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第一章
第五話 刹那の愛
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暗い洞窟の中に、月読はいた。
悪夢のようなあの朝の出来事から約半日が過ぎ、反逆者として捕えられた彼は、ここで夜を迎えた。
人里離れた山の中にある、罪人が幽閉される牢の中である。
天然の洞窟の口に木製の柵を張ったもので、岩肌がむき出しの壁には、幾筋も滲み出た水が流れ、内部はじめりとした重い空気で澱んでいた。
柵の外には、屈強な男が、長い槍を手に月読の様子を見張っている。
「ヴッ……」
小さなうめき声をあげて、見張りの男が前のめりに倒れるのが見えた。
「月読様」
倒れた男を跨いで、大男が柵に近付いて来た。
月明かりを背後から受け、影しか見えなかったが、月読にはその声に覚えがあった。
「牛利か?」
昔、魏から帰った難升米と対面した際、傍らにいた牛利だった。
難升米と共に魏へ渡ったこの大男は、用心棒的な役割で、帰国後もいつも陰から主人を見守っていた。
そんな男がここへ来たということは、自分の息の根を止めて来るよう、主に命じられたに違いない。
「今、ここを開けます」
やはり、自分を亡き者にするつもりかと、月読は諦めと絶望の中、覚悟を決めた。
「あなたを助けに来ました」
「助けに?」
思いがけない言葉に、一層不信感を募らせ、月読は洞窟の奥で身を固くした。
「私はあなたの味方です」
牛利はそう言って、柵を閉じている頑丈な縄をほどき始めた。
「まさか。お前は難升米の……」
「そばでずっと見てきたからこそ、この国をあの男の自由にはさせられないのです」
月読には、牛利が嘘を言っているようには思えなかったが、完全に警戒心を解く事はできなかった。
そんな月読の目が、遠くから近付いて来る人影をとらえた。
その視線に気がついた牛利は、柵に背を向け、腰から短剣を抜くと、闇に向かって構えた。
「誰だ!」
牛利の声に、人影は一瞬びくっと身を縮め、茂みの中に身を隠した。
「誰だと聞いておる!」
揺れる茂みに向かって、牛利は短剣を片手に飛び込んで行った。
「きゃあ!」
「宇多子?」
月読は思わず駆け寄って、柵を握りしめた。
牛利が捕えた人影の発した声は、紛れも無く聞き慣れた妻のものであったのだ。
「おい、放せ!妻の宇多子だ!」
「あなた!」
緩められた牛利の手から逃れ、茂みの中から手足の細い女が月読のもとへ駆け寄って来た。
「お前、なぜここに?」
柵越しに月読は宇多子の頬に触れた。
熱い頬が涙で濡れている。
「お父様はなんてことを……」
宇多子も、震える手で月読の頬に触れた。
「宇多子、壹与は無事か?」
「あの子は……」
言いかけて宇多子は、牛利の方をちらっと見た。
「あの者は……。私の味方だと言ってくれている」
宇多子は、ほっと息をついて微笑み、言葉を続けた。
「昨夜、父が私のもとへ来て、あなたが卑弥呼様を殺し、女王を偽っていると言いました」
「あいつ……!」
「でも、父と入れ替わりにやって来た壹与が、事実を教えてくれたのです。そして、父があなたを罠にはめようとしているから、注意するようにと……」
「壹与の奴、難升米の企てを見破っていたのか。それに比べて私は……」
月読は歯ぎしりをして、柵を拳で叩き、額を打ち付けた。
そんな月読の拳を、宇多子がそっと両手で包み込んだ。
「ご自分を責めないで。それより、これからどうするかを考えましょう」
月読の唇に、宇多子のそれが重なった。
牛利はゴホンと咳払いして、気まずそうに二人に背を向けた。
「二人でどこか遠くへ行きましょう」
宇多子が柵越しに、月読の首に腕を巻き付けてきた。
甘い香りが月読を包み込み、無意識のうちに彼の腕も、強く女の体を抱きしめていた。
「二人で……」
宇多子の声が、呪文のようにそう繰り返した。
このまま、この女と幸せに暮らせたら……。
月読は全てを捨ててもいいと思った。
住み慣れた土地も、王家も、民も。
どうせおそらく明日には消される命だ。
それならいっそ、全てを捨て去って、愛する妻とどこか遠い土地で静かに暮らせればいい。
若者の心は、ほぼ固まりかけていた。
「……だめだ」
おもむろに月読は宇多子の体を引き離した。
「壹与を難升米のもとへ置いては行けない。あの子は、私が去れば唯一の王位継承者だ。巫女としての力も人一倍強い。奴のそばにいると、殺されるか、利用されるかだ」
月読は宇多子の体から離した両手で、柵を握りしめ、少し離れた場所で背を向けている大男に声をかけた。
「おい、お前が本当に私の味方なら、私をここから出してくれ。あの子を…壹与を助けに行かなくてはならないんだ」
牛利は月読の方へ素早く向き直ると、駆け寄って来て柵の縄に手をかけた。
「待って」
宇多子がその手を止めた。
「素直に私とこの地を去ると言えば、逃がして差し上げたのに」
「宇多子?」
月明かりの中、宇多子がせつな気に笑うのが見えた。
「お父様の目当ては、あの子でしたの」
「……?」
「壹与の巫女としての力が欲しかったのよ」
月読には、妻の言わんとすることがすぐには理解できなかった。
「新しい大王として君臨するためにね」
「宇多子、お前は……」
「私は難升米の娘。父を裏切ることはできないわ」
月読は愕然とした。
あれほど愛をささやき合った妻までもが、彼の味方ではなかったのである。
彼は柵を両手で握りしめ、激しく揺さぶり、叫んだ。
「ここから出せ!出してくれ!」
「父上は、あなたがこの地を去れば、命だけは見逃すおつもりでしたのよ。それなのにあなたは……」
宇多子の言葉など耳にせず、月読は柵を揺さぶり続けた。
「無駄よ。この男も私がここへやったの。私がよしと言うまでは、柵に指一本触れやしないわ」
絶望を感じた月読は、頭を柵に押し当て、すがるように身を滑らすと、膝をついて地に伏した。
「……二人で、遠くへ行こうと言ったじゃないか」
「邪馬台は、四方を山に囲まれたところよ。行き倒れなんてごめんだわ」
愛情の無い返事であった。
「途中で父の兵が迎えに来てくれるはずだったの。山賊の振りをしてね。私だけ」
月光の向きが変わり、宇多子の白い顔がくっきりと闇に浮かんだ。
その顔は、無表情で、氷のように冷たかった。
「哀れな人」
宇多子はそうつぶやくと、月読に背を向け、立ち尽くしている牛利の肩をたたいて促した。
「行くわよ」
牛利は同情めいた瞳で、しばらく月読を見下ろしていたが、突然向きを変えると、少し前を歩き出していた宇多子の首に手をのばした。
「牛利、何を?」
素早く大男の手から逃れた宇多子は、駆け出そうとしたが、再びのびた牛利の手に衣を掴まれ、横滑りするように地面に倒れた。
「牛利、裏切る気?」
上半身を起こした宇多子に、牛利は股がると、その大きな手で白い細い首を絞め、後頭部を地面に叩き付けた。
宇多子は咳き込み、口の端から白い泡を吹き出した。
「牛利!やめてくれ!宇多子を殺さないでくれ!」
月読は、柵の中から叫んだ。
「牛利!その人は私の妻なんだ!」
牛利の力がふっと弛み、宇多子の首からその手が離れた。
宇多子は、ぐったりとしたまま、仰向けに倒れている。
「牛利、ここから出してくれ!早く!」
月読は、激しく柵を拳で叩いた。
「牛利!」
宇多子に股がったまま、のっそりと立ち上がった牛利は、大きくため息をつくと、月読のそばへやって来た。
太い指が、器用に縄をほどいていく。
「宇多子!」
牢の中から解放されると、月読は倒れたままの妻のそばへ駆け寄り、胸元に耳を寄せた。
「……よかった。生きている……」
ほっと息をついた月読は、宇多子を抱き上げ、先ほどまで自分がいた牢の中へ入ると、乾いた場所を選んで静かに寝かせた。
そして、胸の上でそっと手を重ねさせると、しばらくその顔を見つめていたが、一息つくと牢から出てきた。
「柵をしてくれ」
月読に言われ、牛利は再び器用に縄を操り、柵を閉じた。
元通り柵が閉じられると、月読はさっきまでと逆の立場で妻を見下ろした。
月明かりに照らされ、宇多子の肌は透き通るほど白く輝いていた。
ただ、首元の絞められた跡だけが、赤黒くいやに痛々しかった。
「それでも……」
月読の頬を一筋、熱いものがつたった。
「それでも私は、この人を愛していたのだよ」
それは、月読が八年振りに、あの姉が死んだ夜以来、初めて流す涙であった。
「宇多子様も、この方なりに苦しまれたのですよ」
思いがけず、牛利が口を開いた。
「あなた様や壹与様を愛さぬように。難升米の娘であるばかりに」
「……?」
「この地から出て行かせるから、命だけは助けて欲しいと、難升米に申し出たのはこの方ですから」
無言で宇多子を見つめる月読の目から、涙が後から後から溢れ出し、頬を濡らした。
やがて彼は唇を噛み締め、しばらく伏せていた目を見開き、夜空に向かって言った。
「壹与を助けに行く」
「お前は……なぜ……?」
月読は、自分より頭ひとつ分以上背の高い男を見上げて尋ねた。
「一時の同情から私に味方したのなら、今からでも遅くない……」
「すべては計画通りなのですよ」
牛利は涼しい顔をして言った。
「最初に申し上げたでしょう。私はあなたの味方です」
難升米の屋敷を目指し、山中の牢からくだる山道で、二人の男は向かい合った。
最も信じていた人間に、続けざまに裏切られたばかりの月読は、疑い深気なまなざしで、牛利を見ていた。
「そんな目で見ないでくださいよ。まいったなあ。私は裏切りませんよ」
眉間に皺を寄せ、牛利は口を歪ませた。
「私が賢者なら、お前の言葉の真意も判ろうが、どうやら私には人を見る目が無いらしいのでね」
月読は、味方と名乗る者を素直に信じる事ができない己が哀しかった。
疑う事を知らなかった昨日までの自分が、まるで他人のように思えたのである。
「私は難升米の独裁に反対する者。あの男には倭国はおろか、邪馬台を治める力もありませぬ」
「その男の罠に、まんまとはまったのだぞ。私は」
皮肉気に鼻で笑い、月読は額に巻かれた帯を解くと、垂らしていた髪をひとつに束ねた。
巫女の装束を身に纏い、月光を浴びた月読は、どこか妖艶で神秘的に見えた。
「ご自分に自信をお持ちください。あなたに味方する者は、私の他にも数多くいるのです」
悲壮に訴えかける牛利の言葉も、固くなってしまった月読の心には響かなかった。
「私は壹与を助けに行く。ただし助けはいらぬ。ひとりでやる。お前の言葉が真なら、黙ってこのまま行かせてくれ。もしそうでないのなら、今ここで私を殺せばよい。勿論、そう簡単には殺られぬつもりだがな」
険しい顔つきで月読はそう言い、腰に差していた儀式用の剣を、額の前に構えた。
牛利は軽く唇を噛み、眉間を寄せた表情のまま、月読を見つめた。
「そこまでおっしゃるのなら……」
大男は一息つくと、自分の腰の長剣を抜き放った。
月読はごくりとのどを鳴らして、一歩後ずさった。
次の瞬間、月読の剣の三倍近くもありそうな青銅の剣が、牛利の手から離れ月読の居る方向へ飛んで来た。
ガキーン!
突然の金属音に驚いて、木々の梢から鳥の群れが一斉に飛び立った。
月読は目を見開いて、足元の地面に刺さる剣を見つめ、続いて牛利の顔を見上げた。
「そのような黄金の、しかも短剣では武器にならんでしょう。それを持ってお行きなさい」
人懐っこい笑顔で大男はそう言い、剣の鞘を放った。
月読はそれを片手で受け取ると、刃を納め、腰に挿した。
それでも、しばらくその場を立ち去りかねている月読に、牛利は少し口調を強めて言った。
「さあ、早く!夜が明けぬうちに!」
その声に弾かれるように、月読は暗闇に駆け出した。
そして、山道を駆け下りながら、次に牛利に会う事ができたなら、素直に感謝の言葉を口にしたいと思った。
獣道のような道なき道を無我夢中で突き進み、踏み平された麓の道に差し掛かると、難升米の屋敷の灯りが見え、笛や太鼓の音が微かに聞こえて来た。
悪夢のようなあの朝の出来事から約半日が過ぎ、反逆者として捕えられた彼は、ここで夜を迎えた。
人里離れた山の中にある、罪人が幽閉される牢の中である。
天然の洞窟の口に木製の柵を張ったもので、岩肌がむき出しの壁には、幾筋も滲み出た水が流れ、内部はじめりとした重い空気で澱んでいた。
柵の外には、屈強な男が、長い槍を手に月読の様子を見張っている。
「ヴッ……」
小さなうめき声をあげて、見張りの男が前のめりに倒れるのが見えた。
「月読様」
倒れた男を跨いで、大男が柵に近付いて来た。
月明かりを背後から受け、影しか見えなかったが、月読にはその声に覚えがあった。
「牛利か?」
昔、魏から帰った難升米と対面した際、傍らにいた牛利だった。
難升米と共に魏へ渡ったこの大男は、用心棒的な役割で、帰国後もいつも陰から主人を見守っていた。
そんな男がここへ来たということは、自分の息の根を止めて来るよう、主に命じられたに違いない。
「今、ここを開けます」
やはり、自分を亡き者にするつもりかと、月読は諦めと絶望の中、覚悟を決めた。
「あなたを助けに来ました」
「助けに?」
思いがけない言葉に、一層不信感を募らせ、月読は洞窟の奥で身を固くした。
「私はあなたの味方です」
牛利はそう言って、柵を閉じている頑丈な縄をほどき始めた。
「まさか。お前は難升米の……」
「そばでずっと見てきたからこそ、この国をあの男の自由にはさせられないのです」
月読には、牛利が嘘を言っているようには思えなかったが、完全に警戒心を解く事はできなかった。
そんな月読の目が、遠くから近付いて来る人影をとらえた。
その視線に気がついた牛利は、柵に背を向け、腰から短剣を抜くと、闇に向かって構えた。
「誰だ!」
牛利の声に、人影は一瞬びくっと身を縮め、茂みの中に身を隠した。
「誰だと聞いておる!」
揺れる茂みに向かって、牛利は短剣を片手に飛び込んで行った。
「きゃあ!」
「宇多子?」
月読は思わず駆け寄って、柵を握りしめた。
牛利が捕えた人影の発した声は、紛れも無く聞き慣れた妻のものであったのだ。
「おい、放せ!妻の宇多子だ!」
「あなた!」
緩められた牛利の手から逃れ、茂みの中から手足の細い女が月読のもとへ駆け寄って来た。
「お前、なぜここに?」
柵越しに月読は宇多子の頬に触れた。
熱い頬が涙で濡れている。
「お父様はなんてことを……」
宇多子も、震える手で月読の頬に触れた。
「宇多子、壹与は無事か?」
「あの子は……」
言いかけて宇多子は、牛利の方をちらっと見た。
「あの者は……。私の味方だと言ってくれている」
宇多子は、ほっと息をついて微笑み、言葉を続けた。
「昨夜、父が私のもとへ来て、あなたが卑弥呼様を殺し、女王を偽っていると言いました」
「あいつ……!」
「でも、父と入れ替わりにやって来た壹与が、事実を教えてくれたのです。そして、父があなたを罠にはめようとしているから、注意するようにと……」
「壹与の奴、難升米の企てを見破っていたのか。それに比べて私は……」
月読は歯ぎしりをして、柵を拳で叩き、額を打ち付けた。
そんな月読の拳を、宇多子がそっと両手で包み込んだ。
「ご自分を責めないで。それより、これからどうするかを考えましょう」
月読の唇に、宇多子のそれが重なった。
牛利はゴホンと咳払いして、気まずそうに二人に背を向けた。
「二人でどこか遠くへ行きましょう」
宇多子が柵越しに、月読の首に腕を巻き付けてきた。
甘い香りが月読を包み込み、無意識のうちに彼の腕も、強く女の体を抱きしめていた。
「二人で……」
宇多子の声が、呪文のようにそう繰り返した。
このまま、この女と幸せに暮らせたら……。
月読は全てを捨ててもいいと思った。
住み慣れた土地も、王家も、民も。
どうせおそらく明日には消される命だ。
それならいっそ、全てを捨て去って、愛する妻とどこか遠い土地で静かに暮らせればいい。
若者の心は、ほぼ固まりかけていた。
「……だめだ」
おもむろに月読は宇多子の体を引き離した。
「壹与を難升米のもとへ置いては行けない。あの子は、私が去れば唯一の王位継承者だ。巫女としての力も人一倍強い。奴のそばにいると、殺されるか、利用されるかだ」
月読は宇多子の体から離した両手で、柵を握りしめ、少し離れた場所で背を向けている大男に声をかけた。
「おい、お前が本当に私の味方なら、私をここから出してくれ。あの子を…壹与を助けに行かなくてはならないんだ」
牛利は月読の方へ素早く向き直ると、駆け寄って来て柵の縄に手をかけた。
「待って」
宇多子がその手を止めた。
「素直に私とこの地を去ると言えば、逃がして差し上げたのに」
「宇多子?」
月明かりの中、宇多子がせつな気に笑うのが見えた。
「お父様の目当ては、あの子でしたの」
「……?」
「壹与の巫女としての力が欲しかったのよ」
月読には、妻の言わんとすることがすぐには理解できなかった。
「新しい大王として君臨するためにね」
「宇多子、お前は……」
「私は難升米の娘。父を裏切ることはできないわ」
月読は愕然とした。
あれほど愛をささやき合った妻までもが、彼の味方ではなかったのである。
彼は柵を両手で握りしめ、激しく揺さぶり、叫んだ。
「ここから出せ!出してくれ!」
「父上は、あなたがこの地を去れば、命だけは見逃すおつもりでしたのよ。それなのにあなたは……」
宇多子の言葉など耳にせず、月読は柵を揺さぶり続けた。
「無駄よ。この男も私がここへやったの。私がよしと言うまでは、柵に指一本触れやしないわ」
絶望を感じた月読は、頭を柵に押し当て、すがるように身を滑らすと、膝をついて地に伏した。
「……二人で、遠くへ行こうと言ったじゃないか」
「邪馬台は、四方を山に囲まれたところよ。行き倒れなんてごめんだわ」
愛情の無い返事であった。
「途中で父の兵が迎えに来てくれるはずだったの。山賊の振りをしてね。私だけ」
月光の向きが変わり、宇多子の白い顔がくっきりと闇に浮かんだ。
その顔は、無表情で、氷のように冷たかった。
「哀れな人」
宇多子はそうつぶやくと、月読に背を向け、立ち尽くしている牛利の肩をたたいて促した。
「行くわよ」
牛利は同情めいた瞳で、しばらく月読を見下ろしていたが、突然向きを変えると、少し前を歩き出していた宇多子の首に手をのばした。
「牛利、何を?」
素早く大男の手から逃れた宇多子は、駆け出そうとしたが、再びのびた牛利の手に衣を掴まれ、横滑りするように地面に倒れた。
「牛利、裏切る気?」
上半身を起こした宇多子に、牛利は股がると、その大きな手で白い細い首を絞め、後頭部を地面に叩き付けた。
宇多子は咳き込み、口の端から白い泡を吹き出した。
「牛利!やめてくれ!宇多子を殺さないでくれ!」
月読は、柵の中から叫んだ。
「牛利!その人は私の妻なんだ!」
牛利の力がふっと弛み、宇多子の首からその手が離れた。
宇多子は、ぐったりとしたまま、仰向けに倒れている。
「牛利、ここから出してくれ!早く!」
月読は、激しく柵を拳で叩いた。
「牛利!」
宇多子に股がったまま、のっそりと立ち上がった牛利は、大きくため息をつくと、月読のそばへやって来た。
太い指が、器用に縄をほどいていく。
「宇多子!」
牢の中から解放されると、月読は倒れたままの妻のそばへ駆け寄り、胸元に耳を寄せた。
「……よかった。生きている……」
ほっと息をついた月読は、宇多子を抱き上げ、先ほどまで自分がいた牢の中へ入ると、乾いた場所を選んで静かに寝かせた。
そして、胸の上でそっと手を重ねさせると、しばらくその顔を見つめていたが、一息つくと牢から出てきた。
「柵をしてくれ」
月読に言われ、牛利は再び器用に縄を操り、柵を閉じた。
元通り柵が閉じられると、月読はさっきまでと逆の立場で妻を見下ろした。
月明かりに照らされ、宇多子の肌は透き通るほど白く輝いていた。
ただ、首元の絞められた跡だけが、赤黒くいやに痛々しかった。
「それでも……」
月読の頬を一筋、熱いものがつたった。
「それでも私は、この人を愛していたのだよ」
それは、月読が八年振りに、あの姉が死んだ夜以来、初めて流す涙であった。
「宇多子様も、この方なりに苦しまれたのですよ」
思いがけず、牛利が口を開いた。
「あなた様や壹与様を愛さぬように。難升米の娘であるばかりに」
「……?」
「この地から出て行かせるから、命だけは助けて欲しいと、難升米に申し出たのはこの方ですから」
無言で宇多子を見つめる月読の目から、涙が後から後から溢れ出し、頬を濡らした。
やがて彼は唇を噛み締め、しばらく伏せていた目を見開き、夜空に向かって言った。
「壹与を助けに行く」
「お前は……なぜ……?」
月読は、自分より頭ひとつ分以上背の高い男を見上げて尋ねた。
「一時の同情から私に味方したのなら、今からでも遅くない……」
「すべては計画通りなのですよ」
牛利は涼しい顔をして言った。
「最初に申し上げたでしょう。私はあなたの味方です」
難升米の屋敷を目指し、山中の牢からくだる山道で、二人の男は向かい合った。
最も信じていた人間に、続けざまに裏切られたばかりの月読は、疑い深気なまなざしで、牛利を見ていた。
「そんな目で見ないでくださいよ。まいったなあ。私は裏切りませんよ」
眉間に皺を寄せ、牛利は口を歪ませた。
「私が賢者なら、お前の言葉の真意も判ろうが、どうやら私には人を見る目が無いらしいのでね」
月読は、味方と名乗る者を素直に信じる事ができない己が哀しかった。
疑う事を知らなかった昨日までの自分が、まるで他人のように思えたのである。
「私は難升米の独裁に反対する者。あの男には倭国はおろか、邪馬台を治める力もありませぬ」
「その男の罠に、まんまとはまったのだぞ。私は」
皮肉気に鼻で笑い、月読は額に巻かれた帯を解くと、垂らしていた髪をひとつに束ねた。
巫女の装束を身に纏い、月光を浴びた月読は、どこか妖艶で神秘的に見えた。
「ご自分に自信をお持ちください。あなたに味方する者は、私の他にも数多くいるのです」
悲壮に訴えかける牛利の言葉も、固くなってしまった月読の心には響かなかった。
「私は壹与を助けに行く。ただし助けはいらぬ。ひとりでやる。お前の言葉が真なら、黙ってこのまま行かせてくれ。もしそうでないのなら、今ここで私を殺せばよい。勿論、そう簡単には殺られぬつもりだがな」
険しい顔つきで月読はそう言い、腰に差していた儀式用の剣を、額の前に構えた。
牛利は軽く唇を噛み、眉間を寄せた表情のまま、月読を見つめた。
「そこまでおっしゃるのなら……」
大男は一息つくと、自分の腰の長剣を抜き放った。
月読はごくりとのどを鳴らして、一歩後ずさった。
次の瞬間、月読の剣の三倍近くもありそうな青銅の剣が、牛利の手から離れ月読の居る方向へ飛んで来た。
ガキーン!
突然の金属音に驚いて、木々の梢から鳥の群れが一斉に飛び立った。
月読は目を見開いて、足元の地面に刺さる剣を見つめ、続いて牛利の顔を見上げた。
「そのような黄金の、しかも短剣では武器にならんでしょう。それを持ってお行きなさい」
人懐っこい笑顔で大男はそう言い、剣の鞘を放った。
月読はそれを片手で受け取ると、刃を納め、腰に挿した。
それでも、しばらくその場を立ち去りかねている月読に、牛利は少し口調を強めて言った。
「さあ、早く!夜が明けぬうちに!」
その声に弾かれるように、月読は暗闇に駆け出した。
そして、山道を駆け下りながら、次に牛利に会う事ができたなら、素直に感謝の言葉を口にしたいと思った。
獣道のような道なき道を無我夢中で突き進み、踏み平された麓の道に差し掛かると、難升米の屋敷の灯りが見え、笛や太鼓の音が微かに聞こえて来た。
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第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
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