が……噂の子ね」
銀のマスクを半分ずらし、冷たい笑みを浮かべていたのは、アルミリア・ユーグリナ王女。
雪のように白い肌。長い金髪を編み上げ、サファイアのドレスを纏っていた。
その立ち居振る舞いはまさに王女の威厳に満ち、まわりの空気ごと静めていた。
「アグナス殿下の“婚約者”になった子。ふふ、随分……おとなしいのね」
「……アルミリア殿下」
ラスはお辞儀をした。けれど声はわずかに震えていた。
「私は、神託によって殿下と……」
「神託、ね。それは便利なものです。貴女のような者が、あの方の隣に立てる理由としては」
淡い笑み。されど毒を含んだ声。
「アグナス殿下と私は、幾度も食卓を共にし、舞を踊りましたわ。国と国との未来を語った仲です。それを、貴女は超えられるのかしら?」
言葉に詰まりそうになったその時——
「その必要はない。私は、私の意思でラスを選んだ」
重厚な声と共に、アグナス・レアドール殿下が姿を現した。
銀と藍の仮面をまとい、軍服にマント。まばゆいほどの威光をまとい、会場の空気すら変えてしまう。
「アルミリア殿下。ご厚意には感謝します。だが、私の心は既に定まっております」
「……アグナス」
姫の表情に、かすかな揺らぎが走った。
「ラス」
彼はラスの前に立ち、手を差し伸べた。
「私と踊ってくれますか。今宵、君がこの場で誰よりも美しいと、全員に知らしめたい」
「……でも、私……」
「仮面があるだろう?」
そっと微笑む彼に、ラスは戸惑いながらも手を預けた。
◆
音楽が変わる。
二人は中央へと歩み出る。アグナスが軽くラスの腰に手を添え、ゆっくりと回転する。
仮面の舞踏。誰が誰か分からない——はずなのに。
見つめる瞳と瞳の奥には、すべてが映っていた。
「怖くないか?」
「……怖いです。でも、殿下が手を握ってくれるなら」
「ラス。私の婚約者として、胸を張ってほしい。……私もまた、君の隣に立つ覚悟をしている」
静かに、重なる手と心。
けれど、その瞬間——
「……っ!」
ドレスの裾を踏まれ、バランスを崩しかける。
次の瞬間、アグナスが即座に彼女を抱き留めた。
仮面が落ちる。
転がった仮面の下から、ラスの素顔が露わになる。
会場に、沈黙が走った。
——これが、“神託の婚約者”?
その目、肌、表情すべてが一斉にさらされる。
「……ラス・マデリート嬢だ」
アグナスがその名を堂々と口にした。
「この方こそ、神の導きにより、我が未来を共に歩む女性。貴族であれ民であれ、この名を覚えておいてほしい」
凍りついていた空気が、ほんの少しだけ、動いた気がした。
ラスは俯いていた顔を、ゆっくりと上げた。
震えはまだ残っている。けれど、あのときよりも——少しだけ、胸を張れている気がした。
「……ありがとうございます」
夜の舞踏会。
薔薇の香りの中で、少女は一歩、大人になった。
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