ラスト・シャーマン

長緒 鬼無里

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第二章

第八話 二人の母

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 隣国同士の邪馬台国と河内国とは、交流が深く、年が近かった河内国王と、姉姫えひめと卑弥呼の姉妹とは、幼なじみとして育った。
 そんな中、河内国王は、神秘的な美しさを持つ卑弥呼に、いつしか淡い想いを抱くようになっていた。
 しかし、類希な霊能力を持ち、早くから父である大王の巫女としてまつりごとに関わっていた卑弥呼とは、結ばれるはずもなく、想いを伝えることさえ叶わなかった。

 やがて年頃を迎えた彼に、姉姫との縁談が持ち上がった。
 そしてその時彼は、巫女である限り俗世を捨てる宿命である卑弥呼をあきらめ、姉姫を妻としたのだった。
 父王の片腕として、男勝りに国を動かす卑弥呼に比べ、控えめで大人しい姉姫に、王は癒され、彼女を愛することもできたが、卑弥呼への想いは、いつまでも彼の中でくすぶり続けていた。

 姉姫との結婚から七年が過ぎ、卑弥呼への想いも薄れたと思われた頃、邪馬台国の大王が急逝し、王の腹違いの弟である上筒之男うわづつのおのこが王位を継承した。
 戦好きな新大王のもとで、巫女として仕えることになった卑弥呼の苦労を伝え聞くたび、心が痛み、薄れていたはずの想いが再び甦ってきた。
 しかし、彼女と会うと、妻への裏切りになるような気がして、彼は卑弥呼から距離を置き続けた。

 数年後、国民の不満が限界に達し、上筒之男が暗殺され、卑弥呼が大王に即位することになった。
 即位の儀に王子として出席した彼は、邪馬台国の大王として、君臨する卑弥呼の姿を目の当たりにし、いよいよ手の届かない存在になったのだと自分に言い聞かせた。
 そしてこれからは、卑弥呼への未練を断ち切り、妻である姉姫と向かい合って生きて行こうと、改めて心に誓った。
 だが、その数年後、彼は自らその誓いを破ってしまったのだった。





 その年、父王の死に伴い、彼が河内国の王に即位することとなった。
 その祝いの言葉を述べに、卑弥呼が彼のもとを訪れたのだ。河内国を配下に置く、邪馬台国の女王の方から訪問してくるなど、極めて異例なことであった。
 河内国王は、謁見の間で女王を丁重に迎え、上座へと導いた。水入らずで昔話がしたいという、卑弥呼からの要望で、室内は人払いをしていた。

 姉姫との結婚以来、二人が間近で顔を合わせたのは、十五年振りであった。
 二人とも、もう若くはなかったが、女王の美しさに衰えは感じられなかった。
 卑弥呼が形式的な祝辞を送り、それに対して王が謝辞を述べると、しばらく二人の間に無言の時間が続いた。

「そなたは、なかなか顔を見せてくれぬゆえ、こちらから参りました」

 やがて沈黙を破り、卑弥呼が伏し目がちにそう言った。
 河内国王は、叱られた少年のように、肩をすくめてうつむき、黙って唇を噛み締めていた。
 意図的に女王に会うことを避けていたことを、彼女にも気付かれていたのだと思うと、この上なく気まずかった。

「幼い頃は、兄妹のように遊んだ仲であるのに……。邪馬台の大王となった私とは、もう昔のようには話してはくれませぬのか」

 女王は威厳を崩すことはなかったが、微かに悲し気な表情を漂わせた。
 河内国王は、黙って首を小さく振った。
 十五年もの時を経ても、卑弥呼を前にすると、彼の心は大きく乱れ、彼女の顔をまともに見る事さえできなかった。
 そんな王の姿を、卑弥呼は静かに見つめていた。

「このような運命でなければ、そなたと共に歩めたであろうか」

 小さくつぶやいた卑弥呼の言葉に、思わず河内国王は顔を上げ、女王の瞳を見つめた。
 すると彼女は、頬を赤らめて、素早く視線を彼から逸らした。
 それは、彼が初めて目にした、女王の女としての顔だった。

「つまらぬことを。忘れてください」

 戸惑いながら床の一点を見つめる潤んだ瞳に、河内国王の中の何かが壊れた。
 次の瞬間、王の伸ばした手が卑弥呼の腕をつかみ、そのままの勢いで二人の体は床の上に崩れ落ちた。





 数ヶ月後、邪馬台からの密使により、卑弥呼が懐妊していることを知らされた。
 民達にその事実を伏せたまま、女王は秘密裏に子を生むつもりだという。
 河内国王は、自分のしでかした事の結果の大きさに、胸を掻きむしるほどの罪の意識に苛まれていた。

「卑弥呼の子の父親は、あなたですね」

 妹の懐妊を伝え聞き、姉姫が王にたずねてきた。
 王は妻の顔を直視することもできず、黙って頷くしかなかった。

「あなたが、卑弥呼あのこのことを想っていらしたのは知っています。幼い頃からずっと」

 姉姫は、いたわるような視線を、王に向けていた。

「そして、卑弥呼あのこがあなたを昔から愛していたことも……」

 彼女はうなだれる夫の肩に手を添え、優しく諭すように語りかけた。

「巫女である卑弥呼あのこは、子のやり場に困るでしょう。生まれた子は、私の子として育てます」

 王は目を大きく見開き、妻の顔を見つめた。
 妻は涙を流しながら、微笑んで何度も頷いて見せた。

「体の弱い私は、あなたの子を生めませんでした。でも、私はあなたの妻になれたのですもの。そしてあなたは、私を愛そうと努力してくださった。私一人が、想いを遂げられたのですから、恩返しのつもりで、大切にお育てします」

 思わず河内国王は、姉姫を力いっぱい抱きしめた。
 申し訳なさと、妻の愛情の深さに、涙が止まらなかった。

「すまない……」

 子どものように、自分に寄りかかりながら泣く夫の背中を、姉姫はいつまでも優しく摩り続けていた。





「そうして姉姫は、亡くなるまであなたを我が子のように可愛がり、育ててくれたのです」

 父から自分の出生の事実を聞いた壹与いよは、両手で口元を覆いながら、必死に気持ちの整理をしようとしていた。

「でも、卑弥呼様には神託が聞こえていたわ。お父様を愛しておられたなら、私のように……」

 壹与は、女王の審神者さにわであった月読つくよみから、彼女には神の声が聞こえなかったなどと、聞いた事がなかった。
 何より卑弥呼は、誰に聞いても、俗世とはかけ離れた、崇高な存在に見えていたと言う。
 とてもそんな熱い想いを抱えていたなど、信じられなかった。

「それがあの方の、人間離れした精神力であったのでしょう。あの方は、決して自分を見失うことはなかった。もしくは、私の存在は、あの方にとって、心を埋め尽くすほどではなかったのかもしれませぬ」

 河内国王は、せつな気に微かに笑ったが、ふと思い出したように付け加えた。

「しかし以前、月読様にこのことをお話した時、最後の神託だけは、様子が違ったとおっしゃっていました」

「最後の神託……」

 それは、七日間続いた嵐をおさめるため、卑弥呼が祈祷をし続け、命を落とした時下された神託のことだ。

「七日間も神託が聞こえないなど、それまでは一度もなかったと」

 壹与は、自分にもまだ神の声が聞こえていた頃を思い返してみた。
 確かに、体調がすぐれない時や心が落ち着かない時など、一時的に神の声が聞こえなくなることはあっても、七日間もまったく聞こえなくなるなど、恋を知るまではなかった。
 つまりそれは、一時的な事ではなかったということなのか。
 だとすれば、あの時、いったい何が女王の心を乱したのか。

「おそらく、あなたへ対する母としての思いが、あの方の心を占めてしまったのでしょう」

「まさか……」

 確かに、あの嵐が起こる少し前、壹与は初めてここで卑弥呼に会った。
 姉姫の忘れ形見として連れて来られ、そのまま卑弥呼に引き取られたのだ。

「一度は手放した娘への愛情が、可愛い盛りのあなたを目にして強く芽生えたのでしょう。そう感じたからこそ、私も、あなたをあの方へお返ししたのです」

 しかし、壹与のおぼろげな記憶の中に、母としての優しさを感じられる卑弥呼の姿はなかった。
 引き取られて以降、女王と面会した覚えは殆どなく、遠くから見かけることはあっても、ただ、いつも凛として近寄りがたい、美しい人であったという印象しかなかった。
 もしかしたら、巫女として生きるために、あえて壹与を遠ざけていたのかもしれない。
 だが、もし本当に神託が聞こえず、目の前に、命を落としていく民達がいるとしたら…。
 自分ならどうするだろうかと、壹与は考えてみた。
 そして、出てきた答えに、思わず吐き気を覚え、両手で口元を押さえた。

「まさか、卑弥呼様は……自ら火の中に……」

 神以外のものに心を奪われた巫女が、神託を授かるために、最後に差し出せるもの。
 それは、自分の命しかない。
 卑弥呼が、命と引き換えに、神の言葉を乞うたのだとしたら…。
 壹与は、巫女として生きるために、必要な覚悟の大きさを初めて実感し、めまいを感じた。
 河内国王は、黙り込んだ娘を見て、はたして真実を語ってよかったのかと自問していた。
 十四歳の少女が受け止めるには、あまりに過酷な現実かと思われたが、倭国の女王として生きるためには、身につけなくてはならない覚悟であった。

「卑弥呼様……いえ、お母様のようにはなれないとしても、私も戦に向けて、覚悟を決めなくてはなりませんね」

 しばらくして壹与は、涙の乾いた瞳で父を見つめた。

「でも、二人の母に愛されていたのだと思うと、力づけられました」

 そう言って壹与は、落ち着いた様子で父に頭を下げ、微かに笑って見せた。
 その姿に、一瞬、若き日の卑弥呼の姿が重なり、河内国王はまぶしさに目を細めた。

(ああ、確かにあの方の娘だ……)

 河内国王は、回廊の柵に手を掛け、青い空を見上げる娘を見て、心の中でそうつぶやいた。





 翌日、河内国へ帰る王が、門へと向かい、従者達と宮廷内の庭を歩いていると、遠くに男鹿おがの姿が見えた。
 彼は張政ちょうせいから譲り受けた鉄の剣を握りしめ、感触を確認するように、素振りをしていた。
 遠目にも、その身のこなしから、少年がかなり剣術に優れていることがうかがい知れた。
 王は従者をその場に待たせ、少年のそばへ近付いて行った。
 王の姿に気が付いた男鹿は、剣を鞘に収め、その場に跪いた。
 その額には汗が光り、肩は呼吸に合わせて上下していた。

「魏の剣だな」

 男鹿の腰に挿された剣を見て、王は言った。
 河内国で新羅の職人に打たせている剣よりも、精巧な細工が美しく、大きな剣だった。

「そなたは、大王をどう思っておる?」

 河内国王に聞かれた男鹿は、一瞬目を泳がせたが、すぐに濁りの無い瞳を王に向けた。

「お慕いしております」

「そうか……」

 王は穏やかな表情で、少年を見た。

「巫女を愛しても、報われぬぞ」

 男鹿は唇を噛み締めて、小さく、しかし力強く頷いた。

「そなたは、なんとしてもあの方を守ってくれ。私は愛する巫女に何もできなかったのでな」

 男鹿には、王の愛した巫女が誰なのかわからなかったが、その表情から、大切な者を守れなかった王の悲しみは感じ取れた。

「はい。この命に替えても」

 そう答える聡明そうな少年の顔を見て、王は満足気に何度も頷くと、彼に背を向け、従者達のもとへと歩き出した。
 その後ろ姿に向かい、男鹿は、姿が見えなくなるまで、深く頭を下げ続けていた。
 そして、再び顔を上げた時、彼の目の前には、父を見送る壹与の姿があった。





 二人は晩夏のまだ熱い日差しを避け、宮廷の庭にある大きな槻の木陰に、腰を降ろした。
 そして、しばし互いの立場を忘れ、恋人同士のように肩を並べて、葉影の間を抜けてくる涼しい風を感じていた。
 二人きりで、このような穏やかな時間を過ごすのは、二人が出会ってから初めてかもしれなかった。
 壹与は、男鹿に自分の出生の事実を話した。
 男鹿は、じっとその話に耳を傾け、ただ黙って頷き続けた。
 だが、卑弥呼が自らの命と引き換えに、神託を乞うたかもしれぬと話すと、彼の顔色は一変した。

「もしも今後、そのような局面を迎えたとしても、私が神託に頼らずに解決できる策を考えます。ですから、あなた様は決して、そのような決断をしないでください」

 哀し気な表情でそう訴える男鹿に、壹与の瞳から涙がこぼれ落ちた。
 嬉し涙だった。
 膝に顔を埋めて泣く壹与を、男鹿は隣に寄り添い、優しく見守っていた。
 ひととき泣いて、落ち着きを取り戻した壹与が男鹿の方に顔を向けると、すぐそばに少年の涼し気な瞳があった。
 そのまま二人は合わせた目と目を離せなくなり、しばらく見つめ合った。
 そして、どちらからともなく、頬を寄せ、瞳を閉じて唇を重ねた。
 二人にとって、そうすることが、自然なことだった。


「卑弥呼様も、巫女として死ぬ前に、ひとときでも、女として生きたかったんだと思うの。だから、お父様に会いに行ったんだわ」

 名残惜しそうに唇を離し、そう言う壹与の瞳が潤んで揺れていた。

「私も……。やっぱり同士としてでは、生きられないかもしれない……」

 男鹿は黙って、少女の体を抱き寄せた。
 彼の気持ちも、少女と全く同じだった。

「仮に明日、この命を神に捧げることになったとしても、悔いの無いように生きたいの」

 二人は、抑えてきた想いを放出させるように、強く強く抱きしめ合った。

「あの日、戦うあなたを見て、大切な人を失うんじゃないかと怖かった……。だから、あなたも無茶しないで」

 男鹿は何度も頷きながら、彼女のためなら喜んで死ねると思った。
 巫女として命を賭ける覚悟の壹与と、彼女を守るためなら、命を差し出す覚悟の男鹿。
 二人に共に歩める未来は無いとしても、その未来を生きて迎えられるかどうかさえわからないのだ。
 そう思うと、身分も立場も、どうでもいいような気がしていた。
 男鹿はこの時、訪れるかどうかもわからない未来の為に心を偽るよりも、今を正直に生きたいと思った。

「……愛しています」

 男鹿の言葉に、壹与の瞳から、一気に涙が溢れ出した。
 その言葉を聞けただけで、たとえ明日が来ないとしてもいいと思えた。
 そして、彼の言葉に応えるように、一層強く少年の体を抱きしめた。



 ふと、何者かの視線を感じた男鹿が顔を上げると、少し離れた場所から、張政が二人の様子を見つめていた。
 男鹿は壹与の肩をつかんで体を離し、立ち上がると、彼女に背を向けて張政と向かい合った。
 それを見て、張政はゆっくりと二人に近付いてきた。

「張政様、忠告を守れず、申し訳ありませぬ」

 男鹿は、身を固くして頭を下げた。
 彼はどんな咎めでも受けるつもりだった。
 壹与も立ち上がり、男鹿の背の衣をつかみながら、不安そうに異国の老人を見つめていた。
 男鹿の目の前で立ち止まった張政は、二人の顔を見比べて、深いため息をついた。

「おぬしも壹与様も、未来に目を向けてはおらぬのであろう。それなら、私からは何も言えぬよ」

 同情するような、しかしあたたかいまなざしを、老人は若い二人に向けていた。

「私は、甘い未来への夢に破れ、おぬしらが傷つくのを見たくなかっただけじゃ。それぞれの使命を全うする覚悟があるのなら、もう何も言わぬ」

 そう言い残すと、老人は背を向けて去って行った。
 残された二人は、呆気にとられたように、言葉を失ったまま、立ち尽くしていた。




「我々も戻りましょう」

 しばらく、張政の後ろ姿を見送っていた男鹿は、背後の壹与に声を掛けた。
 そして、優しく微笑んで、彼女に手を差し伸べた。
 壹与がその手をつかむと、彼は眩しい日差しの中を神殿に向かって早足で歩き始めた。
 前を歩く広い背中と、力強く自分の手を引く大きな手を見ながら、壹与は、この手をずっと離したくないと思った。
 未来は見えなくても、今この瞬間、壹与は幸せだった。
 今はそれだけで充分だった。
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