最高の和食

まる。

文字の大きさ
上 下
13 / 43
第二章 食べ合わせ

第二話~ハイエナ~

しおりを挟む
 その扉から姿を現したのは翔太郎ではなく、長い黒髪を横の位置で一つに結わえたエプロン姿の女性だった。
 エプロン姿もさることながら、突然の来訪者が来ても躊躇うことなく扉を開けるという事が、さもここの住人であるかの様な空気を纏っている。それだけでも多大なダメージを受けたというのに更に見覚えのあるその顔に、先ほどまでは自分にもまだ望みがあるのではないかという僅かな期待が音を立てて崩れ落ちた。

「あの? どちら様ですか?」

 相手は柚希の事を知らないから、その言葉に他意があるわけではない。
 薄化粧で品のある顔立ち。見るからに清楚なイメージのその人は、翔太郎が唯一名前で呼ぶ女性であり、四季彩のコンサルをしている室井 桜であった。

「どうしました? あ――、もしかして翔太郎のお友達かしら?」
「……えっと、すみません。は、――発条はつじょうさんはいらっしゃいますか……?」

 我が物顔で翔太郎の家に居ただけではなく、どうやらお互い下の名前で呼び合っているらしい。その事に違和感を感じるどころか、むしろそれが当然かの様だった。
 柚希は年下の翔太郎の事を名字、そして“さん”付けで呼んでいる。翔太郎とは友達と言える様な仲ではなかったが、室井が気を使って“翔太郎のお友達”としてくれたのだろうと捻くれた考えをしていた。

「ごめんなさいね。翔太郎ったら沢山汗をかいちゃったもんだから、今シャワーを浴びているところなの」
「そ、うですか」

 互いを名前で呼び合う年頃の男女が同じ屋根の下に居て、汗を沢山かいてシャワーを浴びている。篠田から高熱を出したと聞いていたのに、錯乱状態に陥っている柚希の頭の中では違う意味で汗をかいたのかと被害妄想が爆発していた。

「……!」

 幾つもの誤魔化しようのない証拠を目の当たりにしたものの、それが事実なのか本人の口からちゃんと聞きたい。
 初対面で不躾だとは思いながらも、思い切って二人の関係を室井に訊ねようとした。

「あの、失礼ですが。発条さんとは――」
「おーい、桜! 俺のタオルどこ?」

 室井を呼ぶ声が聞こえたと同時に、部屋の奥からもわもわと湯気が立ち上るのが見える。姿形は見えずとも確かに翔太郎の声であるのがわかった柚希は、その先の言葉を伝える事が出来ず慌てて飲み込んだ。

「……っ」
「あ、はーい、ちょっと待って! ……あ、ごめんなさい。もう一度、なんですか?」
「……いえっ! あの、これ篠田さんからの差し入れですっ」
「え?」

 持っていた包みを室井に差し出すと、室井に向かって深く頭を下げた。

「すみません、失礼します!」
「あ、ちょっと待っ――」

 逃げる様にしてその場を去ろうとする柚希の背後で、引き止めようとする室井のサンダルの音が響いていた。


 ■□

 篠田からの差し入れを渡された室井は突然の訪問者に首を捻っていた。

「誰だったんだろう?」

 扉を閉めて部屋の中へと戻ると、結局自分で見つけたのか、タオルで頭を拭きながら上半身裸でスウェット姿という出で立ちの翔太郎が風呂から出て来たところだった。

「何? 変な顔して」
「んー、なんだったんだろう?」
「は? ……あ」

 翔太郎の視線が下がり、室井が持っている包みを見た。

「それどうした?」
「篠田さんから差し入れだって」

 テーブルの上に包みを置くと、正座をして座る室井の横で翔太郎は胡坐をかいて座った。

「それは見てわかる。俺が言いたいのは、誰が持ってきたのかってこと。いくらなんでも店を閉めるにはまだ早い」

 翔太郎はテレビの上に置かれている時計を見ながらそう言った。

「それが良くわかんないんだけど。さっき女の子が来てこれを渡されたのよ」
「女?」
「うん。私より少し年下かなー? ショートカットの元気そうな女性。背は……そうね、多分百六十センチ位かしら? 何か言いたそうだったんだけど、丁度翔太郎がタオルくれって言ったから悪いと思って帰っちゃったのかも」
「……。――っ!」

 翔太郎はおもむろに立ち上がると、そのままの姿で玄関の外へと飛び出す。靴も履かず二階の手摺から階下を見下ろしたが、そこにはもう誰の姿も見えなかった。

「ちょっと、翔太郎! そんな恰好で外出たらまた風邪酷くなるよ!」
「……」

 あの時、あれ程酷い言葉で柚希を罵倒したと言うのに、何故追いかける様な真似をするのだろうか。どうやら無意識に飛び出してしまったのか、誰もそこに居ないという事がわかると翔太郎は苦笑いを浮かべていた。

「あら? やっぱりちゃんと引き止めとかなきゃいけなかったかしら?」

 室井はそんな翔太郎の姿を見て、嫌らしい笑みを浮かべている。ほんのりと赤くなった頬を室井に指摘されると、ぐっと眉根を寄せた。

「るせーよ。風呂から上がったばかりなんだから当たり前だろ。おら、早くそこどけよ、また風邪をひかせる気か」
「ふふふ。へぇー? そう? 翔太郎が。ふーん」

 意味ありげに笑う室井に睨みを入れつつ、二人はまた部屋の中へと戻って行った。


 ■□

 翔太郎と室井との間でそんな会話がなされていたとは露知らず、柚希は先ほど見てしまった光景を忘れようと陸の店を訪れていた。バーボンを浴びる様に飲み、カウンターで酔いつぶれる。柚希はそれで嫌な事を忘れる事が出来ていいのかもしれないが、あまり酔われると困る男がここに一人いた。

「なぁ、柚。お前、この間あんな事があったから酒はもうこりごりだって言ってなかったっけ?」

 自分との仲を翔太郎に疑われた時の話を聞かされていた陸は、そう言って同じ過ちを犯さない様にと釘を刺す。

「うぅ、そもそもそこじゃなかったんだよ。もう既に発条さんにはいい女性ひとが居たんだからぁ!」
「え? 嘘? 柚またフられたの?」

 それはおもしろいとばかりの陸の反応に、カウンターに伏せていた顔を上げると陸の顔の真ん前に人差し指を突き出した。

「はいソコ! “また”って言わない!」
「あ、ああ。すまん」

 グラスタオルを持ちながら陸は両手を上げた。

「はぁー。なんでこう上手くいかないかなぁ。最近はいい感じになってきてると思ってたのに」
「そ、そうか?」

 陸は、柚希の話を聞く限りでは決して上手くいっているとは思えないとでも言いたげだ。上手くいっているどころか逆に、可能性は低いとすら思っている様子だった。

「最初は“お客さん”って呼ばれてたのが、“佐和さん”に変わってさ? 今や“あんた”呼ばわりだよ? すっごい成長してると思わない?」
「いや、寧ろ退化してるだろ、それ」
「でもさ」
「まっ、聞いてないな。うん」

 柚希が男の話を始めると、いつもワンマンショーになるのはお決まりではあったが、少しは聞く方の身にもなって欲しいものだと陸は溜息を洩らした。

「“さくら”、“翔太郎”だってさ。なんか“あんた”ごときが間に入れない気がするよね」
「比較する所がそこってのがちょっとかわいそうだね、この子は」
「うー、もういい! 明日も仕事あるけど今日は飲むぞ! 飲んで酔っ払って今日見た事は全部幻だったんだって自分に言い聞かせる!」
「いや、そこはちゃんと現実を受け止めようよ」
「陸! ボトル一本下ろして」
「!? うへぇ、マジで? 今から??」
「なにさ。喜びなさいよ」
「いやぁ、だって俺今日早や上がりだから、早く帰りたいんだよ」

 柚希の相手はしたくない。遠回しにそういう陸に柚希の目が吊り上がった。

「もういい! 別の店で飲むから」
「え? あっ、ほら危ないって。もう、仕方ないなぁ。ちょっとだけにしとけよ?」

 立ち上がろうとしてよろけた柚希を見て、陸は諦めた面持ちで一本のボトルをカウンターの上に置いた。




 陸は勤務を終えるとサロンとベストを脱ぎ、既に泥酔状態の柚希の隣に座って一緒に酒を飲んでいる。今日こそは早く帰って自宅で酒を飲みつつ、DVDでも見てゆっくりしようと思っていたのが柚希の所為で全て水の泡。

「はぁーっ」

 正直に吐き出した溜息に、柚希が噛みついた。

「陸! 女性と一緒に飲んでる時に溜息とか吐いたらモテないよ」
「いや、そこはまっ――……たく、問題ないから」
「チキショー! ちょっと格好いいからっていい気になって! 私なんかね、私なんかね」
「あー、ハイハイ。わかったわかった」

 いつになったら解放されるんだろうか。柚希の話に適当に相槌を打ちながら、そんな事を考えていた。



 柚希と一緒に飲み始めてから、約一時間が経過している。終電の時間も近づき、店内の客も一斉に帰り支度を始めた。
 またタクシーで柚希を送るのはまっぴらごめんだ。陸はカウンターに肘をつくと、隣で気持ちよさそうに眠る柚希の頬をつねり上げた。

「……ぐっすりかよ」

 お手上げだとばかりに片手で額を覆った。

「陸くん」
「?」

 覆っていた手を退けると、常連客の女の子二人組が陸の後ろに立っていた。そのうちの一人がカウンターに寝そべっている柚希をチラリと見た後、その横に座る陸へと視線を戻す。瞬きをする度、エクステの睫毛がちょっとした風を作るのではないかと思う程、二人とも派手な顔立ち……、もとい化粧をしていた。

「今度は私たちも相手してよね」
「ん? ……ああ、勿論。気を付けてな」
「絶対だよ? じゃあ、またね」

 その女の子たちは意味深げに笑みを投げかけると、名残惜しそうにして去って行った。
 陸は彼女たちに向けて振っていた手を下ろし、その手でくしゃりと長い前髪をかき上げる。いつもながらこんな五月蠅い場所で熟睡できる柚希に、ある意味尊敬するものがあった。

「はぁーっ、ったく。お前のお陰でここんところ食いっぱぐれてばっか。……どうしてくれんだよ」

 気軽に遊べそうな感じの二人組を逃したことが余程悔しかったのか、そう呟きながら柚希の額をピンと指で弾く。

「……」

 全く反応のない柚希の耳へと口元を寄せると、

「そんな無防備にしてると、……代わりにお前を食っちまうぞ」

 誰にも聞かれない様に、そっと小さく囁いた。




しおりを挟む

処理中です...