名指された花嫁

もちもち

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4話 仮面の舞踏会に咲く

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「……わたし、本当に行かねばなりませんか?」

鏡の前で、ラス・マデリートはしずかに唇を噛んだ。

照明のもとで輝く薄紅のドレスは、控えめながらも上質な仕立て。襟元には真珠の小粒が繊細に並び、腰には銀糸のリボンが結ばれている。
けれど、その装いよりも遥かに、ラスの顔に浮かぶ不安の色は濃かった。

「ラス様。殿下は“貴女を正式な婚約者として紹介する”と仰いました。今宵の舞踏会は……その機会です」

侍女の声は穏やかだったが、やはりどこか緊張を帯びている。

王宮最大の晩餐のひとつ、仮面舞踏会。
今夜は隣国ユーグリナ王国の姫、アルミリア殿下を歓迎する式でもある。

「……私があの方々の輪に入って……恥をかくだけじゃないかしら」

仮面を手に取る。白いレースと淡い薔薇の飾り。
誰が誰かを覆い隠すはずのその装いさえ、ラスには逃げ道に思えなかった。

「けれど、殿下は仰いました。今夜こそ、貴女を“守る”と」

その一言に、ラスの手が小さく震えた。

胸元に手を当てる。とくん、とくん。早鐘のように鳴る心臓。
それでも——今夜、逃げれば、ずっと後悔する気がした。

「行きます。……私に、できる範囲で」

それは、少女が決めた、小さな誓いだった。



仮面の夜が始まる。

煌びやかな灯りが揺れる大広間には、宝石のような笑い声と香水の香り、衣擦れの音が交差していた。
貴族たちが仮面をつけ、身分も名前も一時だけ覆い隠しながら舞い踊るこの夜。
だが、誰もが知っている。仮面の下に隠せない“気配”というものを。

「おや、お見かけしない顔ですね?」

「可愛い仮面だ。……マデリート嬢、でしょう?」

ラスが一歩進むたび、声がかかる。その視線のどれもが、探るようで、突き刺さるようで。
そして、その場の空気が変わったのは——彼女が一人の姫の前に立ったときだった。

「貴女が……噂の子ね」

銀のマスクを半分ずらし、冷たい笑みを浮かべていたのは、アルミリア・ユーグリナ王女。

雪のように白い肌。長い金髪を編み上げ、サファイアのドレスを纏っていた。
その立ち居振る舞いはまさに王女の威厳に満ち、まわりの空気ごと静めていた。

「アグナス殿下の“婚約者”になった子。ふふ、随分……おとなしいのね」

「……アルミリア殿下」

ラスはお辞儀をした。けれど声はわずかに震えていた。

「私は、神託によって殿下と……」

「神託、ね。それは便利なものです。貴女のような者が、あの方の隣に立てる理由としては」

淡い笑み。されど毒を含んだ声。

「アグナス殿下と私は、幾度も食卓を共にし、舞を踊りましたわ。国と国との未来を語った仲です。それを、貴女は超えられるのかしら?」

言葉に詰まりそうになったその時——

「その必要はない。私は、私の意思でラスを選んだ」

重厚な声と共に、アグナス・レアドール殿下が姿を現した。
銀と藍の仮面をまとい、軍服にマント。まばゆいほどの威光をまとい、会場の空気すら変えてしまう。

「アルミリア殿下。ご厚意には感謝します。だが、私の心は既に定まっております」

「……アグナス」

姫の表情に、かすかな揺らぎが走った。

「ラス」

彼はラスの前に立ち、手を差し伸べた。

「私と踊ってくれますか。今宵、君がこの場で誰よりも美しいと、全員に知らしめたい」

「……でも、私……」

「仮面があるだろう?」

そっと微笑む彼に、ラスは戸惑いながらも手を預けた。



音楽が変わる。
二人は中央へと歩み出る。アグナスが軽くラスの腰に手を添え、ゆっくりと回転する。

仮面の舞踏。誰が誰か分からない——はずなのに。
見つめる瞳と瞳の奥には、すべてが映っていた。

「怖くないか?」

「……怖いです。でも、殿下が手を握ってくれるなら」

「ラス。私の婚約者として、胸を張ってほしい。……私もまた、君の隣に立つ覚悟をしている」

静かに、重なる手と心。
けれど、その瞬間——

「……っ!」

ドレスの裾を踏まれ、バランスを崩しかける。
次の瞬間、アグナスが即座に彼女を抱き留めた。

仮面が落ちる。
転がった仮面の下から、ラスの素顔が露わになる。

会場に、沈黙が走った。

——これが、“神託の婚約者”?

その目、肌、表情すべてが一斉にさらされる。

「……ラス・マデリート嬢だ」

アグナスがその名を堂々と口にした。

「この方こそ、神の導きにより、我が未来を共に歩む女性。貴族であれ民であれ、この名を覚えておいてほしい」

凍りついていた空気が、ほんの少しだけ、動いた気がした。

ラスは俯いていた顔を、ゆっくりと上げた。
震えはまだ残っている。けれど、あのときよりも——少しだけ、胸を張れている気がした。

「……ありがとうございます」

夜の舞踏会。
薔薇の香りの中で、少女は一歩、大人になった。
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