繋いだ手

まる。

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『僕には君が必要なんだ』

 彼にそんな事を言われてから、一週間程が過ぎた。

 てっきり愛の告白をされたものだと思っていたが、その後、全く音沙汰が無いところを見ると、どうやらそれは彼女の見当違いの様だった。

 良く晴れた休日の午後。目の前で彼女が作成した資料に目を通している彼は、今まで通りのクライアントの顔だ。いつもは彼の会社まで出向くのが、今日は休日だからかめずらしく外で落ち合う事となった。

 スーツ姿の彼も素敵だが、今日のようにカジュアルな装いの彼はいつもよりグッと身近に感じる。普段は綺麗に整えられている髪も今日は無造作に下ろされ、長い前髪の隙間から見え隠れする伏せた睫毛が時折揺れる。いつもはネクタイで隠れていて見る事の無かった喉元は惜しげもなくさらされ、アイスコーヒーを口にしたときにそれが上下するのを見る度、女性にはない男の色気を感じた。

 彼女はいつもの癖で飲めないコーヒーを思わず頼んでしまい、口もつける事が出来ず手持ち無沙汰にしている。彼が資料に目を通している間、何気なく外の景色に視線を移した。

 仲睦まじそうな恋人達が手を繋ぎ行き交う中、彼女と同じ境遇の人達もチラホラ見える。そんな人を見つける度、休日に仕事をしているのは自分だけじゃないんだと、侘しい気持ちが少し緩和される様だった。

(もうどれくらい手を繋いでないかな)

 小さく息を吐いて視線を店内に戻すと、良く見ればそこもまた恋人達でひしめき合っていた。
 対面に座ればいいものを、無理に二人ともソファー側に窮屈そうに並んで座っている。そういった光景を見ると、羨ましさを通り越してイラつきを覚えた。
 じっと観察しているのを気付かれない様に、そっとテーブルの下を覗く。そこでもまた、当然の様に二人の手が繋がれていたのがわかった。

「うん、いいね」
「――。……あ、はい」

 彼が手の甲で資料をポンッと一回叩く。それを合図に仕事モードに引き戻された彼女は慌てて背筋を伸ばし、ぎゅっと寄せた眉根を元に戻した。

「ありがとうございます。では社に戻り次第、早速進めさせて頂きます」
「うん、お願いするよ」

 広げられていた資料を手早く片付ける。テーブルの上に置いてある伝票に手を伸ばした時、彼の大きな手が彼女の手を覆った。

『僕には君が必要なんだ』

 一瞬、あの時の彼がフラッシュバックして、胸の奥がドクンッと大きな音を立てる。
 単純に、ここの支払いをしたいが為に偶然手が重なっただけに過ぎないのだとわかってはいるものの、あの言葉がまだ頭に残っているせいで過度な期待をしてしまいそうになる。いくら今日が休日だからとはいえ今は仕事で彼と会っているわけで、一瞬とは言えそれ以上の事を期待してしまった自分が恥ずかしくなった。

「あ、あの、ここの支払いはこちらでさせて下さい」

 再度、伝票を奪い取ろうと引っ込めた手を彼が握り締め、伝票が彼女の手の中でくしゃくしゃになっていく。彼がゆっくりとその手を掬い上げると、彼女の手を両手で包み込んだ。

「あ、あの?」

 いつもと様子が違う彼の行動に、思わず頬が染まる。

「この後、何処に行く?」
「……はい?」

 目をキョトンとさせている彼女の顔を見て、彼は苦笑いした。

「参ったなぁ、やっぱり伝わってなかった?」
「あ、え? 何が……でしょうか?」
「確か僕は先週、君に僕の想いを伝えたつもりなんだけど。『君が必要だ』って」
「え!? あ、あの、それってビジネスパートナーとしてとかじゃ……?」

 彼はその言葉を聞くとプッと噴出してしまった。

「違うよ! そんな紛らわしい事、僕は言わない」
「あゃ、そ、そうでしたか」

 真っ向から否定され、やはり勘違いではなかったのだと知った。途端、カッと頬に熱が集まる。恥ずかしさのあまり、空いている方の手で口許を覆うと顔を俯かせた。

「それに、──今日もデートのつもりだったんだけど?」

 彼女の表情の変化を窺うように、彼の目が向けられる。そんな彼を見た彼女は大きく目を見開き、より一層赤くした顔でしどろもどろになり狼狽えた。

「デッ!? ……でも、資料持ってきてって。だから、その」
「ん? ああ、ついでに目を通したかったんだ。そうか気付いていなかったんだね。ごめんね」

 真剣な顔で謝罪をする彼に、普段は自分が頭を下げる方なのにと変な感じがした。

 デートのお誘いだったのに、何を勘違いしたのかストッキングを穿きスーツを着ている。そんな彼女に対し、彼は完全オフモードの出で立ちだ。
 事情を知らない人から見れば二人は完全にアンバランスに見えるだろう。彼の方は休日にしっくりくる装いだからまだいいが、彼女の出で立ちでは周りからするとかなり浮いていた。

(もう、色んな事が恥ずかしくて顔を上げられない!)

 とりあえず握りしめられてる手を解放して欲しい。本当は嬉しいけど周りの視線が気になってどうしようもなかった。

「じゃあ改めて。返事を聞かせてもらえるかな?」

 どうやら返事をしなければ手を離すつもりはないらしい。顔を上げ、目の前にいる彼を見ると嬉しそうにニコニコと微笑んでいた。
 その表情からして、悪い返事が返ってくるとは微塵にも思っていないのだろう。頭の中を見透かされているのが少し悔しかったものの、間違っているわけではないから彼女は頷くしかなかった。

 途端、彼は満面の笑みを見せる。そんな彼を見ると、やはりこれは現実の話なのだと目をぱちくりとさせた。

「じゃ、行こう」

 握り締めた彼女の手から伝票を奪い取ると、やっと彼の手から解放される。そうと決まればとでも言いたそうに、彼はさっさとレジへと向かった。

「……あ! あのっ」

 突然の出来事に伝票を持っていかれた事に気付くのが遅れ、慌てて彼女が立ち上がる。

「ちょっと、待ってくだ――……あぁっ!」

 膝の上に置いていたバッグが床に落ち、中身が少し散らばった。それを拾い集めている内に、既に会計を済ませた彼は店の前で腕を広げて背筋を伸ばしていた。

 背後に彼女の気配を感じた彼が振り返る。

「さ、行こうか」

 と、満面の笑みでスタスタと歩き始め、追いかける様にして彼の後をついて歩いた。

「あの、何処へ?」
「とりあえず君の服を買いに行こう。その格好じゃ仕事の気分から抜け切れないでしょ?」
「あ……」

 思わず足が止まり、ショーウィンドウに映る自分を見つめた。ガラス越しに彼が映りこみ、二人で並べばバランスの悪さが浮き彫りになる。

「その格好の君も凄く素敵だよ? でも、今日は普段の君も見てみたいな」

 ガラス越しにそう言うと、彼がおもむろに彼女の手を取った。
 ガラスに映る二人の繋いだ手を見ると、なんだかこそばゆい感覚が体中を駆け巡る。大きな彼の手が彼女の手をすっぽりと包み込み、右手にしている小さな石のついた指輪を時折彼の指が撫でつけた。
 今起こっている出来事がにわかに信じ難い。彼女はガラスに映る自分たちの手をただ黙って見つめていると、彼の顔が耳元に近づいてくるのが見えた。

「手、繋ぎたかったんでしょ?」

 その発言にびっくりした彼女は勢い良く彼の方を振り向くと、今まで見たことの無い距離で彼を感じた。

 恋人達を目で追っていたのがばれていた事の恥ずかしさと、つい先程まではビジネスとして接していたのが今では恋人の距離になっている。急展開過ぎるこの現実に、戸惑いを隠せなかった。

「焦る事は無いよ、ゆっくり進んでいこう。……そうだ、服を買ったら待ち合わせからやり直そうよ。そしたら、飲めないコーヒーをわざわざ注文する事もきっと無くなるよ?」

 彼は溢れんばかりの笑顔で微笑むと、ヒールを履いている彼女と歩く速度を合わせる様に、肩を並べてゆっくりと歩き出した。





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