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番外 風と小麦
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「あらすじ」
マントゥールのパン屋の息子・レオンは、母・シルビアの背中を見て育ちながらも、自分の道を模索している。そんなある日、町に引っ越してきた少女・クララと出会う。彼女は父親を亡くし、母と二人で暮らしている。風に揺れる麦畑の中、レオンはクララの孤独に気づき、言葉にならない想いをパンの香りに込めて伝えようとする――。
「本文」
マントゥールの春は、いつもパンの香りとともにやってくる。
村の中心にある石造りのパン屋は、変わらぬ温もりを纏っていた。窓からは焼きたてのブールと、母の笑顔がのぞいている。
レオンはそのパン屋のひとり息子だ。
十八になったばかり。
母のシルビアから店を継いでほしいとよく言われるが、彼はまだ、答えを持たずにいた。
そんなある日、レオンは出会った。
広場のベンチで、ひとり絵を描く少女に。
「それ、マントゥールの塔だろ?」
声をかけると、少女は少し驚いた顔をして、鉛筆を止めた。
「うん。でもうまく描けないの。風が、光を変えちゃうから」
彼女の名はクララ。
一ヶ月ほど前、母親とふたりで街に越してきたらしい。父親は病で亡くなり、都会の暮らしを離れて、母の実家のあるこの地に戻ってきたのだという。
「お前、絵が好きなんだな」
「うん。描いてると、悲しいことを忘れられるから」
その言葉を聞いたとき、レオンの胸の奥が静かに鳴った。
パンをこねるときに感じる、まだ形にならない想いと似ていた。
その日から、ふたりは少しずつ言葉を交わすようになった。
レオンは毎朝、クララの家の前を通るようになり、彼女はパン屋の前に立ち寄るようになった。
絵の紙を見せ合い、パンの端を分け合い、笑うたびに、春が深まっていった。
ある日、クララはぽつりと言った。
「私、パンのにおいって好き。あたたかくて、誰かが誰かを想ってるみたいで」
レオンはうなずいた。
「パンはさ、誰かを喜ばせるために焼くもんなんだ。だから、母さんは毎日焼いてる。町の人のこと、ぜんぶ覚えてるんだ。好みも、辛いことも。……すごいよな」
「レオンくんも、すごいよ」
「え?」
「私、あなたが笑うと安心する。風が吹いても、大丈夫な気がするの」
レオンは目を伏せた。
そんなふうに誰かに言われたのは、初めてだった。
その夜、レオンはひとり、パンを焼いた。
小麦をふるい、水と塩を量り、母から教わったやり方で、ていねいに。
クララのことを考えながら、オレンジピールとハチミツを混ぜた、やさしい甘さのパン。
朝、クララがパン屋を訪ねてきたとき、レオンは小さな包みを差し出した。
「……君のために焼いた」
クララは一瞬、目を見開いたあと、頬を染めて微笑んだ。
「ありがとう。あたたかいね。……レオンくんの手、こんなにあったかかったんだ」
その笑顔が、レオンの心の中に、小さな灯をともした。
迷っていた気持ちが、少しずつ形を取りはじめる。
パンで誰かを笑顔にすること。
誰かのために、毎日を繰り返すこと。
それは母がずっと続けてきたことであり、今、レオンが選んでもいいことなのかもしれない。
麦畑を渡る風が、春の陽を抱いて、ふたりのあいだを吹き抜けた。
クララはパンを抱えながら、絵の具のような声で言った。
「今度、パン屋さんの絵を描かせてね。レオンくんが窓辺でパンをこねてるところ」
「じゃあそのときは、君のことも描くよ。パンを食べて、笑ってる君を」
ふたりは顔を見合わせて、照れくさそうに笑った。
その春、マントゥールの街にはまたひとつ、恋が芽吹いた。
マントゥールのパン屋の息子・レオンは、母・シルビアの背中を見て育ちながらも、自分の道を模索している。そんなある日、町に引っ越してきた少女・クララと出会う。彼女は父親を亡くし、母と二人で暮らしている。風に揺れる麦畑の中、レオンはクララの孤独に気づき、言葉にならない想いをパンの香りに込めて伝えようとする――。
「本文」
マントゥールの春は、いつもパンの香りとともにやってくる。
村の中心にある石造りのパン屋は、変わらぬ温もりを纏っていた。窓からは焼きたてのブールと、母の笑顔がのぞいている。
レオンはそのパン屋のひとり息子だ。
十八になったばかり。
母のシルビアから店を継いでほしいとよく言われるが、彼はまだ、答えを持たずにいた。
そんなある日、レオンは出会った。
広場のベンチで、ひとり絵を描く少女に。
「それ、マントゥールの塔だろ?」
声をかけると、少女は少し驚いた顔をして、鉛筆を止めた。
「うん。でもうまく描けないの。風が、光を変えちゃうから」
彼女の名はクララ。
一ヶ月ほど前、母親とふたりで街に越してきたらしい。父親は病で亡くなり、都会の暮らしを離れて、母の実家のあるこの地に戻ってきたのだという。
「お前、絵が好きなんだな」
「うん。描いてると、悲しいことを忘れられるから」
その言葉を聞いたとき、レオンの胸の奥が静かに鳴った。
パンをこねるときに感じる、まだ形にならない想いと似ていた。
その日から、ふたりは少しずつ言葉を交わすようになった。
レオンは毎朝、クララの家の前を通るようになり、彼女はパン屋の前に立ち寄るようになった。
絵の紙を見せ合い、パンの端を分け合い、笑うたびに、春が深まっていった。
ある日、クララはぽつりと言った。
「私、パンのにおいって好き。あたたかくて、誰かが誰かを想ってるみたいで」
レオンはうなずいた。
「パンはさ、誰かを喜ばせるために焼くもんなんだ。だから、母さんは毎日焼いてる。町の人のこと、ぜんぶ覚えてるんだ。好みも、辛いことも。……すごいよな」
「レオンくんも、すごいよ」
「え?」
「私、あなたが笑うと安心する。風が吹いても、大丈夫な気がするの」
レオンは目を伏せた。
そんなふうに誰かに言われたのは、初めてだった。
その夜、レオンはひとり、パンを焼いた。
小麦をふるい、水と塩を量り、母から教わったやり方で、ていねいに。
クララのことを考えながら、オレンジピールとハチミツを混ぜた、やさしい甘さのパン。
朝、クララがパン屋を訪ねてきたとき、レオンは小さな包みを差し出した。
「……君のために焼いた」
クララは一瞬、目を見開いたあと、頬を染めて微笑んだ。
「ありがとう。あたたかいね。……レオンくんの手、こんなにあったかかったんだ」
その笑顔が、レオンの心の中に、小さな灯をともした。
迷っていた気持ちが、少しずつ形を取りはじめる。
パンで誰かを笑顔にすること。
誰かのために、毎日を繰り返すこと。
それは母がずっと続けてきたことであり、今、レオンが選んでもいいことなのかもしれない。
麦畑を渡る風が、春の陽を抱いて、ふたりのあいだを吹き抜けた。
クララはパンを抱えながら、絵の具のような声で言った。
「今度、パン屋さんの絵を描かせてね。レオンくんが窓辺でパンをこねてるところ」
「じゃあそのときは、君のことも描くよ。パンを食べて、笑ってる君を」
ふたりは顔を見合わせて、照れくさそうに笑った。
その春、マントゥールの街にはまたひとつ、恋が芽吹いた。
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