君が昇る

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君が昇る

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 変わり映えのしない毎日が、ただのんびりと過ぎる。二月末の夜風はほんのりと湿気と温もりを帯びて、そう遠くない春の気配を運んできた。街灯はいつの間にか白熱灯からLEDに変わり、寒色の光がアスファルトを照らすけれど、僕はそれをあまり心地良くは感じられなかった。
 遠くから香る畑の土の匂い。僕の手を引く君の小さなぬくもり。朝4時の歩道に響くふたりの足音。ぽつぽつと疎らに光る民家の明かりも、何処か物悲しく輝いていて、薄光の透ける雲からは、星々が顔を出したり引っ込めたり。僕が「上空の風は強いのかなぁ、」なんて無粋な事を考えていると、「またくだらないことでも考えてるんでしょ?」と君が言った。びくりとした僕を見て「あなたのことはなんでもわかるの」と笑う君の声は、退屈な散歩道に確かな彩りを添えた。

 純粋な日々。愛おしい日々。それでも僕は、この静かな夜にですら死を見ていた。
 君の純真な笑顔も、僕に向けられたものだと知ると、どうしてか、僕には不釣り合いというか、不相応というか、むずがゆい居心地の悪さを感じて、僕という存在がここにあってはならないものだと思い知らされるばかりであった。ただ君に、それだけは気付かれないように、と必死に取り繕うことは決して楽ではなかった。
「私、あそこに行ってみたい。」
 上の空だった僕の手を振り解き、指を示すその先を見ると、この田舎には似つかわしくもない大きなタワーマンションが聳え立っている。
 四角い窓枠から零れる生活の光と、頂上に揺らめく赤色の航空障害灯が、澱んだ上空の空気にやんわりと滲んでいる様にも見えた。
「どうしてあんな所に?」
「私たちの街、きっとあそこから見たら綺麗じゃない?」
 そう言いながら微笑むと、ちらちらと振り返りながら、僕の前を踊るかのような軽い足取りで君は歩みを進めた。

 正面玄関の自動ドアはオートロックによって閉まっていて、それに不服そうな君は裏手に回ろうと僕の手を引いていく。一階廊下の脇に植えられた垣根に都合良く開いた隙間を見つけると、僕達はそこから廊下に入る為に塀をよじ登った。誰も居ない静かな廊下に、ふたりだけの密やかな笑い声を小さく響かせながらエレベーターホールへと向かった。
 エレベーターに乗ると、沢山あるボタンの中から一番数字の大きなものを選んで押した。少しだけ増した重力を感じながら、期待と不安を胸に増えゆく階数表示をじっと見ていた僕達を、開いた扉から吹き込んだ空気は、エレベーターの中とは違う温度感で迎えてくれた。
「風が強いね」君がそう言う。
 僕は目の前にあった格子の嵌められたガラス窓の先に広がる風景に心揺れ動いていた。
 ギギッと錆びた金属の軋む音が僕の意識を惹くと、君は悪い笑顔を浮かべて、屋上へあがる非常階段の鍵がかかってない事を目配せしてみせた。
 真っ暗な非常階段に吹き荒ぶ夜風の中を息を潜めて登ると、そこは一面に広がる人工の星達が瞬いている。僕がそれらをじっと見つめていると、不意に君が僕を呼んだ。
 ビルの最上階。その縁に腰を掛ける君。僕も黙って君の隣に座ると、高まる心臓の音に共鳴するかのように赤いライトは僕達二人をチカチカと照らした。揺さぶる足の下には数十メートル先の地面が吸い込まれそうな夜の暗さの先に見える。
 自然と二人とも無言のまま、自分達の暮らしている街の今まで知らなかった美しさに胸を満たしていた。
「綺麗だね。」
「そうだね、僕達が生きている世界がこんなに綺麗だとは思わなかった。」
 君の横顔は毒々しい赤色灯に照らされてるとは思えないほどに安らかで美しかった。
「どうして死にたいの?」
 僕は胸を刺された。考えてもみなかった質問に僕の心拍が大きく上がるのを感じ、呼吸が乱れた。
「どうしてそんな事を聞くの?」上擦った僕の声が火を見るよりも明らかな動揺を表している。
 微笑んではいるが真剣な眼差しの君は、より一層激しく足を揺さぶると、いつもお気に入りだと言っていたパンプスが風に攫われてくるくると身を捩りながら落ちていった。
 それを目で追う僕を気にも止めないように、すっと僕の顔を見つめると、君は「あなたのことはなんでもわかるの。」そう言って不器用に口角を引き上げてみせた。
「君が、そうやって綺麗に笑うから。」
 僕がそう言うと、君はほんの少し目を伏せながら僕の手を引き寄せるように強く握って「そう、」と言った。
 僕は、その言葉の全てを理解してしまう前にと急いで手を振り解き、身を屈めて前方へと体重をかけた。ビルの縁は、君が握る手よりもあっさりと僕を離した。
 肌寒いくらいの透き通る夜風に靡く君の髪。薄らと明るくなり始めた空はみるみる離れ、地上が僕を強く引き寄せる。加速していく壁面の窓たち。
 君が昇ってゆく。僕から遠く、君が昇る。



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