鶴も鳴かずば撃たれまい

吉祥てまり

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交わる視線

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季節は夏の盛りを過ぎた辺りだった。
あの落雁という軍人と出くわしてからというもの、千歳の身にはとある気掛かりなことが起きていた。
「……ただいま」
「お帰り。何か変わったことは無かったか?」
「特に何も」
「そうか。なら良い」
テントに戻った彼は目深に被った帽子を脱ぐ。あの日から自分は所謂出奔した身で、知人に見つかる訳にはいかないのだ──尤も、あの家族が自分を血眼で探しているとも考えられないが。どちらかと言えばそのことを気に掛けているのは金花の方のようだった。口にこそ出さないが、あれ以来彼は軍人の姿を街で見る度にひどく嫌な顔をするようになった。外での出来事をつぶさに問う彼の表情は、一見常と変わらぬようだが瞳には剣呑さを帯びている。しかしこれ以上の厄介事を避けるために、千歳は彼にひとつ言わずにいることがあった。
──最近、外を歩く度に誰かの視線を感じるのだ。
見世物小屋の他の面々と違って、大した特徴のない自分の外見は街中で目立つことがない。それ故に買い出しなどの雑用は専ら彼がこなしていた。しかしそんな自分のことを、どこからか見ている人物がいるようなのである。初めはあの軍人だろうかと思った。だが軍人らしい落雁の気質であれば、自分の姿を見るなり近付いて話し掛けるに違いない。そう考えてみると、自分を見ている者の正体は愈々分からなくなるのである。きっと気の所為だ、疲れて神経症にでもなっているのだ──そう自分に言い聞かせて、彼は暫くの日々を過ごしていた。


そんなある晩のことである。
夜も深い頃、千歳がふと目が覚ますと、隣で眠っていた筈の男の姿がなかった。金花がそうしたいと言うので二人は相変わらず同じ布団で眠っており、この行為にもすっかり慣れてしまったのだが、思えば夜中に起きてしまうのはこれが初めてのことであった。
「……金花?」
千歳は小さく名前を呼ぶが、答える声はない。彼はそろりと布団から這い出すとテントの中を忍び足で歩いて回る。しかし聞こえるのは子供たちの無垢な寝息ばかりで、金花はそこに居ないようであった。ここではないとすれば外だろうか。首を傾げた時、ふと聞き慣れた男の声が耳に入ってくる。

「……これっぽっちか」
「今日の依頼は所詮三下だ。それに危険もさほどではない、この額が妥当だろう。それにしてもお前が粗相をして帰るなど珍しいな、手元を誤ったか」
「ほんの少し急所を外しただけだ。間違いなく殺したんだから良いだろ」
声が聞こえたのは見世物小屋とテントの間、裏口に挟まれて狭い通り道がある方であった。千歳が恐る恐る隙間から顔を出して覗くと、果たしてそこには金花が立っていた。その手元には分厚い紙幣の束が握られている。向かい合っている人物の顔はよく見えなかったが、伸びる影は以前神社ですれ違った屈強な男の体格とよく似ていた。そして夜闇の下で何よりも鮮やかなのは、金花の白い頬と着物中に飛び散った返り血の色であった。彼の横顔に常の微笑みの残滓はみられなかった。それはまさしく全ての感情が虚に還っている、人を殺した者の形相であった。
「……それより、俺からの頼みは覚えているだろうな。あの軍人はどうした」
「街の者に聞き込みをしていたようだが、高崎から動く気配はない。当分はあの街にいると考えて良いだろう」
「そうか。千歳の様子は?」
「あの小僧か……特に変わりない様子で、知人らしき者の姿も全くなかったそうだ。殊更動向を気にする必要は無いだろう。時に金花、お前があれにそうまで執心するのは何故だ。ただの堅気の坊主だろう。粗相をしたのも、情で心が揺らいでいるからではないか」
「……うるさいな。お前には関係のないことだ。とにかく尾行は続けてくれ。両方だ。良いな」
「承知した」
千歳は静かに息を呑んだ。思わず隙間から顔を引っ込めて小走りに戻ると、布団の中で震える身体を掻き抱く。やはりあの視線は気の所為ではなかったのだ。恐らく自分を見ていたのは堅気の人間ではない。そして今の会話から推測するに、監視を命じていたのは、金花その人であったということになる──何故彼はそこまでするのだろう。当の本人である筈の自分にも分からない。今晩のことはきっと忘れるべきだ。早く眠ってしまおうと固く目を瞑っていると、ひたひたと静かな足音と共に人の気配がした。

「千歳。眠っているのか?」
その人はそっと囁くと千歳の頬を撫でる。触れる指先が擽ったい。それはまるで自分の狸寝入りを見透かしているかのような手付きであった。観念して目を開けると、先程の冷たい横顔からは一転して微笑みを浮かべた金花が傍らに座っている。しかしその笑みが口許だけのもので、彼の瞳がまだ虚ろに揺らいでいるのを千歳は理解していた。
「ああ、やっぱり起きていたか。悪いな、一人にさせちまって」
「……目が覚めたら、あんたが居なかったから。どこへ行ったかと思った」
「全部聞いていたんだろ。まあ今更お前に隠すことも無いがな。俺たちが堅気じゃないというのは何も見世物小屋だけじゃない、そういう意味だ。だからこそ俺たちは家族だし、家族のことが何よりも大事なんだ」
「そんなところだろうとは思っていたが……俺のことを尾けさせていたのもそういうことか。俺が、家族だからか」
「そうだ。俺はお前を余所の連中に渡すつもりはないし、万が一にもそうならないために手を尽くす。解ってくれるな?」
「……正直、よく解らない」
「そうか。今はそれでも構わないよ」
「でも、あんたの口から本当のことを聞けて良かったとは思っている。やっと、話してくれたな」
金花は頬の血を手で拭うと、どこか寂しげに笑った。そして千歳の身体を抱き寄せると長い口付けをしながら、おもむろに着物の帯を解いてゆく。衣擦れと生温い水音が、近くて遠い場所で聞こえた。
「千歳。俺を見て」
「っ、ん……」
息が苦しくなる程舌を絡められる。身体の奥が熱い。それは女を抱いた時とは何もかもが異なる、恐れの混じった昂りであった。裾を握りしめてその感覚に堪えながら、ついにその日が来たのだ、と千歳は胸の内で覚悟を決める。血に染まった着物を脱ぎ捨てた金花の左腕には、色鮮やかな鯉の刺青が彫られているのだった。
「血の匂いが取れないんだ。お前の匂いで、全て塗り潰させてくれ」
露わになった肌の上を彼の手が這う。口付けと甘噛みを繰り返される。抱き締められる度に感じるのは煙草の匂いばかりで、千歳には彼の言う血の匂いが分からなかった。
──知りたくない。でも、知りたい。
金花のことを恐ろしいと思っている。それと同時に、絆されつつある自分もいる。今晩、この男の深いところに飛び込んで、何かが変わるのだろうか。変わるのならば、きっともう後戻りは出来ないのだろう。暗がりの中で目を細めてこちらを見下ろす金花は、震える程に美しい瞳をしていた。
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