『パン屋の娘と魔導騎士 ― 恋と誇りのマントゥール譚』

もちもち

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第一話 パンの香り、運命の風

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 朝靄の残るマントゥールの石畳に、パンの甘い香りがふわりと漂った。オーブンの扉を開けた瞬間、シルビアの頰に小さく粉が舞い、茶色の瞳が眩しげに細められる。父がこね、母が成形した生地を、彼女は絶妙の火加減で焼き上げる。それが「フォーンの小麦屋」十八年変わらぬ朝の風景だった。

 まだ町がまどろむ刻限。店先に籐籠を並べ終えると、シルビアは裏口から路地へ出た。焼き立てのハニーブレッドを詰めた布袋を抱え、教会の孤児院へ届けるためだ。――それは彼女が両親から受け継いだ、ささやかな日課。けれど今日は、いつもより胸が騒いでいた。

 「おや、ずいぶん急ぎ足だね」
 低く朗らかな声が頭上から落ちてくる。見上げれば、梁に腕をかけて屈託なく笑う大柄な男――王の護衛隊長、ドルマン・ヴィーナだった。熊のような体躯に似合わず、目尻は優しい。
 「おはようございます、ドルマン様。パンを届けに」
 「ははは、相変わらず働き者だ。――そうだ、今朝は王女殿下がお忍びで市へ降りるらしい。護衛どもが血眼で探す前に、もし見掛けたら私に笛を吹いて知らせてくれ。菓子パンを一つ、礼にやろう」
 冗談めかして指笛を鳴らすと、彼は衛兵たちの列へ戻っていった。シルビアは首を傾げつつも、小さく笑って礼を述べると足を速めた。

 孤児院の門をくぐったところで、思わぬ光景が飛び込んだ。酔客に絡まれ、怯えた金髪の少女が身を折り庇っている。周囲はまだ人気が薄い。
 「やめてください!」
 シルビアは咄嗟に袋の底に残った硬めのブールを掴み、男の頭上へ放った。ごつん、と鈍い音。驚愕のまま逃げ去る酔客。少女は蒼い瞳を丸くし、やがてぱあっと微笑んだ。
 「助かったわ! あなた、パン屋さん?」
 「え、ええ。怪我はありませんか?」
 「平気平気。ねえ、そのお礼に町を案内してくれない? わたし、フェリ、じゃなくて……リディ、“旅の娘”なの」
 どこか芝居がかった台詞に苦笑しながらも、シルビアは頷いた。

 ふたりで市場を練り歩き、焼き菓子を頬張り、噴水の縁に腰掛けるころには、すっかり打ち解けていた。
 「シルビアって素敵。わたしね、年頃の友だちがなかなか出来なくて……」
 「私で良ければ、いつでもパンを焼いて待っています」
 そこへ、甲冑の足音が近づく。銀糸の飾緒を肩に掛けた青年騎士が二人――いや、一人と、その後ろに控える長身の男。先頭の青年は漆黒のマントを翻し、茶色の瞳で少女を探すように周囲を鋭く掃いた。

 「――姫! ご無事ですか」
 声を潜めても威圧感のある低音。フェリシア(シルビアはまだ本名を知らない)は舌を出し、こっそりと手を振る。青年の名はウィリアム・レグアスタ。王女の護衛騎士であり、魔導を纏う剣を帯びる。
 「市中は危険です。お戻りください」
 「はいはい、わかったわウィル。でもわたしは大丈夫よ。シルビアが守ってくれたもの」
 初めて名を呼ばれ、シルビアははにかむ。ウィリアムの視線が彼女に向いた。冷えた鋼のように整った顔立ち――だがその瞳には、慎重と警戒が宿る。

 「感謝する、市民の娘。だがこれ以降、姫に近づくことは控えてくれ」
 きっぱりとした言葉に、シルビアの胸がちくりと痛んだ。けれど同時に、相手の瞳の奥にかすかな揺らぎを見た気もした。対照的に、背後の長身騎士――ドルマン――が朗々と笑い、肩を叩く。
 「堅すぎるぞウィリアム! 姫の友は我らの友。さあ、礼を言え」
 「……助力、痛み入る。名を?」
 「シルビア・フォーンです」
 「シルビア殿。覚えておこう」
 それだけ告げて、彼は姫と共に石畳を離れた。

 夕刻。店に戻ったシルビアは、湯気の立つシチューを前にしても心ここにあらずだった。父母が怪訝そうに見交わす。
 「どうかしたのかい?」
 「ううん、何でも。……ただ今日、ちょっと――」
 言葉を切り、窓の外の夕焼けを仰ぐ。王女という身分を隠した友、厳格だがどこか寂しげな騎士。身分違いの世界が、自分の静かな日常に踏み込んできた。
 胸の奥で、パンよりも熱い何かがふつりと膨らむ。

 その夜。寝台に横たわり、シルビアは指先でそばかすをなぞった。
 (また会えるのかな……)
 柔らかな髪を枕に広げ、瞳を閉じる。外では初夏の風が、麦の穂を優しく揺らしていた。――けれど、その風は次第に、大きな運命のうねりを連れてくることを、彼女はまだ知らない。
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