狼同心

霜月りつ

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居眠り狼

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   序

 ぼっ、と。
 夜道に小さな炎が燃え上がった。
 放り出された提灯から火が吹きこぼれたのだ。
 提灯を放り出したのは年若い手代で、主人ともども地面の上で腰を抜かしている。炎は二人の怯えた顔と、その前に立つ男を照らしている。
 麻布霊南坂は南北に伸びた長い坂だ。諸藩の上屋敷が続き、右も左も白い土塀が長々と続く。その土塀に蛇のように細長い影がゆらゆらと動いていた。
 立っている男が持つ刀だ。
「お、おた、おたすけ……」
 どこぞの商家の主人は震える手で懐を探り、財布を出そうとした。目の前の男は強盗に違いない。いや、強盗ならまだましだ。これがただの辻斬り、人殺しであったなら命はない。
「金は」
 男は低い声を出した。
「貴様らを斬ったあとにもらう」
 最悪だ。これは辻斬りの上に強盗だ。
 若い手代ののどからかすかな細い悲鳴が洩れる。辻斬りで強盗の男は刀を振り上げた。
「待てェッ!」
 男の背後から声がかけられた。暗い道の彼方から猛烈な勢いで走ってくるものがいる。早い。あっという間に辻斬りの後ろまでやってくると、その腰から銀色の光が走った。
 ガキンッ! 
 辻斬りはかろうじてその太刀を受けたが、そのままはねとばされて壁にぶつかった。手元を見ると、刀が柄から五寸残したところで折れてしまっている。
「おのれッ」
 辻斬りは剣を急襲者に投げつけた。黒い袂がひらりとそれを避ける。
 着流しに雪駄、そして黒い羽織。帯からは紫房をつけた十手が覗く。
 同心だ。地べたにへたりこんでいた二人の顔が喜色に輝いた。
「しゃっ!」
 辻斬りは脇差しを手に同心へ飛び掛かっていった。だが同心は今度は避けなかった。両腕を広げ、そのまま辻斬りを正面から受け止めたのだ。
「ああっ!」
 悲鳴を上げたのは手代だ。辻斬りの刀が同心を貫いて背中の方まで突き出したように見えたからだ。
 だが同心は平気な風で、刀を右手に持ったまま両手で辻斬りの胴を抱えると、そのままぐおっと頭上まで持ち上げてしまった。恐ろしい力だ。
 辻斬りの手から離れた刀が同心の羽織にひっかかり、地面に落ちてガチャンと音を立てる。
 同心は頭上から地面へ辻斬りを叩きつけた。ずずん、と重い音が闇を揺らした。辻斬りは、
「ぐうッ」
 と呻いて意識を失った。
「畜生、一張羅の羽織を破りやがって」
 同心は羽織の裾を持ちあげ刀が貫いた穴を確かめている。
「た、助かりました、旦那……」
 主人が地面に両手をついて顔をあげる。その目がみるみる開かれた。
「ひええっ」
「うわあ!」
 消えかける炎に浮かび上がったその同心の顔―――目はつり上がり口は耳近くまで裂け、はみ出した牙からよだれが滴り落ちている。月代からはぼうぼうと毛が生えて、とがった耳も短く固そうな毛で覆われていた。
 なにより瞳が青々と輝いていたのだ。
「おい、お前たち……」
 同心が口を開くのと二人が飛び上がったのは一緒だった。そのあと二人は悲鳴を上げながらその場から逃げ出していった。
「……しまった、少々興奮しすぎたな」
 同心は耳や頭をばたばたとはたきだした。すると毛がみるみる抜けて、耳のとがりも大きく開いた口も徐々に小さくなっていった。あとは瞳がかすかに青みを残すだけとなる。
 同心は刀を鞘に納めると、地面に伸びている辻斬りのそばにかがんだ。
「よいしょ」
 と、男のからだを持ち上げる。
「番屋は坂の上だったかな」
 同心は、まるで振分荷物のようにかるがると男を抱えると、鼻唄を歌いながら坂を上っていった。

   1、

「ふ、わ、あぁ~あ」
「この馬鹿!」
 南町奉行所の常周り同心遠藤兵衛えんどうひょうえは、人目もはばからず大あくびした後輩の頭を平手ではたいた。小柄な兵衛が長身の後輩の頭を叩くには軽く飛び上がらなければならない。
「痛い、なにをするんですか」
 ちっとも痛くなさそうな顔で後輩は答えた。
「てめえ、遠慮会釈もなしに大あくびしやがって! ここをどこだと思ってやがる」
「ここ……って、金杉川ですね」
 はたかれたのは兵衛より年若い同心だった。まだねぼけているような目であたりを見回す。
 神無月の金杉川土手には丈の高いススキが群生し、朝の風をうけては朝の光を右に左に跳ね返している。
 少し先の赤羽橋の上には物見高い野次馬たちが鈴なりになってこちらを見ていた。
「そうだ、そしててめえの目の前にあるのはなんだ」
「……ホトケさんですね」
 二人の同心の足下に横たわっているのは、縞の着物を着た町人の男だった。大きく目を見開き、腕を胸に当てている。その胸は血で真っ赤だった。胸の傷からあふれ流れた血が、着物の前だけでなく、背中の下にまで流れている。
「殺しの現場で大あくびたあ、いい度胸じゃねえか、見習いのくせに」
「すみません、朝早かったもので」
「朝五ツ(八時)だぞ、職人ならもう一稼ぎしてるとこだ。それに下手人はもっと早起きだな。血の渇き具合からすると明け六ツ(六時)くらいってとこか」
「なにもそんな朝早くからせっせと人を殺さなくてもいいのに」
「やかましいっ! 得物は鋭い刃物―――だが大きさからして匕首や刀じゃねえな、魚包丁ってとこか」
 凶器は見当たらなかった。かなり深く刺さったとみえ、腹全体が真っ赤に染まっている。
 死人の顔には恐怖より驚きの表情が張り付いていた。
「この状態じゃ包丁を抜いた時、下手人も返り血を浴びてるだろうな……おい、なにしてるんだ」
 若い同心はしゃがみこみ、地面に手をついてからだを殺された男に近づけている。男の顔から胸元にかけて、顔を寄せていた。
「おい、おぼろ朧蒼十朗おぼろそうじゅうろう
 そんな後輩の姿に兵衛は眉をしかめて名前を呼んだ。
「なにか、妙な匂いがするんですよ。甘いような香ばしいような」
 朧蒼十朗と呼ばれた後輩は、顔を離すとぱんぱんと手についた土を払った。
「匂いだと?」
 兵衛もしゃがんで死体に顔を寄せてみたが、血の匂いと、着物からしばらく洗ってなかった雑巾のような匂いしか感じられない。
「そんな匂いしやしねえぜ」
 蒼十朗は眠たげな顔のままでにっこりした。
「私は鼻がいいんですよ」


 死体を飯倉片町の番屋へ運び込ませると、兵衛は手下の小物たちに命じて、身元を当たらせた。
 口元に目立つ大きなほくろがあったので、見つけやすいかもしれない。
 番屋の老人が大きな湯呑みにお茶をいれて持ってきてくれた。兵衛はかまちに腰を下ろし、その湯呑みを両手で包んだ。
 後輩の朧蒼十朗は兵衛の目の前で、死んだ男の特長などを書き記している。時々、あくびを隠すためか、右手が口元に向かった。
「いつまであくびしてんだよ、お前は日向の年寄り猫か」
「猫はかんべんしてくださいよ。私は猫より犬好きなんです」
「つっこむとこそこかよ」
「朝には弱いんですよ」
「もうじき昼じゃねえか!」
「日が落ちるまでは私には朝なんです」
 蒼十朗は矢立てをしまうと兵衛のそばに戻ってきた。おいてあった湯呑みをとり、ふうふうと息を吹きかける。
「お前ぇ、昨日の夜、辻斬りを捕まえたそうじゃねえか」
 兵衛は横目で蒼十朗を睨んだ。
「はい、飯屋から帰る途中、たまたま出くわしたんです」
「麻布にまで飯を食いに行ってたのか?」
「食事をしたあと、遠野先生に借りた書物を返しに行ったんです。その帰り道でした」
「最初からそう言え、馬鹿やろう。回りくどいな、茶だって冷めて干上がっちまわぁ」
 兵衛はずずっと茶をすすった。
「しかしやっとうの下手なお前ェがよく捕まえられたな」
 蒼十朗は湯呑みの中に視線を落とした。
「はい、幸い私より下手だったんです」
「ホントかよ。よくそんなんで辻斬りなんて思い立ったな」
 兵衛が呆れかえる。蒼十朗の剣術下手は奉行所でも有名だった。
「まったくです」
 蒼十朗はのんびりと答える。兵衛は後輩の顔を見た。
 穏やかで眠たげな顔だ。これで目がぱっちりと開いて、顔つきがきりりと締まれば多少は色男の部類に入るのかもしれない。
 背はうらやましいほど高いが、ひょろりとして柳のようだ。一緒に町を回るようになって二月たったのに、全く日に焼けない白い顔。二〇歳だが若者の覇気が感じられない。
 この歳で同心の見習いとはあきらかに遅い。
 兵衛の先輩に当たる先代の朧真一郎には同心のあとを継ぐ男子がいなかった。蒼十朗は遠い親戚の縁で去年朧家の養子に入ったのだ。
 本来なら義父の朧真一郎が見習いとして引き連れるはずなのだが、蒼十朗が養子になってすぐに亡くなっている。あるいは自分の死を予感して蒼十朗を養子にしたのかもしれない。
 亡くなる間際、蒼十朗をくれぐれも頼む、と兵衛は真一郎に言われていた。
  優秀な同心だった真一郎を尊敬もしていたし、駆け出しの頃世話になっていたので、「任せてください」と兵衛は胸を叩いた。
 しかし蒼十朗は剣を使わせればへっぴり腰だし、縄術も上達しない。
  田舎育ちのせいか素直なのはいいが誰の言葉も信用するので騙されやすい。正直兵衛は頭を抱えていた。
 だが、男が一度引き受けたことだ。もともと江戸っ子気質で情に厚く義理堅い性分もあって、なんとか一人前にしようと毎日引き連れている。
 朧真一郎は妻を早くになくし、他に子もいなかったので、全てを蒼十朗が受け継いだ。
  まあ全てと言っても三〇俵二人扶持だ。隙間風がはいるような屋敷としょぼくれた作物しかとれない畑くらいしか財産がない。そんな寂しい屋敷で一人暮らしをしている。
 蒼十朗の故郷は江戸から遠く離れた奥羽の方だと聞いたことがある。肌が白いのはそのためなのだろうか、と兵衛は思っている。
 のんびりした田舎から、決して裕福ではない同心の跡継ぎとして連れてこられて、いきなり江戸に放り出され、いろいろと葛藤がーーー
「ふ、わあああ」
 またあくびしやがった。ねえな、こいつには葛藤も苦悩も。

 
 番屋の近くの蕎麦屋で昼飯をとっているとき、兵衛の小物の伝六が顔を出した。
「金杉川のホトケさんの身元がわかりやしたぜ」
 殺されていた男は近所にある漆喰長屋の新八という男だった。
 女房との二人暮らしだが、昼も夜も働きもせずぶらぶらしているらしい。
「稼ぎは女房におんぶだっこか」
 兵衛は伝六に蕎麦をとってやりながら聞いた。伝六は、ひょいと頭を下げると蒼十朗の横に座った。
「それが、新八はあこぎな商売していたらしいんです」
「あこぎな商売?」
「強請(ゆすり)でさあ」
 大店や武家相手ではなく、小規模な商家や町家相手に少額の強請を続けていたのだと言う。
 同じ家から何度もとるのではなく、金をもらえばすぐに手を引いていたため、奉行所にも届けがなかった。
「でも長屋の人間はみんな知ってたらしいんです」
「女房もか?」
「女房はお藤っていうんですが、まだ会ってません。近所のものの話じゃ朝早くから仕事にでかけるそうで。ただ、長屋の住人が言ってました。最近新八は町医者の佐久間貞家の元に出入りしていたと」
「町医者か」
 兵衛はあごをつまんだ。町医者なら多少のたくわえはあるだろう。
「よし、その医者ンとこへ行ってみよう」
 兵衛は振り向くと、後ろから目をこすりながらついてくる蒼十朗の額をはたいた。
「痛い、なにするんです」
「うるせえっ、しゃきっとしろ、しゃきっと!」

   二、

 町医者・佐久間貞家の診療所は宇田川町にあった。新八の死んでいた赤羽橋付近とも近い。まがきで囲まれた庭から色づき始めた紅葉が枝を広げていた。
  近くでざっと聞いてみると、貞家は貧乏人も大店の主人も差別をせずによく診てくれる、評判のいい医師だった。
  若いころに長崎で勉強をしたということで、蘭学と漢方を混ぜた自己流の治療で、けが人や病人を診るらしい。
 兵衛と蒼十朗が診療所の門をくぐると、黒い大きな犬が激しく吠えたてた。
「おお、おっかねえな」
 驚いた兵衛が一歩下がって蒼十朗の胸にぶつかる。蒼十朗は兵衛の肩の上から犬を見て、「しいっ」と人差し指を唇の前に当てた。
 すると犬は急に黙り込み、しっぽを足の間にいれてあとずさる。
「ふうん、なるほど。犬好きなわけだ」
 兵衛は蒼十朗を振り仰いで笑いかける。蒼十朗は照れくさそうに笑った。
「なんのご用ですか?」
 犬の後ろに紺色の前掛けをつけた女が立っていた。
 手には箒をかかえ、頭には手拭いで姉さんかぶり。質素な身なりだったが、細面で眉のきりっとした、目の大きな美人だった。
「おう……すまねえな、俺は南町奉行所の遠藤兵衛ってもんだ」
 兵衛は目をパチパチさせて女を見た。顔から胸へ視線を滑らせ、また顔に戻る。
「奉行所のお役人がなんのご用です。お怪我でもされましたか」
「いや、いたって、すこぶる快調さね。なに、ちょいとここの先生に話を聞きたいんだ」
 兵衛の耳がちょっぴり赤くなっている。
  兵衛はほれっぽい。しかもこういうキツ目の女性が好みだった。
「俺は遠藤兵衛っていうもんだが、あんたは?」
「失礼いたしました。わたくしは先生のお手伝いをさせていただいております、お早登ともうします。この裏の南長屋に住んでおります」
 お早登のしつらえは町人風だったが、言葉遣いは武家のものだ。着物などの余裕のなさを見るかぎりでは、御家人の娘かもしれない。
 お早登の目が兵衛の肩越しに突っ立っている蒼十朗に向いた。兵衛が肘で蒼十朗の腹をつつく。
「あ、私はーーー私も南町奉行所の朧蒼十朗と申します」
 蒼十朗はぺこりと長身を折って挨拶した。
「で、先生はご在宅かい?」
「在宅しておりますが、今は重症の患者さんの治療中です。しばらくお待ちいただくことになりますが」
「かまわねえよ、手が空き次第面会させてくんな」
「わかりました。ではこちらにどうぞ」
 お早登に案内されて玄関にあがる。廊下を進んだところで蒼十朗が首を振った。
「ひどい血の匂いだ。ずいぶんな大怪我をされた人が運ばれたんですか?」
 お早登はぎょっとしたように立ち止まり、くんくんと周囲の匂いを嗅いだ。兵衛も鼻をひくつかせたが、わからない。
「そんな匂いますか? 確かに先ほど荷車を引いていた牛が暴れ出して、道を歩いていた方をはねとばしたとかで、血まみれの女性の方が運ばれましたが」
「そりゃ確かに重症だな」
「血の匂いに薬の匂い、軟膏の匂い……こんなに匂いがきつくっちゃあ、こちらのクロさんも鼻が大変ですね」
「そうかもしれませんね」
 お早登はどうぞ、と障子をあけて二人を促した。刀を外しながら兵衛はおや、と思った。
 蒼十朗はいつ犬の名を知ったのだろう。
  
  
 半刻(一時間)ほど待っていると、廊下にドスドスと乱暴な足音がした。障子に大きな影が映り、スパンと開かれる。
 着物の前から袴までを血で赤く染めた大柄な男がたっていた。ごましおの総髪に、やはり白いものがまじった鼻髭を蓄えている。
「貞家先生ですかい?」
 男は「応」とも答えず部屋へはいると、どっかりと腰をおろした。うつむいて大きな息をつく。ひどく疲れているようだった。
「大けがをした方が運び込まれたって聞きましたが」
「死んだ」
 貞家はくぐもった声で答えた。
「手はつくしたのだがな、腹の中がだめになっておった」
「そうですかい……」
 兵衛はなんと言葉を続ければいいのか迷った。命を助けられなかった医者は、下手人を取り逃がした同心のようなものか。
「精一杯尽くされましたのに、残念でしたね」
 柔らかく、静かな声で言ったのは蒼十朗だ。貞家はようやく顔を上げて二人の同心を見た。
「生も死も、人の手の届かないところにある。わしらはそのちょっとの境目に梯子をかけようとしているだけじゃ」
 蒼十朗はうなずいた。
「梯子を昇れる力のある人間が生きるということですね」
「そうじゃな」
 貞家はまた沈黙した。兵衛は医者の全身から疲れと諦念がゆっくり立ち上っていくのが見えるような気がした。
「ところで」
 貞家が落ち着いた頃を見計らい、兵衛は膝を進めた。
「今朝五ツ、金杉川の赤羽橋付近で胸を包丁のようなもんでひと突きされた死体が見つかったんですがね」
「ほう。出血はどのくらいだった」
「そりゃひどいモンですよ。着物の前全体が真っ赤でした。背中にも染み出していましたよ」
「ということは包丁らしきもの、というのは抜かれていたのじゃな?」
「ええ、そうです」
「心の臓は骨で守られている。下手に刺しても骨に止められてなかなかとどめをさせないものだが、それは本当に一突きだったのかな」
「傷は一つっきりでしたね」
「ふむ、運のいい下手人じゃな」
「あのね、先生」
 鼻髭をこする貞家に、兵衛は苛ついたように言った。
「殺された男は漆喰長屋に住む新八というやつだったんだ、ご存じですよね」
 その名前に貞家の眉が大きく跳ね上がった。
「新八は人の弱みを握っちゃゆすりたかりの小悪党だ。その新八がこのところこちらに出入りしていたと聞いたんで、俺たちが出ばってきたんだが、先生」
 兵衛はぐいっとからだを乗り出させた。
「あんた、今朝はどちらにいやした?」
「ここだ」
 貞家は落ち着いた態度で答えた。
「今日も朝から患者があってな。今までずっと詰めておった」
「朝、何刻からですかい」
「通常開けるのは六ツ半(七時)からだ。だが、今朝は明け六ツ(六時)すぎからもう包丁で腕をさしたというかみさんがやってきおった」
「そのおかみさんの名前や住まいはわかりますかね」
「お早登が記録をつけているじゃろう。―――わしを疑っておるのか」
「新八はなんだってここに出入りしてたんです。揺すられてたんじゃないんですかい」
 貞家は兵衛の顔をじっと見た。
「患者じゃよ。新八は治療を受けにきておったのだ」
 意表をつかれた思いで兵衛はからだをのけぞらせた。なるほど、医者の家へ通うのは患者として当然だ。
「その新八の記録もあるんですかい」
「むろんじゃ。お早登がすべてつけておる」
 兵衛と貞家はにらみ合った。
「この匂いはなんでしょうね」
 不意に蒼十朗が呟いた。
「匂い匂いってなあ、お前ぇ」
 兵衛はそんな蒼十朗を煩わしい思いで振り向いた。しかし、蒼十朗は兵衛を通りこし、貞家を見ている。
「血の匂い、薬の匂い。その中に不思議に甘い匂いがあるんです」
「甘い匂いだと?」
 兵衛は蒼十朗が昨日もそんなことを言っていたことを思い出す。殺された新八のからだに鼻をくっつけて。
「先生のからだからほんの少し匂ってくるんです」
「知らんな」
 貞家はあっさりと切って捨てた。
「ここでは買ってきた薬の他に調剤もしておるからな。そんなところだろう」
「そうですか」
 蒼十朗も簡単に引き下がった。貞家は立ち上がると障子を開けて二人の同心を見下ろした。
「お早登に記録を見せてもらうがいい」


 お早登は兵衛から聞くと、すぐに記録帳を持ってきた。それには今朝かけこんできた町のおかみの名前がしるされている。
「この女がくる前から先生がここにいたってのはわからねえんだな」
「ええ。わたくしが来たときにはもう治療に当たっておられました」
「新八の名前はあるかい?」
 帳面をめくっていくと確かに新八の名前が三回記されていた。病名はいずれも「腹イタ」と書かれている。
「はらいたねえ。お早登さん、こいつがここにきたときのことを覚えているかい」
「ええ………まあ」
 お早登は曖昧な顔でうなずいた。
「ほんとに腹いただったのかね」
「診察は先生がされますからわたくしにはなんとも。でもとくに苦しんでいたとかそういう感じではなかったです」
「ふうん」
 兵衛はぱらぱらと帳面をめくり、一番新しい患者の名前を見た。
「ーーーおい」
 両手で帳面をつかみ、顔をくっつけんばかりにする。
「蒼十朗、これを見ろ! 大変な名前だ」
「なんです?」
 蒼十朗がのぞき込むと、そこには「漆喰長屋 お藤 暴れ牛との接触 死亡」と記されている。
「漆喰長屋、お藤……」
「今朝運ばれてきた女性の方です」
 お早登が兵衛の反応に怯えた顔で告げた。
「新八の女房じゃねえか、今朝早くから仕事にでかけたっていう―――おい、まさか」
 兵衛はぱんと帳面を閉じ、蒼十朗に顔を寄せた。
「お藤が死んだのは、ゆすられたはらいせに治療に手を抜いたなんてことは」
「なにをおっしゃるんです!」
 お早登が金切り声をあげた。
「先生に限って患者さんに手を抜くなんてことはありません。ゆすられるとか、何のことですか。先生は他人様に後ろ指をさされるようなこともしてません!」
「あ、いや、あの、すまん、つい口がすべって」
 兵衛はお早登の勢いであわてて両手を降った。
「本心じゃねえんだ、ほら、俺らはいろんなことを考えなきゃなんねえからよ。わるかったよ、そんな怒らないでくれ」
 お早登は眉をつりあげたまま兵衛を睨んでいる。兵衛の耳がどんどん赤くなっていった。
「先生は治療しているとき患者さんが誰かを知ることはできるんですか」
 蒼十朗がふわりと割ってはいる。肩を怒らせていたお早登がすとんとその力を抜いた。
「それは」
 兵衛の手から記録帳をひったくる。
「患者さんが自分の名前を名乗ることができるくらい元気なら可能です。でも今朝のお藤さんは運び込まれてきたときからすでに虫の息で、治療が終わってから運んできてくれた人たちに聞いて名前がわかったんです」
「お藤さんはどこで牛にはねられたんです」
「芝口町の方だそうです」
「漆喰長屋からは離れてるな」
「仕事先かもしれませんね、行ってみますか?」
 蒼十朗が聞くと、兵衛は
「いや、この今朝やってきたって患者の方に先に回ろう」
 と、答えた。
「記録帳をしばらく貸してもらえるかね」
 兵衛が手を出すと、お早登はしぶしぶ取り戻した帳面をその手に渡した。
「ちゃんと返してくださいよ」
「ああ、もちろんだ」
 兵衛は帳面を懐に入れた。
「お早登さん、あんた武家だろ? こちらの先生との関係は?」
「父が病にかかったときに診ていただいたんです。そのおり治療代が払えなかったので代わりにお手伝いさせていただいてます。先生はそんなことしなくていいとおっしゃったんですが」
「へえ、それで父上はお元気で?」
「そのときは癒えたんですが、そのあと別な病で亡くなりました」
「ああ、そりゃあ………すまなかったな」
 兵衛が頭に手をやってぺこりと下げる。お早登は微笑んで首を振った。
「もう三年にもなりますから」
「母上は?」
「母も亡くなりました。先生は身寄りのないわたくしをそれ以来ずっと雇ってくださっているんです。それより、」
 お早登は深刻な顔になると兵衛にぐっと近寄った。
「あなた方がいらした理由を教えてください。さっきゆすられたとかおっしゃってましたが、先生が誰かに脅されているんですか?」
「いや、その」
 兵衛は迫られただけ一歩下がった。
「実は先生をゆすってたんじゃないかと思われる男が殺されててな。それで話を聞きにきたんだよ」
「まさか先生がゆすりの相手を殺したなんて思ってるわけじゃ」
「いや、確証はねえんだよ。先生はそいつが病気でここに来てたっていうし」
「さきほどの新八さんという方………」
「そうだ、そいつが今朝、殺されてたんだ」
 お早登はうつむいて何か考えているようだった。
  やがて顔を上げたお早登はどこか思いつめたような表情をしていた。
「先生には二十歳(はたち)になる息子さんがいらっしゃるんですが」
「へえ、助手かなんかやってんのか?」
「昔は長崎まで修行にいかれて先生のお手伝いをされてたんですが、先生の奥様が亡くなられてからは折り合いが悪く喧嘩ばかり………あまりこの家に寄られないんです。今日のお藤さんの治療も宜さん………宜昭さんがいらっしゃればひょっとして………」
「息子は宜昭って言うんだな?」
「はい。悪い仲間と悪い遊びをしているという噂もあります。ゆすりの原因といえばそのくらいしか思いつきません。お願いです、どうか宜さんを悪い連中から引き離してもらえませんか?」
 両手の指を組んですがるような目で兵衛を見る。兵衛は困った顔で首を振った。
「そういうのは俺たちの役目じゃねえよ、それこそ親が説教してやんなきゃ………」
「でも、心配なんです」
「あんたが先生思いなのはよくわかったよ」
 兵衛は耳の後ろをかいた。
「役に立つかどうかわかんねえけど、見かけたら家へ戻るように言っておいてやる。その息子が出入りしている場所とかわかるかい?」
「麻布の牧野様のお屋敷だということです」
「マジかよ」
 兵衛は苦い顔になった。麻布の牧野といえば三千石の旗本だ。そこでは以前から中間たちが賭場を開いているという噂があった。若者が堕ちていく入口としては順当だろう。
  
  
 兵衛と蒼十朗はお早登に見送られて貞家の家を出た。
「いやしかし、義理堅いし孝行だし美人だったな、お早登さんは」
 兵衛はたもとを指でつまんでさかんにパタパタとそでを振った。
「世話になってるからってあんなに他人のことを心配して。顔はきついが心根の優しい人だ」
「また惚れたんですか?」
 背後からついてゆく蒼十朗がからかうように言う。兵衛は目をむくと、
「またってなんだ。俺がそんな見境なく女に惚れるっていうのか。俺はな、あのお早登さんの優しい気持ちをだな」
「きつめの女性にきつく叱られるのがお好きなんですよね」
「なななにを言ってやがる」
 兵衛の顔が真っ赤になる。それを意識したのか両手で顔をごしごし擦った。
「でもあの人、つきあっている方がいらっしゃいますね」
「え?」
 兵衛は立ち止まった。その彼を蒼十朗はすたすたと追い越してゆく。
「ちょっと待てよこら。なにを根拠にそんなでたらめを」
「お早登さんの髪、使っている油は白山香ですよ。男性用に売られています。たぶん相手の髪を結ってあげて、そのあと自分にも使ったんじゃないでしょうか? 貞家先生の髪からはそんな匂いがしなかったし」
「な、」
 兵衛は蒼十朗のあとを追いかけると飛び上がってその頭をはたいた。
「痛い、なにするんですか」
「てめえこのっ! その鼻しばらく休業させろ!」


 記録帳をもとに今朝来た女のもとへ行くと、確かに朝早く包丁で手の平を切ったと貞家のもとに駆け込んだという。
「そのときは貞家自身が玄関に出てきたんだな」
「ええ、あたしも朝早くから申し訳ないと思ったんですけどね。先生は文句も言わずに手当してくださったんですよ」
 女は貞家の屋敷の近くで一膳めし屋を営んでいる。料理の下ごしらえの最中だったらしい。
「そんとき貞家先生の着ているものや顔に血とかついてなかったかい?」
「いいえ、こざっぱりしたきれいな身なりでしたよ」
「そうかい、手間かけさせたな」
 兵衛と蒼十朗は礼を言って女の店から出た。
「まあ現場から近いからな、着替えたってこともあるし」
「遠藤さんは貞家先生を下手人だと思ってるんですか?」
「ああ? お前ェだって言ってただろ、現場と同じ匂いがするって。自慢の鼻なんだろ」
「そうですけど、あの先生は人を殺すような人には思えません」
「あのな、人殺しが人殺しでございって看板さげて歩いているわけじゃねえんだ。見た目じゃわかんねえんだよ。お早登さんも言ってただろ、あの先生にゃゆすられるようなネタがあるんだよ」
「一人息子の宜昭さんですね」
「ああ、これから牧野の屋敷へ行くぞ。ドラ息子がいるかもしんねえ」
「はい」
 麻布の牧野の屋敷は二千坪ほどの拝領屋敷だ。当主はまだ年若い寄合・牧野直丞。その屋敷の片隅の中間部屋で時折賭場が開かれているらしいという噂があった。
  屋敷の反対側は渋谷川の支流笄川が流れ、川岸の柳の影が長く白い土塀に揺れている。屋根の出ばった長屋門の前に、槍を持った門番が二人、立っていた。
  兵衛が近づくと、門番が槍を構えた。
「町奉行がなんの用だ。ここは天下直参、旗本牧野様のお屋敷である。お目付様以外は通ることまかりならん」
「申し訳ねえが今日はちいっと野暮用でな。こっちに宇田川町の佐久間って医者の息子が出入りしてるって聞いてきたんだ。いるんなら呼んでくんな」
「医者の佐久間………」
 門番はピクリと眉をあげてその名に反応した。二人が同時に顔を見合わせる。
「知ってるんだな?」
「知らぬ! この屋敷には医者などおらん」
「俺は南町奉行所の遠藤ってもんだ。佐久間宜昭に近いうちに番屋へ顔をだせって言っておけ。いいな、伝えたぜ」
「知らぬと申しておろう!」
 不意に兵衛の背後から腕が伸びた。その腕は門番の襟首をつかむと軽々と持ち上げた。
「俺たちがおとなしくお願いしているうちに言うことを聞いた方がいいぜ、サンピン!」
 兵衛はぎょっとして振り向いた。どすの利いた声で門番を脅しているのは、さきほどまでだらしなく欠伸をしていた朧蒼十朗だ。
  今は重たげなまぶたもぱっちりと開いて喧嘩でも売りそうな獰猛な顔になっている。
「あ、もうこんな時間か」
 兵衛はあたりを見回した。夕闇が漂い始めている。このくらいの時間になるとさすがに蒼十朗の眠気も醒めたらしい。
  夜になるとまるで人がかわったように元気になるこの若い同心の性分には、ふた月つきあってようやく慣れてきたところだ。
「こら! やめろ、離せ!」
 もう一人の門番が青い顔で槍を構える。だが蒼十朗の怪力に恐れをなしているのは明らかだった。
「朧、暴力はいけねえぜ、暴力は」
 兵衛が蒼十朗の腕を叩くと、ようやく門番の襟首を離した。
 門番は悲鳴を上げて地べたにへたり込んだ。
「き、貴様! このことは御用人様に申し上げるからな!」
「かまわねえぜ。そうすりゃ御用人の目が中間部屋に向くかもしれねえけどな」
 門番たちははっと身をすくませる。兵衛は手をひらひらと振ると牧野の屋敷をあとにした。

「今のは逆効果だったかもな」
「そうですかね、もしかしたら腹を立てて宜昭って野郎を屋敷から追い出してくれるかもしれませんよ」
 蒼十朗はしれっとそんなことを言う。
「そうすりゃお早登さんの願い通りで遠藤さんの株があがるってもんです」
「ば、ばかやろう。そんなの関係ねえよ!」
 蒼十朗は土塀で囲まれた牧野の屋敷を見上げた。
「この屋敷では賭場はもちろんですが、なんぞ他にもヤバげなことをやっているようですね」
「なんだあ? それも鼻で嗅ぎ取ったのか?」
「ええ、まあ………」
 蒼十朗は指で鼻の下を擦ると小さくくしゃみをした。
「いやな匂いですよ」


 その夜、佐久間貞家の診療所にこっそりと忍び込むものがいた。
  それは迷うことなく薬の保管部屋へ進み、暗闇の中で置いてある薬を探り出した。
  棚に手を伸ばすと、触れたものの匂いを嗅ぎ、また棚に戻していく。
  いくつかそうやって探していたが、やがて目当てのものを見つけたらしい。懐にしまおうとした。
「誰だ!」
 不意に大声が響いて、手燭の明かりが暗い部屋の中を照らした。
  入り口に立った佐久間貞家は、弱弱しい灯りに浮かび上がった影を目を細めて見つめた。
「貴様、宜昭!」
 床にしゃがみこんでいたのは貞家の一人息子の宜昭だった。最後に会ったのは一〇日も前か。それにしては着物や髷なども乱れておらず、血色も悪くない。
 一瞬でそれを見て取った貞家は、息子が底辺に堕ちていなさそうなことに安堵した。
  しかし、その足元に落ちている紙包みに気づき、貞家の形相が変わった。
「貴様、何をしてる。何を持ち出そうというのだ」
「………ふん」
 宜昭はこわばった顔に無理やり笑みを作りながら、足元に落ちた紙包みを手に取った。
「何をって、みりゃわかるでしょう。父上が違法な手段で手に入れた―――阿片ですよ」
「宜昭………」
「前に少し持って行ったらもっとほしいって方がいらしてね。金になるんです」
「やはり、貴様が持ち出していたのか」
「番所に届けますか? だがこのことが公になれば、まずいのは父上、あんたですよね。最近は同心にも目をつけられているようですし。なあに、安心してください。俺がうまく処分してやりますよ」
「同心がきたのはその薬のせいではない」
「ふうん、まだばれてないのですか。まあその方がありがたいですね」
「………宜昭、家に戻ってこい」
 貞家は薬部屋に足を踏み入れた。宜昭はさっと立ち上がると薬をしまった腹を押さえる。
「せっかく長崎まで行って修行したその腕、その知識。人々のために使ったらどうだ」
「人々ぉ?」
 宜昭は背をのけぞらせてけたたましく笑った。
「そうだな、あんたが守るのはいつも見も知らぬ他人様だ。身内を助けず他人ばかり。あんたは自分の妻より、息子の母親より患者が大切なんだ!」
 吐き捨てるように叫ぶ。
「宜昭!」
 宜昭はまっすぐに貞家の前まで歩いてくると、その肩を突き飛ばした。
「あんたはいつでも仕事仕事で俺や母上のことは二の次だった。俺は暗い部屋で一人で死んでいった母上のことを忘れない。何が名医だ。自分の女房一人助けられないで、よく医者を名乗っていられるもんだ」
「宜昭………」
 息子は足音も荒く廊下を進むと玄関の前で振り向いた。
「最近あんたの周りをきな臭いやつがちょろちょろしてたでしょう。俺が流したこいつを嗅ぎつけたらしい。ちょいと絞めておいたから、安心して阿片を仕入れてくださいよ」
 その言葉に貞家ははっと息を飲んだ。
「まさか、新八というあの男」
「ああ、そういう名前だったかな。あんな小物に邪魔されたくなかったからね。親孝行でしょう、俺も」
 宜昭は甲高い声で笑うとそのまま玄関の戸を開けて出ていった。
  貞家は支えをなくしたように膝から崩れ落ちると、床に手をついた。
「宜昭………まさか、まさかお前が………」
 冷たい板張りの上で貞家は凍り付いたように動くことができなかった。
  
   三、

  遠藤兵衛は欠伸を連発している朧蒼十朗を連れて、南町奉行所を出た。
  飯倉片町の番屋に顔を出し、佐久間宜昭がやってきたか確認をとる。番屋の雇われ番太は誰もきていないと答えた。
「まあ、期待はしてなかったけどな」
 兵衛はコキリと首を鳴らすと蒼十朗を振り返った。
「よし、行くぞ」
「え……、どこへ行くんですか?」
「もう一回貞家の診療所だ」
 佐久間診療所へ出向き玄関で呼ばわると、すぐにお早登が顔を出した。
「やあ、お早登さん」
 兵衛が鼻の下を伸ばす。しかしお早登はどこか不安な顔つきで二人を見上げた。
「先生はご在宅ですかい?」
「診察しておりますが……」
 お早登は奥を振り返り、声を潜めた。
「先生、今日はひどくお元気がないようで。どこか具合がお悪いのではないかと……」
「医者の不養生ってやつですかね、なあにすぐに済みます。ここで結構ですので」
 お早登と入れ替わりに貞家がやってきた。なるほど足音もおとなしい。昨日に比べ、いきなり老けたような面もちだ。
 貞家は上がり口に膝をおろすと兵衛と蒼十朗を見上げた。
「なんのご用か」
「いや、昨日聞き忘れたんですがね、先生のご子息のことですよ」
 貞家は光るような目で兵衛を見つめた。
「最近あまりよくない連中とおつきあいがあるようですがね。ご子息はここをでるときお金は持って出られたんですかい? それとも時には金を取りに戻られるんですかい?」
「金は一銭も渡してはおらん」
「ほう。そうするってえと、なにかしら金を稼ぐ手段をお持ちってことですか」
「知らぬ」
 兵衛は貞家の膝に置いた手が、ぎゅっと袴を掴むのを見ていた。
「もう一つ。ご子息がそういう素行になった原因にお心あたりは」
 貞家は一度うつむくと、
「妻は、あれの母は胃の中に悪い腫れ物ができてな。気づいた時にはもうどうしようもなかった。わしは医者のくせに一番そばにいたものの具合を気づくことができなかった」
「それは―――」
 兵衛が言いかけたが貞家は首を振った。
「宣昭は長崎で外科の修行をしてきたゆえ、腹を切ってそれを取り出すべきだと主張した。だがわしは許さなかった。妻の体力ではその手術に耐えることができないとわかっていたからだ。あやつはそれを恨み、母を死なせたわしを憎んでいるのじゃ」
「そうですかい……」
 淡々と事実だけを述べる貞家の言葉の中に、深い悲しみが横たわる。兵衛も蒼十朗もそれ以上何も言えず佐久間家を辞した。
 二人のあとをお早登が追いかけてきた。後ろに飼い犬のクロが付いてきている。
「遠藤様、朧様」
 お早登は二人の顔を交互に見た。
「昨日、牧野さまのお屋敷に行かれましたか?」
「ああ、行った。だが宣昭って息子には会えなかった」
「そうでございますか」
 お早登は両の指を組み、せわしく動かした。
「宣さんてば……」
「先生、ほんとになんだかがっくりきてるな」
「はい。心配です」
「お早登さんは牧野の屋敷の他に宣昭が出入りしそうなところをしらねえかい?」
「え……」
 お早登は視線を落ち着かなく左右に飛ばしたが、やがてそれを隠すように自分の足下を見つめた。鼻緒を噛んだ指がぎゅっと曲がる。
 兵衛は我慢強く待ったが、結局お早登は首を振り、「心あたりありません」と答えた。
「そうかい、じゃあなんか思い出したらいつでも言っつくんな」
 兵衛が優しく声をかけると、お早登は深々と頭を下げた。
 玄関へ戻っていくお早登を見送って振り向くと、蒼十朗がクロに鼻先を舐められている。
「犬に顔を洗ってもらってんじゃねえよ」
 頭をはたくと蒼十朗はゆっくり立ち上がった。尻尾を振っているクロに小さく手を振る。
「お早登さんはご存じかもしれませんね」
「ああ、俺もそう思う」
 診療所の門を出ると、白っぽい地面に長くふたつの影が伸びた。兵衛はその影を踏みつけるようにして歩いた。
「もしかしたら白山香の持ち主は宣昭かもな」
「一緒に暮らしているということですか?」
「ちくしょうめ」
 兵衛はぐすっと鼻をすすった。
「新八のゆすりのネタはやはりご子息関係でしょうか」
「かもな。これでますます貞家が怪しくなった」
「でも」
「なんだ?」
 蒼十朗は兵衛の目をまっすぐに見つめた。飛び込んでくるような強い視線だ。
「貞家先生はそんなに悪いことをしたのでしょうか?」
「おい」
「元はといえば強請をしていた新八が悪いと思うのですが」
「だからって人の命を奪っていいのか? しかも人を救う医者が」
 兵衛の言葉に蒼十朗は首を振った。
「あの先生がそんなことをするとは、やはり私には思えません」
「お前ェの意見は聞いてねえ。俺たちは事実を突き止めるだけだ」
 兵衛はそう言うと蒼十朗を振り向きもせず先に進んだ。蒼十朗はしばらく佇んでいたが、やがて小柄な背中を追いかけた。


 兵衛と蒼十朗は診療所を出ると槙野の屋敷がある麻布へ向かった。
 途中に大きな寺があり、丸い石が組み上げられた長い塀が続いている。塀の上にけやきの葉ずれの音がざわざわと騒がしかった。
 まだ日は高いのにこの辺りは人通りも少なく、墓から流れてくるのか線香の香りが道いっぱいに広がっていた。
 蒼十朗は線香の匂いに弱いらしく、ずっとくしゃみをしている。
 寺も角から、突然、覆面をした男たちが現れた。匕首を持つものもいれば、二本差しの侍もいる。五人、いや、七人。
「おいおいおい」
 兵衛はぱっと両手を開いた。
「俺たちを南町奉行所の同心だって知っててその真似か」
 男たちは何も言わずじりっと間を詰めてくる。兵衛は腰を落とし、刀の柄に右手をかけた。
「蒼十朗、お前は逃げろ」
「え?」
 へっぴり腰で、それでも剣を抜こうとしていた蒼十朗は驚いて兵衛を見た。
「遠藤さんを置いてなんかいけません。私も戦います」
「お前ぇのような下手くそがいちゃ足手まといだ。俺はお前ェをかばって戦えるほど強かぁねえ。とっとと逃げて助けを呼んでもらったほうがましだ」
「でも遠藤さん」
「いいから行け! 死にものぐるいで走れ!」
 言うなり兵衛は抜刀し、男たちの中につっこんだ。同時に蒼十朗は背を向けて走り出した。
「あっ、待ちやがれ!」
 男たちの一人が蒼十朗を追おうとした。その前に兵衛が立ちふさがる。
「行かせねえぞ、俺ぁ、あいつを朧殿から任されたんだ。一人前にもしてねえのに、やらせるかよ」
 兵衛の剣がすり抜けようとした男の胴にたたきこまれる。同心の剣は刃をつぶしてあり斬ることはできない。
 兵衛はくるりと体を回すと、別な男の耳の横に剣をぶち当てた。
「怪我ァしたいやつはかかってきな!」


 蒼十朗は走って寺の角を曲がり、いったん立ち止まった。
 あとを追ってくるものがいないのを確認すると顔を空に向けた。口を大きく開ける。まっすぐに立てられた喉が動いた。
 蒼十朗の口から不思議な音が発せられた。それは人の耳には聞こえない音だった。

 兵衛が三人目を地面に転がしたところで侍たちが抜刀した。左から上段に構えたものが、左から八相に構えたものが近づいてくる。
 兵衛はぜえぜえと肩で息をしながら剣を脇構えにした。この二人は他のものと格が違う。
 こりゃあやられるかな、と兵衛は片頬を歪めた。だが相討ちに持ち込んでも一人は倒す。
 すう、はあ、と息をしながら兵衛は右の石壁に近づいた。後ろから襲われないように壁を背にするつもりだった。
「おおっ!」
 無防備に見せていた左から一人が斬り込んできた。それをぎりぎりで避けながら刀を撥ね上げる。伸びた相手の手首に潰した刃が当たり、ごきり、と骨の折れる音がした。
「ぎゃあっ」
 男は剣を取り落とし、そのまま地面につっぷす。兵衛はその勢いで右の男に突っ込んだ。
 だが、刀をあわせられ、壁に押し込まれてしまった。
「くっそう!」
 上背のある相手がぐいぐいと押してくる。兵衛の鼻先にまで刀が迫った。
「うう、」
 突然兵衛の姿が敵の前から消えた。塀に背を沿って、敵の股の間にからだを滑り込ませたのだ。そのまま頭で金的を突き上げた。
「ぐわっ!」
 男が不格好な姿でよろける。その隙をついて兵衛はだっと走り出そうとした。
「逃がすか!」
 男の剣の先が兵衛の背を割った。兵衛は小さく叫んで地面にうつ伏せた。
「殺してやる!」
 急所を頭突きされ、頭に血がのぼっているらしい。男は両手で刀を掴むとつっぷした兵衛の背中に剣を突き刺そうとした。
 そのとき。
「遠藤さん!」
 角から蒼十朗が走ってきた。その後ろから土埃を立てて十数頭の犬が付いてきている。
「な、なんだ、ありゃ」
 犬の群れは蒼十朗を追い越すと、男たちに襲いかかった。
「わあっ、この、畜生ども!」
 路上は犬の吠え声や悲鳴で騒然となった。犬が次々男たちに飛び掛かっていく。さすがのならず者たちもたまらず逃げ出した。
「遠藤さん、しっかり!」
 蒼十朗は兵衛を抱き起こした。
「おお……蒼十朗、お前ェ」
 兵衛は犬に追われて逃げていく男たちを見やった。
「すげえな、いったいどういう技だい……」
「話さないでください。すぐ医者に連れて行きます」
 蒼十朗は兵衛の小柄なからだを背中に負った。
「背中があっちいよ……」
「しっかりしてください!」
 蒼十朗の肩から兵衛の腕がぶらんと下がる。その手を伝ってまっ赤な血がポタポタと流れた。
「遠藤さん……!」
 蒼十朗は歯を食いしばった。その目は怒りでぎらぎらと輝いていた。

   四、

 その夜。
 江戸の闇の中をひとつの影が走ってゆく。
 影は路地を駆け抜け、木戸を飛び越え、屋根瓦を蹴った。土塀の上を走り、闇の中を跳ねてゆく。
 二本の足で走ったかと思えば、四つの足で跳躍した。
 大きな月の明るい光の下で、その影はただひとつの目的のために疾走していた。
 牧野家の中屋敷を囲む塀の上に、ふわりと影が立った。影は庭に音もなく飛び下りると、まっすぐに中間部屋を目指した。
 中間部屋の方から大勢の声が声が聞こえる。「丁! 半!」とイキのいい声も聞こえた。
 部屋の前の庭で見張りを押しつけられた若党が、所在なげに草をむしっている。
 若党の目の前の馬酔木の茂みがガサリと揺れた。なんだ、と伸び上がったのと、影が飛び出してきたのが同時だった。
「だっ……」
 誰何する間もなく、若党の顔面に拳がたたき込まれる。影はそのまま濡れ縁に飛び乗った。


 板敷きの広い部屋の中では賭場が営まれていた。中間だけでなく、商家の主人や浪人もの、御家人や別な藩の武士もいる。
 とりしきっている中間の中には明らかにやくざものの姿もあった。客もあわせて四〇人ばかりであろうか。
 部屋のあちこちに太い蝋燭を立てた燭台があり、壁や床に黒々とした影を映し出している。
 熱気や怒声やため息がその炎を揺らし、影は別な生き物のように伸び縮みした。
 白い盆茣蓙(ぼんござ)の周りで男たちの熱い視線が小さなサイコロに集中している。ツボが開けられる度にどよめきがあがった。
 盆から少し離れた暗がりに、包帯や膏薬を貼っている何人かがいる。昼間、犬に襲われた連中だった。彼らはぼそぼそと顔を寄せて話をしていた。
「俺たちがこんな目に遭っているというのに、肝心の佐久間はなぜ顔を出さないのだ」
「まったくだ、誰のためだと思っているんだ」
「今日、例の阿片をもってくるはずではなかったのか?」
「せっかく目障りな蠅を追い払ってやったと言うのに」
 ガタン、と大きな音がして、閉められていた障子が三枚、同時に部屋の中に倒れ込んできた。その外側に男が一人立っていた。
 黄八丈の着流しに黒い羽織。同心のおきまりの姿だ。
「貴様っ、昼間の……! 昼、間の……?」
 立ち上がった男たちが叫び、次には戸惑った顔をした。それほどそこに立っている男は昼間とは雰囲気、容貌とも違っていた。
 同心の特徴ともいうべき小銀杏が乗っている月代には、ぼうぼうと毛が伸びている。目はつりあがり、口が常人の二倍はあろうかと思うほど開かれていた。耳もひどく大きく尖っている。
 なにより全身から放たれているまがまがしい気配が男たちを一歩引かせた。
 それこそ闇の力、月の力を借りて変化した朧蒼十朗の姿であった。  
「臭う、臭うぞ。昼に俺たちを襲い、遠藤さんに怪我を負わせたやつらの臭いがする」
 異形の同心は部屋の中を見回した。大きく開いた口からこぼれる言葉はひどく聞き取りにくく、呻き声のようだ。
「なんだ、きさまっ!」
「ここが旗本牧野様の江戸屋敷と知っての狼藉か! 町奉行ごときが」
「旗本屋敷はお目付け様預かりだぞ!」
 次々と男たちが立ち上がる。同心が一人なのを見て取り、気炎を上げた。
「相手はひとりだ、やっちまえっ!」
 牧野の若党と、客で来ていた浪人が刀を抜いて斬りかかった。
 蒼十朗は突きいれてくる剣をわずかに背をそらせることで避け、その手首を握った。軽くひねるだけで若党のからだが一回転して床に叩きつけられる。
 浪人の方は脇の下に首をはさみ、ゴキリとひねった。
 逃げようとした商家の男を蹴りとばすと、そのからだは鞠のようにすっとんで大黒柱にぶつかった。
「やろうっ!」
 やくざものが匕首を腰だめにしてつっこんできた。
 その刃が蒼十朗に届く前に、長く伸びた手が、その男の顔面をとらえる。にぎった拳の下でパキパキと鼻の骨が折れてゆく。
 どおっと倒れた男の体の横で、たばこ盆がひっくり返り灰が立ちのぼった。
 その煙を飛び越え、蒼十朗が固まっている男たちにつっこんだ。左腰から鈍い銀色が旋回し、二人がそれを胴に受け、血反吐を吐いて壁にぶつかった。
 まるで黒いつむじ風のようだった。
 蒼十朗のたもとが翻った後には立っている人間はいなくなる。刃引きの剣は斬りこそしないが、あるものは顔面をつぶされ、あるものは腰骨を折られた。
 一人倒すごとに蒼十朗の容貌はますます人離れしていった。大きく裂けた口から長い舌がはみ出し、目には青い光が宿り出した。
 パキンッ!
 蒼十朗の刀が勢いのあまり床に叩きつけられ、真ん中から折れた。
 そのときには立っているものは五人ほどになっていた。だが、蒼十朗の刀が折れたのを見て、青ざめていた男が勇気を奮った。
「ほえええっっ!」
 恐怖のあまり奇妙な雄叫びをあげながら、男が刀を振りかぶって襲ってきた。蒼十朗は刀を投げ捨てると床を蹴った。
 男の刀が蒼十朗の頬をかすめた。その剣と交差するように蒼十朗の長い腕が伸びる。曲げられた指の先には三寸ほど伸びた鋭い爪があった。
 まるで鷹の鉤爪のようにその指が男の顔面をとらえる。
「ぎゃ……っ」
 皮膚が。
 紙のように引きちぎられた。
「ああああっ!」
 男は血塗れの顔を覆い、絶叫をあげながら転げ回った。
「ば、ばけもの!」
 もう一人は逃げようとした。蒼十朗は床に敷かれた長さ二間の盆茣蓙を無造作につかみあげると、それを男めがけて投げつけた。柔らかい布のはずが、まるで板のように男の背中を九の字に曲げる。
 三人が部屋の隅で震えていた。逃げる気力もなくなったようだ。
 蒼十朗はその前に立ち、唸るように言った。
「話を聞くのは一人でいいな」
 バキリ。
 バキリ。
 真ん中の男は左右の男たちの頭が床に押しつぶされる音を聞いて小便をもらした。
「さあ、」
 蒼十朗は男の目に尖った爪を突きつけた。
「俺たちを襲った訳を聞かせてもらおうか。そして佐久間宣昭のここでの役目もな」


 佐久間診療所では、貞家が仏壇の前に座り、妻の位牌に向かって長い間頭を下げていた。袴の膝頭は何度も掴み、ねじられたため、ひどく皺になっている。
 貞家が顔を上げたのは、庭で物音がしたからだ。
「宣昭か?」
 貞家は立ち上がり、庭に面した障子を開けた。
 だが、そこには黒い影のような男がいるだけだった。
「お主は、」
 貞家は驚いて目を見張った。昼間来た同心だとは思うが様子が違いすぎている。
 昼にはきれいにそりあげていた月代は何ヶ月もほったらかしにしたかのように髪が伸び、鬢のほつれも長すぎた。
 着物は乾ききっていない血でどす黒く汚れている。
 顔はーーー顔はわからない。蒼十朗は腕を顔の前に上げ、たもとで鼻から下を隠していたからだ。だが、その目が室内の灯りを青く反射していることはわかった。
 長崎に来る異人たちの中にも青い目のものはいる。だが彼らの目とてこのように光を放っていただろうか。
「お主、その様はどうしたというのだ」
「……今日、牧野の屋敷のものに襲われて、遠藤さんが大けがをした」
 袂の下で蒼十朗はくぐもった声を出した。
「お前の息子が出入りしている屋敷だ。中間部屋で賭場が開かれていた」
「宣昭が?!」
「お前の息子は賭場での負けを、家から持ち出した阿片で払ったのだ」
 貞家の身体がぐらりと揺れる。彼は柱に手をつき、なんとか衝撃を耐えた。
「新八殺しで俺たちがお前の周辺を嗅ぎ回るのが邪魔だったのだろう」
「それで遠藤殿が襲われたのか」
「連中は宣昭に阿片を定期的に仕入れるように持ちかけた。今日持ち込まれるはずだったが宣昭は来なかった」
「宣昭はどこに?」
「わからぬ」
 蒼十朗の握りしめた左の拳から血が伝った。尖った爪の生えた指を握り込んでいるのだ。皮膚が裂けているのだろう。
「阿片は……」
 貞家は縁側に手をついた。
「患者の苦しみを和らげるために使っていたのだ。私欲ではない」
「最初は妻の苦しみを止めるためではなかったのか? それは私欲ではないのか」
 貞家はうなだれた。
「苦しみを見ていられなかった……そうだ、確かにそなたの言うとおり私欲だな」
 やがて貞家は背筋を伸ばし、闇の中の同心に対峙した。
「新八を殺したのはわしだ。阿片のことで揺すられたので殺したのじゃ。さあ、捕まえるがいい」
 ぐるぐるぐる……と奇妙なうなり声が同心のいる方から聞こえた。まるで飼い犬のクロが威嚇しているときのような音だ。
「明日の明け六ツに迎えにくる。それまでに身辺を整理しておくがいい」
 同心の身体が一歩背後に下がった。それに貞家は声をかけた。
「ひとつだけ、聞いてくれ」
 青い目が闇の中から見返した。
「わしは、お藤の治療に関しては、決して手を抜いて折らぬ。誠心誠意、真剣に治療に当たった。新八の女房だと知ってもきっと変わらぬ。それは信じてくれ」
 蒼十朗の答えはなかった。
 姿が闇に消えたあとは、ただ血の臭いだけが残っていた。


 翌朝、金杉川から濃い霧が立ち上っていた。霧は低く漂い、岸辺を這い、道をわたって町内一帯をとりこんだ。
 佐久間診療所も、その裏の南長屋もその霧にしっとりと濡らされた。
 南長屋では早起きのカミさん連中が、冷たい霧をネタにぺちゃくちゃと井戸端で話をしていた。
「こんな霧はあたしが子供の頃以来だよ」
「そりゃあいったい何十年前さね」
「節々が痛くなるような霧だねえ」
「今日の晩飯は秋刀魚にしようか。この霧なら秋刀魚の煙もまぎれるだろ」
 その霧をまといつかせ、朧蒼十朗が南長屋にやってきた。きっちりと閉まっている越高障子をほとほとと叩く。
 昨日と違い、月代もきれいにそりあげ、白い顔にはいつものような眠たげな表情が乗っていた。
「どちらさまですか?」
 障子の内側からお早登の声がした。
「南町奉行所の朧です」
 蒼十朗の返答に、戸が少しだけ開いた。
「まあ、朧さま。こんなに早くいかがなさいました?」
 お早登は蒼十朗が一人きりなのを見て、不審気な声を出した。
「ご報告しておかなくてはと思いまして。私はこれから佐久間先生をとらえます」
「えっ?」
「佐久間先生が昨日、新八殺しを自供されました。逃げる心配は不要と思いましたので、捕縛は今朝まで待ちました。ですから今日は診療所へ行かれませぬように」
「ま、待ってください!」
 お早登はあわてて戸を開け、外へ出てきた。ちらりと視線を内へ向ける。
「先生が殺しだなんてそんな馬鹿なお話……」
「先生の自供です」
 蒼十朗はすん、と鼻を鳴らした。
「これから診療所へ向かいます。お早登さんは長屋にいてください」
「朧さま」
 蒼十朗は柔らかくお早登の肩を押し、家の中へ戻した。その目は土間に男物の雪駄があることを見て取った。
「では」
 蒼十朗が振り向くと白い霧がゆるりと周りを取り囲んだ。


 佐久間診療所の玄関では、貞家が正座して待っていた。蒼十朗を見上げる顔は、どこかすがすがしささえたたえている。
「今日はまともなお姿じゃな」
 貞家はほほえんで言った。蒼十朗は頭を下げた。
「昨日はおみぐるしいところを見せて申し訳ありませんでした」
「ご同輩が大けがをされたのじゃ。取り乱しても仕方あるまい」
 蒼十朗は苦笑した。あれを取り乱した姿と言われたのがおかしかったのかもしれない。
「では、参りましょうか」
 蒼十朗が促すと、貞家が腰を上げた。玄関を出るとクロが様子を察したが、悲しげな声で鳴いた。
「待ってくれ!」
 突然飛び込んできたものがいた。貞家の前に回り込み、地面に膝をつく。
「宣昭!」
 貞家が驚いた声を上げた。
「新八を殺したのは父上じゃない、俺だ!」
 宣昭は必死な顔で蒼十朗を見上げた。
「あいつが佐久間の家を嗅ぎ回っていたので牧野の中間たちと絞めあげてやった。だけどそのあともしつこく来るから……!」
「やめろ、違う、わしが殺したのだ」
 貞家は息子の肩を両手で押さえた。
「宣昭ではない、わしだ。わしが殺したのだ」
「父上じゃない! 頼む、信じてくれ!」
 父と子は互いに俺が、わしが、と前に出ようとした。蒼十朗はぼんやりした目で二人を見ていたが、やがて膝を折ると、その顔を宣昭に近づけた。
「……おかしいな、匂いがない」
 くんくんと鼻をうごめかす。
「河原で殺されていた新八の身体からは甘い匂いがした。あの日貞家先生の身体からもかすかにその匂いがした。だから身内の方の匂いがついたのだろうと思っていたのです。しかし宣昭さんからはその匂いがしない。これでは先生をとらえる芝居をした甲斐がありません」
 父と子はぎょっとして蒼十朗を見上げた。
「芝居ですって?」
「どういうことじゃ」
 蒼十朗は腕を組んで考え込んだ。
「確かにあのとき大量の血の匂いと甘い匂いがしたんだ」
 はっとその寝ぼけ眼が開かれた。
「あの日、我らがくる前に診察を受けた患者さんは……しまった、記録帳は遠藤さんが持っているのか」
「あの日の患者なら包丁で手を切ったカミさんの他は、やけどの子供と玄関で転んで骨を折ったばあさん、それに漆喰長屋のお藤だけじゃ」
 貞家が言った。蒼十朗はそれを聞くとうなずいた。
「あの匂いはあの日来た患者が持ってきたのです。下手人は彼らの中にいる」
 そう言うと身を翻して門から出ようとした。だがすぐに戻ってくると、宣昭の前に膝をついて言った。
「宣昭さん、あなたの母上は、自分のことより患者さんを見て欲しいと父上に頼まれたのです。それに貞家先生は、母上が亡くなられた後、墓の前で一日中泣いておられたとのことです。あなたの母上も父上も、お互いを大切に思ってらっしゃいました。もちろんあなたのこともです」
 蒼十朗は一息で言い切って、今度こそ霧の中を走り去った。
 呆然としたまま父と子は、二人きりで残された。
 宣昭はちらっと父親を見た。貞家は霧の奥を見ていたが、やがて息子に視線を向けた。宣昭はその目にさっと顔をそらした。しかし、やがておずおずと顔をあげると、父の視線はまだ自分にあった。
 宣昭は小さく咳払いをした。
「下手な芝居に……乗せられたようですね」
「お前は昔から短慮じゃったな」
「あんなこと聞いたら心穏やかではいられませんよ」
「……なぜ来たのじゃ」
 貞家は震える声で言った。それに息子はぷいとそっぽを向いた。
「そ、それは……父上が人を殺すなどありえないと思ったからです」
「わしはそなたの母を助けられなかった男じゃぞ」
「それとこれとは別でしょう!」
 宣昭は唇を噛んだ。
 彼も医術を学んだものだ。母親の病状がすでに助からないことはわかっていた。ただ、なにもできなかった己の無力さを、その悔しさを、父へ八つ当たりのようにぶつけていただけだ。
「父上こそ、なぜ新八を殺したなどと嘘を」
「それはお前が……」
「俺が殺したと思ったんですか」
「新八を痛めつけたと言ったではないか」
 宣昭は首を横に振った。
「あれは確かに……。しかし俺たちがやったのは三日ほども前。少し殴って脅しただけなのです。今朝の殺しとは違う」
「なんと……」
 貞家はどすんと地面の上に腰をおろした。安堵のため、がっくりと肩が下がる。
「わしは、わしはお前が人を殺めたのかと……よかった、違うのだな」
「父上は俺の身代わりになろうとされたのですか、なぜ……」
 貞家は視線を上げた。息子の顔をじっと見つめる。宣昭もまた父を見つめた。
 貞家の目に涙が―――あふれた。
 父は黙って息子の手を両手で握りしめた。大粒の涙がぽろぽろと頬を伝う。
 宣昭は驚いた。母の葬儀のときにさえ、涙を見せなかった父なのに。その涙がなによりも語っていた。なにも言わなくても父の気持ちが痛いほどわかった。
 息子の―――自分のためにこんなにも。
「父上……父上」
 霧がほどけるように薄くなってゆく。雲の間からふたつ、みっつと、朝の光がまっすぐに地上に降りてきた。

   終、

「つまり新八殺しの下手人は女房のお藤だったっていうのかい」
 布団にうつぶせになっている兵衛は組んだ腕の上に顔を乗せて言った。蒼十朗に背負われ医者に担ぎ込まれたあとは、八丁堀の組屋敷で終日横になっていた。
「はい、新八とお藤の家を調べましたら、行李からこれが出てきました」
 蒼十朗は懐から手ぬぐいに包んだものを出した。その中には血で黒ずんだ包丁がある。
「お藤の仕事先は菓子屋でした。そこはきなこ餅が名物です」
「きなこ餅なあ」
「あの香ばしいような甘い匂いはきなこの匂いだったんです」
 兵衛は鼻先にある包丁を手で押しやった。蒼十朗は元通り手ぬぐいで包むとそれを懐に入れた。
「お前の言う通り、お藤の仕事先へ先に行っていればよかった。そうしたら事件はその日のうちに解決したし、俺もこんな怪我をしなくてすんだんだ」
 兵衛は腕の中に顔をいれて嘆いた。
「漆喰長屋で聞いてきました。新八は毎日のようにお藤に暴力をふるっていたそうです。お藤の顔に痣がない日がなかったとか。お藤はもう耐えられなかったんでしょうね。あの朝早く新八を川へ連れ出し、刺したのでしょう」
 蒼十朗はしょっぱいものでもなめたような顔で告げた。
「包丁を行李に隠し、血の付いた着物を着替えて仕事先に行った。でもきっと殺しのことで心がどこかに行っていたんでしょう。暴れ牛にひっかけられる前、ふらふらしていたお藤が現場で見かけられています」
「なんてこったい」
 兵衛はため息をついた。
「貞家が言ってたっけ。医者は患者の生死に梯子をかけるだけだって。お藤はもしかしたら梯子を昇ることを諦めていたのかねえ」
 兵衛は顔をしかめた。蒼十朗がからだを傾けて覗き込んでくる。
「背中が痛みますか?」
「そうだな、痛ぇ。だけどよ、痛いのは生きてる証拠だ。ありがてえって思うぜ」
「遠藤さんは、梯子を降りないですよね」
「おうよ、俺ァ駆け登ってやるぜ。絶対に諦めねえよ」
 兵衛はにっと笑って親指を立てた。蒼十朗は笑い返したが、兵衛の枕もとから一歩引くと、畳に両手をついた。
「遠藤さん、お願いがあります」
「なんだ?」
「佐久間先生の阿片の件、お目こぼし願えませんか」
 兵衛は口をへの字に結んだ。
「すでに阿片は処分しています。もう決して入手しないと約束してくれました。そもそも治療のためにしか使っていなかったんです」
「しかしなあ、宣昭が持ち出して売っぱらってたんだぞ」
「宣昭さんも二度目の持ち込みはしませんでした。本人も反省しています。宣昭さんはこれから貞家先生を手伝って立派な医者になる方なんです」
 兵衛は再び顔を腕の中に埋めた。
「遠藤さん、お願いです」
「そういやあ、牧野の中間部屋のやつら、賭場の諍いでずいぶん怪我人が出たってなあ」
 腕の間からくぐもった声がもれた。
「牧野の殿様はずいぶんおかんむりで、賭場に関わったやつら、全員放逐したらしい。これで阿片の件も取り調べできなくなっちまった」
 兵衛は顔をあげると渋い表情で蒼十朗を見上げた。
「もともと俺らの仕事は新八殺しだ。それが解決したなら他のことはしらねえよ」
「遠藤さん」
「だいたい俺ぁ、宣昭のやろうがお早登さんの長屋に転がり込んでいたって聞いただけで、もう熱があがって他のこたあ考えられねえよ」
 兵衛は視線を蒼十朗の後ろの庭に向けた。
「見ろよ、紅葉が真っ赤になってきたぜ」
 秋空にくっきりとした赤が輝いていた。


 十日ほどして、起きられるようになった兵衛は、蒼十朗につきそわれ、佐久間診療所にやってきた。お早登から借りた記録帳を返すためだ。
 お早登の声に貞家とその息子が揃って玄関に出てきた。
「遠藤殿、朧殿、先日はお世話になりもうした」
 貞家は深く頭を下げた。
「いや、俺はなにもしちゃいねえよ。かえってあんたに下手人の疑いをかけて申し訳なかった。この通りだ」
 兵衛も腰を屈めた。
「宣昭さん、先生のお手伝いをされているんですね」
 蒼十朗が宣昭を見て言った。宣昭も頭を下げて、
「はい、初心に戻り、一からはじめております」
 と晴れやかな顔で答えた。父と子の確執は今はもうないようだ。
「そう言えば朧殿」
 貞家が首を傾げて言った。
「妻の言葉や、わしが墓の前で、その、泣いていたなどと、いったい誰から聞いたのですか」
 蒼十朗は手を頭にあげると照れくさそうに答えた。
「いや、クロから教えてもらったんですよ」
 佐久間親子はきょとんとした。蒼十朗は困ったように笑っている。兵衛は蒼十朗の頭をはたいた。
「馬っ鹿、お前。もうちいとマシな落ちをつけろよ、南町奉行所の同心が馬鹿だと思われるだろうが!」
「痛い、なにするんですか」
 お早登が吹き出す。その笑い声に宣昭も貞家も笑いだした。
 仕方がないので兵衛も笑う。
 蒼十朗は玄関先に座っているクロと視線を交わし、穏やかにほほえんだ。


                                    終わり

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