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人
しおりを挟む僕は井戸底にいる。なぜだかは思い出せないし、思い出す気もないのかもしれない。ここで生まれたかのような気さえしている。
おおよそ十メートルほどの高さにある空。夕暮れによってのんびりと明るく、その中を特徴的な雲が悠々と泳いでいるのが見える。腰下ほどまでの高さがある水は、しっかりと僕に纏わりついて、ただ無表情に佇んでいた。いやな違和感を頼りに頭にふれると、どうやら左側面が裂けているらしく、ぬるりとした暖かさが鋭い痛みを思い起こさせた。
井戸車から伸びる古びた葛縄は、夕日とその影によって二色に隔てられ、微風に軋む滑車の掛け声に合わせて小さく揺れうごいている。
やがて、ざくりざくりと足早に砂利を踏む音が鼓膜を揺らすと、誰かが井戸に近づいてくるのを感じた。恐らく同じ町民の誰かであろう。井戸の中からではそれが誰か分からなかったが、その人間がからからと音を立てて縄を引くと、僕のすぐ隣で怠惰に揺蕩う木桶はするすると身軽に昇っていった。伝う水滴を、ひとつふたつと僕の顔に落とし、井戸のふちへとすっと引っ込んだかと思うと、今度は空になった桶が昇るよりもはやい速度で落ちてくる。次の瞬間には、空虚な頭にごつんとぶつかって、その衝撃は、霞がかった僕の意識を鮮明とさせるに足りた。帰路につこうと遠ざかる足音も、孤独を知らせる便りのようで、微かに聞こえた、水瓶のなかでちゃぷりと跳ねる水音ですら、僕を嘲っているかのように思えたほどだった。
井戸底の泥が不快だ。僕は綺麗好きというわけではないが、この場所の、ぬめりと、苔と、いやらしい程の湿り気は僕を不愉快にした。いやで、いやで、しかたがない。僕はこの湿気に薄まった、けれども確実にそこにある、汚泥にも似た不快感を、あえてばしゃばしゃと大きな音を立てることで洗い流そうと試みた。
「おーい。だれかそこにいるのか。」
汚れた草鞋の紐を水で濯いていた僕に呼び声が降り掛かった。
「なにをしているんだい?大事はないかい?」
先程よりも発生源の近付いた言葉に、不意を突かれた僕が見上げると、そこにはひとりの青年がいた。その青年は、色彩の落ち始めた、夕暮れ時の薄暗い逆光の中でも分かるほどにひどく端正な顔立ちをしていた。眉目秀麗。玉のように透明で、まさに、この世の美をあらわすどの言葉を用いても、筆舌に尽くし難いほどの暴力的な美だ。着ている本人の鮮烈さによって褪せては見えるが、襟元ばかりしか見えなかったその羽織にも、色艶のよい海獺の毛皮が添えられていて、彼と同じとまでは言わずとも絢爛というのに相応しい一着であることは容易に見てとれた。一目で「大尽」と呼ばれる人種であろうことも想像に易かった。
僕は、彼の存在よりも、薄汚れた肉刺だらけの自分の手をじっと見つめると、なんとも言えないその感情を、眉を顰め、口をへの字にする事でしか表せられなかったが、僕の感情など知る由もない彼は無邪気な親切心をもって、
「今梯子でも用意するから、待っていなさい、」と急ぎ慌てた様子だった。
「大丈夫です。わたしは、わたしは、きっと、ここに用があるのです。」
石壁に囲まれた空間を反響する、思ってもみなかった言葉に、僕自身が驚いた。
青年はしばらく沈黙し、その時間の長さは、彼の困惑の度合いをよくあらわしていた。
「そうかい、だけれど、、今夜は冷えるよ。自愛するようにね。」
少しばかり言葉を詰まらせた彼の、そんな暖かい気遣いの言葉ですら、あの容貌が発したものだと思うと悔しくて、憎たらしくて、僕はただ口をぎゅっと強く結んで、積まれた石の隙間から無理にと生えるゆがんで醜く伸びた小汚い雑草を、ただ食い入るように見つめていた。
日は大きく翳ってゆく。日没寸前のわずかな間にだけ訪れる、焼け爛れた強烈な紅は、うすめた墨液の滲む空へとゆっくり顔色を変えていた。
長らく冷水に浸し続けた脚も感覚を失いつつある。身体全体が震えている事も、小さくゆらめく水面が教えてくれた。さもしい。僕は、僕を哀れにおもった。今、僕は、この地上のだれよりも、哀しい人間だ。そう信じることさえできた。そう思えば思うほど、僕は途端におそろしくなって、無意識のうちにひとつの石の出っ張りへと指を掛けた。濡れた石の、硝子のような冷たさがてのひらを突き抜けてゆく。
僕は、今すぐにここを出なくてはと唐突に思い立って、両手両足を一生懸命に踏ん張り突っ張って、自分の身体を地道に引き上げていった。そんな滑稽で惨めな努力へも、少しずつ変わる新鮮な空気は、地上への接近を淡々と知らせてくれていた。
あともう少し。井戸の縁に組まれた黴だらけの木枠が目前に迫ると、僕は早くここから出たい一心で、気が急ぎ慌ただしく手を伸ばした。しかし、長らく冷水に浸かっていた身体は、もう言うことを聞けるわけもなく、震える膝はかくりと呆気なく折れて、かろうじて掛かった指先も、伸びた爪ががりがりと腐った木枠の表面を削るのみだった。
薄らとまたたきはじめた星々が、見る見る内に遠くなって、僕は、呆然とそれを眺めながら暗の底へと吸い込まれていった。
なにもない真っ暗闇。こんな真冬に、いるはずもない蛙が、げこりと一度鳴いたような気がした。
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