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第二章
第八話 二人の母
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隣国同士の邪馬台国と河内国とは、交流が深く、年が近かった河内国王と、姉姫と卑弥呼の姉妹とは、幼なじみとして育った。
そんな中、河内国王は、神秘的な美しさを持つ卑弥呼に、いつしか淡い想いを抱くようになっていた。
しかし、類希な霊能力を持ち、早くから父である大王の巫女として政に関わっていた卑弥呼とは、結ばれるはずもなく、想いを伝えることさえ叶わなかった。
やがて年頃を迎えた彼に、姉姫との縁談が持ち上がった。
そしてその時彼は、巫女である限り俗世を捨てる宿命である卑弥呼をあきらめ、姉姫を妻としたのだった。
父王の片腕として、男勝りに国を動かす卑弥呼に比べ、控えめで大人しい姉姫に、王は癒され、彼女を愛することもできたが、卑弥呼への想いは、いつまでも彼の中でくすぶり続けていた。
姉姫との結婚から七年が過ぎ、卑弥呼への想いも薄れたと思われた頃、邪馬台国の大王が急逝し、王の腹違いの弟である上筒之男が王位を継承した。
戦好きな新大王のもとで、巫女として仕えることになった卑弥呼の苦労を伝え聞くたび、心が痛み、薄れていたはずの想いが再び甦ってきた。
しかし、彼女と会うと、妻への裏切りになるような気がして、彼は卑弥呼から距離を置き続けた。
数年後、国民の不満が限界に達し、上筒之男が暗殺され、卑弥呼が大王に即位することになった。
即位の儀に王子として出席した彼は、邪馬台国の大王として、君臨する卑弥呼の姿を目の当たりにし、いよいよ手の届かない存在になったのだと自分に言い聞かせた。
そしてこれからは、卑弥呼への未練を断ち切り、妻である姉姫と向かい合って生きて行こうと、改めて心に誓った。
だが、その数年後、彼は自らその誓いを破ってしまったのだった。
その年、父王の死に伴い、彼が河内国の王に即位することとなった。
その祝いの言葉を述べに、卑弥呼が彼のもとを訪れたのだ。河内国を配下に置く、邪馬台国の女王の方から訪問してくるなど、極めて異例なことであった。
河内国王は、謁見の間で女王を丁重に迎え、上座へと導いた。水入らずで昔話がしたいという、卑弥呼からの要望で、室内は人払いをしていた。
姉姫との結婚以来、二人が間近で顔を合わせたのは、十五年振りであった。
二人とも、もう若くはなかったが、女王の美しさに衰えは感じられなかった。
卑弥呼が形式的な祝辞を送り、それに対して王が謝辞を述べると、しばらく二人の間に無言の時間が続いた。
「そなたは、なかなか顔を見せてくれぬゆえ、こちらから参りました」
やがて沈黙を破り、卑弥呼が伏し目がちにそう言った。
河内国王は、叱られた少年のように、肩をすくめてうつむき、黙って唇を噛み締めていた。
意図的に女王に会うことを避けていたことを、彼女にも気付かれていたのだと思うと、この上なく気まずかった。
「幼い頃は、兄妹のように遊んだ仲であるのに……。邪馬台の大王となった私とは、もう昔のようには話してはくれませぬのか」
女王は威厳を崩すことはなかったが、微かに悲し気な表情を漂わせた。
河内国王は、黙って首を小さく振った。
十五年もの時を経ても、卑弥呼を前にすると、彼の心は大きく乱れ、彼女の顔をまともに見る事さえできなかった。
そんな王の姿を、卑弥呼は静かに見つめていた。
「このような運命でなければ、そなたと共に歩めたであろうか」
小さくつぶやいた卑弥呼の言葉に、思わず河内国王は顔を上げ、女王の瞳を見つめた。
すると彼女は、頬を赤らめて、素早く視線を彼から逸らした。
それは、彼が初めて目にした、女王の女としての顔だった。
「つまらぬことを。忘れてください」
戸惑いながら床の一点を見つめる潤んだ瞳に、河内国王の中の何かが壊れた。
次の瞬間、王の伸ばした手が卑弥呼の腕をつかみ、そのままの勢いで二人の体は床の上に崩れ落ちた。
数ヶ月後、邪馬台からの密使により、卑弥呼が懐妊していることを知らされた。
民達にその事実を伏せたまま、女王は秘密裏に子を生むつもりだという。
河内国王は、自分のしでかした事の結果の大きさに、胸を掻きむしるほどの罪の意識に苛まれていた。
「卑弥呼の子の父親は、あなたですね」
妹の懐妊を伝え聞き、姉姫が王にたずねてきた。
王は妻の顔を直視することもできず、黙って頷くしかなかった。
「あなたが、卑弥呼のことを想っていらしたのは知っています。幼い頃からずっと」
姉姫は、いたわるような視線を、王に向けていた。
「そして、卑弥呼があなたを昔から愛していたことも……」
彼女はうなだれる夫の肩に手を添え、優しく諭すように語りかけた。
「巫女である卑弥呼は、子のやり場に困るでしょう。生まれた子は、私の子として育てます」
王は目を大きく見開き、妻の顔を見つめた。
妻は涙を流しながら、微笑んで何度も頷いて見せた。
「体の弱い私は、あなたの子を生めませんでした。でも、私はあなたの妻になれたのですもの。そしてあなたは、私を愛そうと努力してくださった。私一人が、想いを遂げられたのですから、恩返しのつもりで、大切にお育てします」
思わず河内国王は、姉姫を力いっぱい抱きしめた。
申し訳なさと、妻の愛情の深さに、涙が止まらなかった。
「すまない……」
子どものように、自分に寄りかかりながら泣く夫の背中を、姉姫はいつまでも優しく摩り続けていた。
「そうして姉姫は、亡くなるまであなたを我が子のように可愛がり、育ててくれたのです」
父から自分の出生の事実を聞いた壹与は、両手で口元を覆いながら、必死に気持ちの整理をしようとしていた。
「でも、卑弥呼様には神託が聞こえていたわ。お父様を愛しておられたなら、私のように……」
壹与は、女王の審神者であった月読から、彼女には神の声が聞こえなかったなどと、聞いた事がなかった。
何より卑弥呼は、誰に聞いても、俗世とはかけ離れた、崇高な存在に見えていたと言う。
とてもそんな熱い想いを抱えていたなど、信じられなかった。
「それがあの方の、人間離れした精神力であったのでしょう。あの方は、決して自分を見失うことはなかった。もしくは、私の存在は、あの方にとって、心を埋め尽くすほどではなかったのかもしれませぬ」
河内国王は、せつな気に微かに笑ったが、ふと思い出したように付け加えた。
「しかし以前、月読様にこのことをお話した時、最後の神託だけは、様子が違ったとおっしゃっていました」
「最後の神託……」
それは、七日間続いた嵐をおさめるため、卑弥呼が祈祷をし続け、命を落とした時下された神託のことだ。
「七日間も神託が聞こえないなど、それまでは一度もなかったと」
壹与は、自分にもまだ神の声が聞こえていた頃を思い返してみた。
確かに、体調がすぐれない時や心が落ち着かない時など、一時的に神の声が聞こえなくなることはあっても、七日間もまったく聞こえなくなるなど、恋を知るまではなかった。
つまりそれは、一時的な事ではなかったということなのか。
だとすれば、あの時、いったい何が女王の心を乱したのか。
「おそらく、あなたへ対する母としての思いが、あの方の心を占めてしまったのでしょう」
「まさか……」
確かに、あの嵐が起こる少し前、壹与は初めてここで卑弥呼に会った。
姉姫の忘れ形見として連れて来られ、そのまま卑弥呼に引き取られたのだ。
「一度は手放した娘への愛情が、可愛い盛りのあなたを目にして強く芽生えたのでしょう。そう感じたからこそ、私も、あなたをあの方へお返ししたのです」
しかし、壹与のおぼろげな記憶の中に、母としての優しさを感じられる卑弥呼の姿はなかった。
引き取られて以降、女王と面会した覚えは殆どなく、遠くから見かけることはあっても、ただ、いつも凛として近寄りがたい、美しい人であったという印象しかなかった。
もしかしたら、巫女として生きるために、あえて壹与を遠ざけていたのかもしれない。
だが、もし本当に神託が聞こえず、目の前に、命を落としていく民達がいるとしたら…。
自分ならどうするだろうかと、壹与は考えてみた。
そして、出てきた答えに、思わず吐き気を覚え、両手で口元を押さえた。
「まさか、卑弥呼様は……自ら火の中に……」
神以外のものに心を奪われた巫女が、神託を授かるために、最後に差し出せるもの。
それは、自分の命しかない。
卑弥呼が、命と引き換えに、神の言葉を乞うたのだとしたら…。
壹与は、巫女として生きるために、必要な覚悟の大きさを初めて実感し、めまいを感じた。
河内国王は、黙り込んだ娘を見て、はたして真実を語ってよかったのかと自問していた。
十四歳の少女が受け止めるには、あまりに過酷な現実かと思われたが、倭国の女王として生きるためには、身につけなくてはならない覚悟であった。
「卑弥呼様……いえ、お母様のようにはなれないとしても、私も戦に向けて、覚悟を決めなくてはなりませんね」
しばらくして壹与は、涙の乾いた瞳で父を見つめた。
「でも、二人の母に愛されていたのだと思うと、力づけられました」
そう言って壹与は、落ち着いた様子で父に頭を下げ、微かに笑って見せた。
その姿に、一瞬、若き日の卑弥呼の姿が重なり、河内国王はまぶしさに目を細めた。
(ああ、確かにあの方の娘だ……)
河内国王は、回廊の柵に手を掛け、青い空を見上げる娘を見て、心の中でそうつぶやいた。
翌日、河内国へ帰る王が、門へと向かい、従者達と宮廷内の庭を歩いていると、遠くに男鹿の姿が見えた。
彼は張政から譲り受けた鉄の剣を握りしめ、感触を確認するように、素振りをしていた。
遠目にも、その身のこなしから、少年がかなり剣術に優れていることがうかがい知れた。
王は従者をその場に待たせ、少年のそばへ近付いて行った。
王の姿に気が付いた男鹿は、剣を鞘に収め、その場に跪いた。
その額には汗が光り、肩は呼吸に合わせて上下していた。
「魏の剣だな」
男鹿の腰に挿された剣を見て、王は言った。
河内国で新羅の職人に打たせている剣よりも、精巧な細工が美しく、大きな剣だった。
「そなたは、大王をどう思っておる?」
河内国王に聞かれた男鹿は、一瞬目を泳がせたが、すぐに濁りの無い瞳を王に向けた。
「お慕いしております」
「そうか……」
王は穏やかな表情で、少年を見た。
「巫女を愛しても、報われぬぞ」
男鹿は唇を噛み締めて、小さく、しかし力強く頷いた。
「そなたは、なんとしてもあの方を守ってくれ。私は愛する巫女に何もできなかったのでな」
男鹿には、王の愛した巫女が誰なのかわからなかったが、その表情から、大切な者を守れなかった王の悲しみは感じ取れた。
「はい。この命に替えても」
そう答える聡明そうな少年の顔を見て、王は満足気に何度も頷くと、彼に背を向け、従者達のもとへと歩き出した。
その後ろ姿に向かい、男鹿は、姿が見えなくなるまで、深く頭を下げ続けていた。
そして、再び顔を上げた時、彼の目の前には、父を見送る壹与の姿があった。
二人は晩夏のまだ熱い日差しを避け、宮廷の庭にある大きな槻の木陰に、腰を降ろした。
そして、しばし互いの立場を忘れ、恋人同士のように肩を並べて、葉影の間を抜けてくる涼しい風を感じていた。
二人きりで、このような穏やかな時間を過ごすのは、二人が出会ってから初めてかもしれなかった。
壹与は、男鹿に自分の出生の事実を話した。
男鹿は、じっとその話に耳を傾け、ただ黙って頷き続けた。
だが、卑弥呼が自らの命と引き換えに、神託を乞うたかもしれぬと話すと、彼の顔色は一変した。
「もしも今後、そのような局面を迎えたとしても、私が神託に頼らずに解決できる策を考えます。ですから、あなた様は決して、そのような決断をしないでください」
哀し気な表情でそう訴える男鹿に、壹与の瞳から涙がこぼれ落ちた。
嬉し涙だった。
膝に顔を埋めて泣く壹与を、男鹿は隣に寄り添い、優しく見守っていた。
ひととき泣いて、落ち着きを取り戻した壹与が男鹿の方に顔を向けると、すぐそばに少年の涼し気な瞳があった。
そのまま二人は合わせた目と目を離せなくなり、しばらく見つめ合った。
そして、どちらからともなく、頬を寄せ、瞳を閉じて唇を重ねた。
二人にとって、そうすることが、自然なことだった。
「卑弥呼様も、巫女として死ぬ前に、ひとときでも、女として生きたかったんだと思うの。だから、お父様に会いに行ったんだわ」
名残惜しそうに唇を離し、そう言う壹与の瞳が潤んで揺れていた。
「私も……。やっぱり同士としてでは、生きられないかもしれない……」
男鹿は黙って、少女の体を抱き寄せた。
彼の気持ちも、少女と全く同じだった。
「仮に明日、この命を神に捧げることになったとしても、悔いの無いように生きたいの」
二人は、抑えてきた想いを放出させるように、強く強く抱きしめ合った。
「あの日、戦うあなたを見て、大切な人を失うんじゃないかと怖かった……。だから、あなたも無茶しないで」
男鹿は何度も頷きながら、彼女のためなら喜んで死ねると思った。
巫女として命を賭ける覚悟の壹与と、彼女を守るためなら、命を差し出す覚悟の男鹿。
二人に共に歩める未来は無いとしても、その未来を生きて迎えられるかどうかさえわからないのだ。
そう思うと、身分も立場も、どうでもいいような気がしていた。
男鹿はこの時、訪れるかどうかもわからない未来の為に心を偽るよりも、今を正直に生きたいと思った。
「……愛しています」
男鹿の言葉に、壹与の瞳から、一気に涙が溢れ出した。
その言葉を聞けただけで、たとえ明日が来ないとしてもいいと思えた。
そして、彼の言葉に応えるように、一層強く少年の体を抱きしめた。
ふと、何者かの視線を感じた男鹿が顔を上げると、少し離れた場所から、張政が二人の様子を見つめていた。
男鹿は壹与の肩をつかんで体を離し、立ち上がると、彼女に背を向けて張政と向かい合った。
それを見て、張政はゆっくりと二人に近付いてきた。
「張政様、忠告を守れず、申し訳ありませぬ」
男鹿は、身を固くして頭を下げた。
彼はどんな咎めでも受けるつもりだった。
壹与も立ち上がり、男鹿の背の衣をつかみながら、不安そうに異国の老人を見つめていた。
男鹿の目の前で立ち止まった張政は、二人の顔を見比べて、深いため息をついた。
「おぬしも壹与様も、未来に目を向けてはおらぬのであろう。それなら、私からは何も言えぬよ」
同情するような、しかしあたたかいまなざしを、老人は若い二人に向けていた。
「私は、甘い未来への夢に破れ、おぬしらが傷つくのを見たくなかっただけじゃ。それぞれの使命を全うする覚悟があるのなら、もう何も言わぬ」
そう言い残すと、老人は背を向けて去って行った。
残された二人は、呆気にとられたように、言葉を失ったまま、立ち尽くしていた。
「我々も戻りましょう」
しばらく、張政の後ろ姿を見送っていた男鹿は、背後の壹与に声を掛けた。
そして、優しく微笑んで、彼女に手を差し伸べた。
壹与がその手をつかむと、彼は眩しい日差しの中を神殿に向かって早足で歩き始めた。
前を歩く広い背中と、力強く自分の手を引く大きな手を見ながら、壹与は、この手をずっと離したくないと思った。
未来は見えなくても、今この瞬間、壹与は幸せだった。
今はそれだけで充分だった。
そんな中、河内国王は、神秘的な美しさを持つ卑弥呼に、いつしか淡い想いを抱くようになっていた。
しかし、類希な霊能力を持ち、早くから父である大王の巫女として政に関わっていた卑弥呼とは、結ばれるはずもなく、想いを伝えることさえ叶わなかった。
やがて年頃を迎えた彼に、姉姫との縁談が持ち上がった。
そしてその時彼は、巫女である限り俗世を捨てる宿命である卑弥呼をあきらめ、姉姫を妻としたのだった。
父王の片腕として、男勝りに国を動かす卑弥呼に比べ、控えめで大人しい姉姫に、王は癒され、彼女を愛することもできたが、卑弥呼への想いは、いつまでも彼の中でくすぶり続けていた。
姉姫との結婚から七年が過ぎ、卑弥呼への想いも薄れたと思われた頃、邪馬台国の大王が急逝し、王の腹違いの弟である上筒之男が王位を継承した。
戦好きな新大王のもとで、巫女として仕えることになった卑弥呼の苦労を伝え聞くたび、心が痛み、薄れていたはずの想いが再び甦ってきた。
しかし、彼女と会うと、妻への裏切りになるような気がして、彼は卑弥呼から距離を置き続けた。
数年後、国民の不満が限界に達し、上筒之男が暗殺され、卑弥呼が大王に即位することになった。
即位の儀に王子として出席した彼は、邪馬台国の大王として、君臨する卑弥呼の姿を目の当たりにし、いよいよ手の届かない存在になったのだと自分に言い聞かせた。
そしてこれからは、卑弥呼への未練を断ち切り、妻である姉姫と向かい合って生きて行こうと、改めて心に誓った。
だが、その数年後、彼は自らその誓いを破ってしまったのだった。
その年、父王の死に伴い、彼が河内国の王に即位することとなった。
その祝いの言葉を述べに、卑弥呼が彼のもとを訪れたのだ。河内国を配下に置く、邪馬台国の女王の方から訪問してくるなど、極めて異例なことであった。
河内国王は、謁見の間で女王を丁重に迎え、上座へと導いた。水入らずで昔話がしたいという、卑弥呼からの要望で、室内は人払いをしていた。
姉姫との結婚以来、二人が間近で顔を合わせたのは、十五年振りであった。
二人とも、もう若くはなかったが、女王の美しさに衰えは感じられなかった。
卑弥呼が形式的な祝辞を送り、それに対して王が謝辞を述べると、しばらく二人の間に無言の時間が続いた。
「そなたは、なかなか顔を見せてくれぬゆえ、こちらから参りました」
やがて沈黙を破り、卑弥呼が伏し目がちにそう言った。
河内国王は、叱られた少年のように、肩をすくめてうつむき、黙って唇を噛み締めていた。
意図的に女王に会うことを避けていたことを、彼女にも気付かれていたのだと思うと、この上なく気まずかった。
「幼い頃は、兄妹のように遊んだ仲であるのに……。邪馬台の大王となった私とは、もう昔のようには話してはくれませぬのか」
女王は威厳を崩すことはなかったが、微かに悲し気な表情を漂わせた。
河内国王は、黙って首を小さく振った。
十五年もの時を経ても、卑弥呼を前にすると、彼の心は大きく乱れ、彼女の顔をまともに見る事さえできなかった。
そんな王の姿を、卑弥呼は静かに見つめていた。
「このような運命でなければ、そなたと共に歩めたであろうか」
小さくつぶやいた卑弥呼の言葉に、思わず河内国王は顔を上げ、女王の瞳を見つめた。
すると彼女は、頬を赤らめて、素早く視線を彼から逸らした。
それは、彼が初めて目にした、女王の女としての顔だった。
「つまらぬことを。忘れてください」
戸惑いながら床の一点を見つめる潤んだ瞳に、河内国王の中の何かが壊れた。
次の瞬間、王の伸ばした手が卑弥呼の腕をつかみ、そのままの勢いで二人の体は床の上に崩れ落ちた。
数ヶ月後、邪馬台からの密使により、卑弥呼が懐妊していることを知らされた。
民達にその事実を伏せたまま、女王は秘密裏に子を生むつもりだという。
河内国王は、自分のしでかした事の結果の大きさに、胸を掻きむしるほどの罪の意識に苛まれていた。
「卑弥呼の子の父親は、あなたですね」
妹の懐妊を伝え聞き、姉姫が王にたずねてきた。
王は妻の顔を直視することもできず、黙って頷くしかなかった。
「あなたが、卑弥呼のことを想っていらしたのは知っています。幼い頃からずっと」
姉姫は、いたわるような視線を、王に向けていた。
「そして、卑弥呼があなたを昔から愛していたことも……」
彼女はうなだれる夫の肩に手を添え、優しく諭すように語りかけた。
「巫女である卑弥呼は、子のやり場に困るでしょう。生まれた子は、私の子として育てます」
王は目を大きく見開き、妻の顔を見つめた。
妻は涙を流しながら、微笑んで何度も頷いて見せた。
「体の弱い私は、あなたの子を生めませんでした。でも、私はあなたの妻になれたのですもの。そしてあなたは、私を愛そうと努力してくださった。私一人が、想いを遂げられたのですから、恩返しのつもりで、大切にお育てします」
思わず河内国王は、姉姫を力いっぱい抱きしめた。
申し訳なさと、妻の愛情の深さに、涙が止まらなかった。
「すまない……」
子どものように、自分に寄りかかりながら泣く夫の背中を、姉姫はいつまでも優しく摩り続けていた。
「そうして姉姫は、亡くなるまであなたを我が子のように可愛がり、育ててくれたのです」
父から自分の出生の事実を聞いた壹与は、両手で口元を覆いながら、必死に気持ちの整理をしようとしていた。
「でも、卑弥呼様には神託が聞こえていたわ。お父様を愛しておられたなら、私のように……」
壹与は、女王の審神者であった月読から、彼女には神の声が聞こえなかったなどと、聞いた事がなかった。
何より卑弥呼は、誰に聞いても、俗世とはかけ離れた、崇高な存在に見えていたと言う。
とてもそんな熱い想いを抱えていたなど、信じられなかった。
「それがあの方の、人間離れした精神力であったのでしょう。あの方は、決して自分を見失うことはなかった。もしくは、私の存在は、あの方にとって、心を埋め尽くすほどではなかったのかもしれませぬ」
河内国王は、せつな気に微かに笑ったが、ふと思い出したように付け加えた。
「しかし以前、月読様にこのことをお話した時、最後の神託だけは、様子が違ったとおっしゃっていました」
「最後の神託……」
それは、七日間続いた嵐をおさめるため、卑弥呼が祈祷をし続け、命を落とした時下された神託のことだ。
「七日間も神託が聞こえないなど、それまでは一度もなかったと」
壹与は、自分にもまだ神の声が聞こえていた頃を思い返してみた。
確かに、体調がすぐれない時や心が落ち着かない時など、一時的に神の声が聞こえなくなることはあっても、七日間もまったく聞こえなくなるなど、恋を知るまではなかった。
つまりそれは、一時的な事ではなかったということなのか。
だとすれば、あの時、いったい何が女王の心を乱したのか。
「おそらく、あなたへ対する母としての思いが、あの方の心を占めてしまったのでしょう」
「まさか……」
確かに、あの嵐が起こる少し前、壹与は初めてここで卑弥呼に会った。
姉姫の忘れ形見として連れて来られ、そのまま卑弥呼に引き取られたのだ。
「一度は手放した娘への愛情が、可愛い盛りのあなたを目にして強く芽生えたのでしょう。そう感じたからこそ、私も、あなたをあの方へお返ししたのです」
しかし、壹与のおぼろげな記憶の中に、母としての優しさを感じられる卑弥呼の姿はなかった。
引き取られて以降、女王と面会した覚えは殆どなく、遠くから見かけることはあっても、ただ、いつも凛として近寄りがたい、美しい人であったという印象しかなかった。
もしかしたら、巫女として生きるために、あえて壹与を遠ざけていたのかもしれない。
だが、もし本当に神託が聞こえず、目の前に、命を落としていく民達がいるとしたら…。
自分ならどうするだろうかと、壹与は考えてみた。
そして、出てきた答えに、思わず吐き気を覚え、両手で口元を押さえた。
「まさか、卑弥呼様は……自ら火の中に……」
神以外のものに心を奪われた巫女が、神託を授かるために、最後に差し出せるもの。
それは、自分の命しかない。
卑弥呼が、命と引き換えに、神の言葉を乞うたのだとしたら…。
壹与は、巫女として生きるために、必要な覚悟の大きさを初めて実感し、めまいを感じた。
河内国王は、黙り込んだ娘を見て、はたして真実を語ってよかったのかと自問していた。
十四歳の少女が受け止めるには、あまりに過酷な現実かと思われたが、倭国の女王として生きるためには、身につけなくてはならない覚悟であった。
「卑弥呼様……いえ、お母様のようにはなれないとしても、私も戦に向けて、覚悟を決めなくてはなりませんね」
しばらくして壹与は、涙の乾いた瞳で父を見つめた。
「でも、二人の母に愛されていたのだと思うと、力づけられました」
そう言って壹与は、落ち着いた様子で父に頭を下げ、微かに笑って見せた。
その姿に、一瞬、若き日の卑弥呼の姿が重なり、河内国王はまぶしさに目を細めた。
(ああ、確かにあの方の娘だ……)
河内国王は、回廊の柵に手を掛け、青い空を見上げる娘を見て、心の中でそうつぶやいた。
翌日、河内国へ帰る王が、門へと向かい、従者達と宮廷内の庭を歩いていると、遠くに男鹿の姿が見えた。
彼は張政から譲り受けた鉄の剣を握りしめ、感触を確認するように、素振りをしていた。
遠目にも、その身のこなしから、少年がかなり剣術に優れていることがうかがい知れた。
王は従者をその場に待たせ、少年のそばへ近付いて行った。
王の姿に気が付いた男鹿は、剣を鞘に収め、その場に跪いた。
その額には汗が光り、肩は呼吸に合わせて上下していた。
「魏の剣だな」
男鹿の腰に挿された剣を見て、王は言った。
河内国で新羅の職人に打たせている剣よりも、精巧な細工が美しく、大きな剣だった。
「そなたは、大王をどう思っておる?」
河内国王に聞かれた男鹿は、一瞬目を泳がせたが、すぐに濁りの無い瞳を王に向けた。
「お慕いしております」
「そうか……」
王は穏やかな表情で、少年を見た。
「巫女を愛しても、報われぬぞ」
男鹿は唇を噛み締めて、小さく、しかし力強く頷いた。
「そなたは、なんとしてもあの方を守ってくれ。私は愛する巫女に何もできなかったのでな」
男鹿には、王の愛した巫女が誰なのかわからなかったが、その表情から、大切な者を守れなかった王の悲しみは感じ取れた。
「はい。この命に替えても」
そう答える聡明そうな少年の顔を見て、王は満足気に何度も頷くと、彼に背を向け、従者達のもとへと歩き出した。
その後ろ姿に向かい、男鹿は、姿が見えなくなるまで、深く頭を下げ続けていた。
そして、再び顔を上げた時、彼の目の前には、父を見送る壹与の姿があった。
二人は晩夏のまだ熱い日差しを避け、宮廷の庭にある大きな槻の木陰に、腰を降ろした。
そして、しばし互いの立場を忘れ、恋人同士のように肩を並べて、葉影の間を抜けてくる涼しい風を感じていた。
二人きりで、このような穏やかな時間を過ごすのは、二人が出会ってから初めてかもしれなかった。
壹与は、男鹿に自分の出生の事実を話した。
男鹿は、じっとその話に耳を傾け、ただ黙って頷き続けた。
だが、卑弥呼が自らの命と引き換えに、神託を乞うたかもしれぬと話すと、彼の顔色は一変した。
「もしも今後、そのような局面を迎えたとしても、私が神託に頼らずに解決できる策を考えます。ですから、あなた様は決して、そのような決断をしないでください」
哀し気な表情でそう訴える男鹿に、壹与の瞳から涙がこぼれ落ちた。
嬉し涙だった。
膝に顔を埋めて泣く壹与を、男鹿は隣に寄り添い、優しく見守っていた。
ひととき泣いて、落ち着きを取り戻した壹与が男鹿の方に顔を向けると、すぐそばに少年の涼し気な瞳があった。
そのまま二人は合わせた目と目を離せなくなり、しばらく見つめ合った。
そして、どちらからともなく、頬を寄せ、瞳を閉じて唇を重ねた。
二人にとって、そうすることが、自然なことだった。
「卑弥呼様も、巫女として死ぬ前に、ひとときでも、女として生きたかったんだと思うの。だから、お父様に会いに行ったんだわ」
名残惜しそうに唇を離し、そう言う壹与の瞳が潤んで揺れていた。
「私も……。やっぱり同士としてでは、生きられないかもしれない……」
男鹿は黙って、少女の体を抱き寄せた。
彼の気持ちも、少女と全く同じだった。
「仮に明日、この命を神に捧げることになったとしても、悔いの無いように生きたいの」
二人は、抑えてきた想いを放出させるように、強く強く抱きしめ合った。
「あの日、戦うあなたを見て、大切な人を失うんじゃないかと怖かった……。だから、あなたも無茶しないで」
男鹿は何度も頷きながら、彼女のためなら喜んで死ねると思った。
巫女として命を賭ける覚悟の壹与と、彼女を守るためなら、命を差し出す覚悟の男鹿。
二人に共に歩める未来は無いとしても、その未来を生きて迎えられるかどうかさえわからないのだ。
そう思うと、身分も立場も、どうでもいいような気がしていた。
男鹿はこの時、訪れるかどうかもわからない未来の為に心を偽るよりも、今を正直に生きたいと思った。
「……愛しています」
男鹿の言葉に、壹与の瞳から、一気に涙が溢れ出した。
その言葉を聞けただけで、たとえ明日が来ないとしてもいいと思えた。
そして、彼の言葉に応えるように、一層強く少年の体を抱きしめた。
ふと、何者かの視線を感じた男鹿が顔を上げると、少し離れた場所から、張政が二人の様子を見つめていた。
男鹿は壹与の肩をつかんで体を離し、立ち上がると、彼女に背を向けて張政と向かい合った。
それを見て、張政はゆっくりと二人に近付いてきた。
「張政様、忠告を守れず、申し訳ありませぬ」
男鹿は、身を固くして頭を下げた。
彼はどんな咎めでも受けるつもりだった。
壹与も立ち上がり、男鹿の背の衣をつかみながら、不安そうに異国の老人を見つめていた。
男鹿の目の前で立ち止まった張政は、二人の顔を見比べて、深いため息をついた。
「おぬしも壹与様も、未来に目を向けてはおらぬのであろう。それなら、私からは何も言えぬよ」
同情するような、しかしあたたかいまなざしを、老人は若い二人に向けていた。
「私は、甘い未来への夢に破れ、おぬしらが傷つくのを見たくなかっただけじゃ。それぞれの使命を全うする覚悟があるのなら、もう何も言わぬ」
そう言い残すと、老人は背を向けて去って行った。
残された二人は、呆気にとられたように、言葉を失ったまま、立ち尽くしていた。
「我々も戻りましょう」
しばらく、張政の後ろ姿を見送っていた男鹿は、背後の壹与に声を掛けた。
そして、優しく微笑んで、彼女に手を差し伸べた。
壹与がその手をつかむと、彼は眩しい日差しの中を神殿に向かって早足で歩き始めた。
前を歩く広い背中と、力強く自分の手を引く大きな手を見ながら、壹与は、この手をずっと離したくないと思った。
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