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最終章

お誘いと転機 キャロル16歳

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 アレックス王子の決断にユーグが満足げに唇をなめてから、一山分の書類束を従者に片付けるように指示する。
 誰もが半信半疑だった私の報告を信じ、赤い髪の男の調査をしてくれたユーグ。精霊の子の治療術式、古式文字の解読、大崩落に関わる調査。多くの功績でシュレッサーの中でも、彼は既に重要な位置に立っている。

 一つの書類を手に取った途端、年齢より大人びた横顔が私を見つめる。金色の目が少し困ったような色を浮かべ別の書類に手を伸ばして取り出す。

「次ね。三度と言われてる大崩落だけど、古式の解読からずっと以前から繰り返し起きてる事が分かったよ。魔物の王が現れるのは二百年に一度で、間の百年に一度の崩落は大きいけど魔物の王はいない。一度目の崩落より以前には魔物の王と対峙する白い神の存在が語られているのに、二度目からは消えてエトワールの泉の伝説が登場する」

 ユーグが私たちを見渡す。繰り返される崩落の歴史。魔物の王と対峙した白い神は何故姿を消したのか。エトワールの泉は何故うまれたのか。

――王家の者に愛して愛される乙女に、エトワールの泉が応えて力となる。

 ルナは確かにそう言った。聖女シーナが愛するアルノルフ王の為に、エトワールの泉で祈りを捧げ、戦場に祝福が降り勝利をおさめるのは物語で有名だ。

「白い神……消えた事とエトワールの泉にはやはり関わりがあるのか?」

 クロードの問い掛けに、ユーグが頷く。

「ある文献では、白い神が人に力を与える為に泉を創ったと記されている。コーエンで見つけた壁画は、白い神がエトワールの泉に姿を変える様が描かれていた。壁画には泉の横に王冠を抱く女神の魔力印を持つ男も書かれていて、今の王族が力を託されたとシュレッサーは解釈しているよ」

 アレックス王子とカミュ様が互いの顔を見合わせ、それぞれ左胸にそっと手を当てた。
 王家の女神、シュレッサーのランプ、ヴァセランの剣、アングラードのブルレーデ。ジルから教えてもらった魔力印学で学べる有名な一族の意匠だ。二人の胸には王家の証として女神の印が記されている筈だ。

 部屋をノックする音が響いて、ギデオン入室する。

「そろそろ時間になりますが、いかが致しますか?」

 窓の外はもう夕暮れだった。話し出せば尽きなくなるから、迎えの馬車が来る夕暮れを目安に切り上げるようにしていた。
 まだ聞き足りない事が残っている所為か物足りない表情で、殿下が口を開く。

「今日は少し伸ばすか?」

 問いかけに、胸に手を当てたまま目を閉じていたカミュ様が首を振る。

「本日は終わりに致しましょう。今の件は私が調べている事と照らし合わせたいので、報告は改めてにさせて頂きたいと思います」

 エトワールの泉とシーナ王妃の件は、ユーグとカミュ様が別々の方向から調べている。カミュ様は王家のみに伝わる伝承を中心に請け負っていた。

「え? 何かあったっけ? あるなら伸ばそうよ。僕的には今すぐ聞きたいし?」

 謎があれば聞かなければ気のすまないユーグが尋ねると、穏やかな笑みを浮かべてカミュ様が返す。

「ユーグ、コーエンの壁画の件を私は初めて耳にしました。なぜ、王家に報告がないのでしょうね?」

 その言葉にユーグの表情が固まって、珍しく目を泳がせた。逸らすことないカミュ様の視線に、ユーグが根負けしたように小さなため息をついて、今度は艶のある笑顔を向ける。

「前に吹き飛んだコーエンの洞にあったから……ね?」

「ね? の意味がわかりません。ユーグは、残ってゆっくり私とお話を致しましょうね。壁画の詳細と過去の後始末を先にゆっくり、貴方が知りたい事はその後です」

 カミュ様の底冷えするような笑顔に、ユーグが助けを求めて私たち視線を向ける。
 怒れるカミュ様が怖い事は私たちはもう十分に知っている。だから、今日のユーグに差し伸べられる手は残念ながら一つもない。
 
 そっと周りを見回す。カミュ様の話の切り上げが、少し強引なのが気になったからだ。
 ルナの言葉が私の頭をよぎる。

――聖女を探して愛し愛されて下さい。

 話すべきではないと切り上げた理由が、それに関する事なのか。

――まだ貴方と教会の皆の前ではルナでいたい。

 誰かを思っての事なのか。

 アレックス王子もカミュ様を訝し気に見つめていたけど、その視線がカミュ様と重なる事は無かった。
 
「……わかった。では、これで終わろう。ご苦労だった」

 アレックス王子の言葉を合図に、各自が従者に命じて帰りの支度を始める。

 ユーグだけはカミュ様に捕まってお説教が始まった。いつも通り抱き着いて謝るユーグと、すっかり慣れて顔色を変えずに叱責を続けるカミュ様の姿に、クロードとドニと私は苦笑いして部屋を出る。

 部屋を出た後に話題になったのは魔力印の話だ。

「魔力印学はちょっと興味がありました」

「俺は遠慮する」

「僕は去年は取ってたよー」

 首をひねったクロードの横で、勢いよくドニが手を上げる。

「壁画は王冠を抱く女神ってユーグは言ってたねー。ちょっと条件が厳しそう」

「そうなんですか?」

 私の問いかけにドニが頷く。得意の講義だったのか、ドニが僅かに胸を張る。

「あのね。魔力印の意匠は一族を示す以外にも意味があるの。資格だったり、その人の人生だったり、性格だったり。なかなか人の魔力印って見る機会がないけど、公開されたものと持ち主の人生を照らし合わせると成程って思うんだよ」

「俺は一族には剣がつくぐらいのものだと思っていた」

 クロードの言葉にドニが楽しそうに笑う。印と人の人生の関りはジルも話してくれた。ジルの場合は、旅芸人などで各地に足跡を残したから風紋なのだと思うと説明してくれた。

「ふふ。メインのデザインも大事だけど、周りを飾るデザインも大事! メインの印紋だと、殿下やカミュ様の女神、クロードの剣、ノエルの狸、それから僕の――」

「お待ちください。お話を遮り申し訳ありません。後ろから、どなたかが追ってらっしゃっております」

 ドニの言葉の遮ったジルの言葉に立ち止まって耳を澄ませば、確かにこちらに向かって駆けてくる足音が聞こえた。
 すぐに角から慌てたようにアレックス王子が姿を現す。 

「ああ、追いつけた! ノエル、確認したいことがあるんだ」

 書類をもって手招きされたので、クロードとドニに先に帰るように言ってから駆け寄る。
 手にしている書類は、随分前に終わっている書類なので首を捻る。

「それ終わった書類です。まさか、今さら不備ですか?」
 
「君は相変わらず時々失礼だね。この書類はたまたま手近にあっただけだよ」

 そう言っていつも通り、私の頬に手を伸ばす。僅かに力を込めて頬を押すのだけど、今日の表情は固い。その様子に、促すような視線を向ければ困ったように微笑む。

「カミュに頼まれて、ルナの教会に話を聞きに行く事になった。お忍びで私なら下町にも何度もいっているからね」
 
 アレックス王子はカミュ様の離宮に向かう途中、度々お忍びで街に降りている。あのバルコニーの屋根から見つけた景色を自分の目で確かめるためだ。
 お忍びに行った翌日に、私達にお菓子をくれることもある。

「にゃ、にゅか、おひゅらべしましゅか?」

 普段と違う様子に思わず身を固くして尋ねるけど、潰された頬のお陰で今日も話しにくい。  
 くすりと私を見て笑ったのに、また表情を硬くしてしまう。言葉を迷うように、髪を掻き上げて頭を掻く。それから、口を開こうとして、閉じると僅かに頬を上気させて口元を手で覆ってしまった。いつにない様子に思わず私は目を瞬く。

「君も来るといい」

 やっとの様子でアレックス王子が耳まで赤くして言ったのは一言だ。
 言葉の意味の本当の先に気付く。多分、これはデートのお誘いだったりするのだと思う。
 でも、今日の私は涼しい顔で返事を返す。

「わかりました。お供します」

「いや、お供じゃなくて……」

 どきどきさせられて意地悪だと思う側はいつも私。
 赤い顔で口元を覆って途方に暮れるアレックス王子に、たまには私が意地悪だと思われてみたいと悪戯心が湧いていた。

「大切な用事に行くんですよね? それに付き従うのはお供というのです」

 つんと澄まして、大好きな人を見つめる。口を覆った手が、困ったようにまた金の髪を掻き上げると綺麗な眉が寄せられている。滅多にない困った顔が特別可愛く思えて、緩みたくなる頬に私はぐっと力を入れなおす。
  
「教会には行くが、その後は時間がある。お忍びだから、ギデオンしかつれていかない。君の送り迎えはきちんとする。だから、ジルにも休暇を出すといい。……君、分かってるよね?」

 甘い疑いを含んだ紺碧の目が私の視線と重なると、肩を掴んで耳元に口を寄せる。

「二人だけで出掛けよう」

 抑えた声に滲み出る熱に、最後に負けるのはやっぱり私。
 唇を寄せられた耳がとても熱くなって、掛けられた吐息に体が沸騰する。
 耳から顔を上げる瞬間にアレックス王子が私の瞳の中を覗いて、答えを返すより先に答えを見つけて嬉しそうに笑う。丸めた書類で私の頭を一度軽い調子で叩く。

 踵を返した背を、取り繕えずに赤くなった顔で見送る。覗き込んだ時の最後のきらきらした笑顔は本当にズルいと思う。
  

 その日の夜、各領地の安全政策の資料を借りる為に早速、父上の書斎を尋ねる。
 既に湯あみも済ませた父はくつろいだ姿で、お茶を飲みながら書類に目を通しているところだった。
 安全施策の事を切りだせば、今日の話し合いについて色々聞かれる。
 ジルベールの話のところで僅かに眉を寄せたのは、父上たちもその存在を気にかけているからだろう。
 クレイが安全施策の書類束見つけて運んでくれる。

「殿下は安全施策か」

「はい! アレックス殿下は人を大切にするのです!」

 私の回答に父上が微妙な表情を浮かべた。私は良い視点だと思ったのだが、中央から見ると甘さがあるのだろうか?

「父上、あんまりでしたか?」

「別にー。そこに文句がある訳じゃないよ。王が民を省みるのはいい事だと思う。で、私の送った花とメッセージは殿下にちゃんと届いたかい?」

「はい! 有難うございました。殿下が皆の前で読み上げてくれてました。健全な学びを頑張ります」

「ノエルはいい子だね」

 父上が満面の笑顔で頷くと、クレイが隣で吹き出す。

 温かい紅茶も出されていたので、ゆっくりと今日は父上の書斎で書類に目を通していく。
 領地によって差異はあるが、魔物向けの結界はどの村も用意されていた。私の好きな崖の村も領主の館が強固な結界になっている。

「我が家は村の位置を移動してるので、以前より避難に時間がかかります」

「ああ。その件については、集会場に今は私兵が常駐しているから問題はないだろう」

 小さな村だから私兵に守られていれば避難は可能だろう。でも、万全を考えるなら他にも策がある。

 その策を父上が取らない理由は、崩落後の復興予算を残す為だと思う。納得するけど、微妙な気持ちだった。
 私の表情に気付いた父上が机に片肘をついて手に顔を乗せて笑う。

「より守れるのに、守らないのは納得がいかない?」

「うーん。納得がいかないと言うより、割り切れないのです。限られた中で最善の選び方は違うのは理解できるのですが……」

 歯がゆい。してあげたいのに、してあげられない。理由に納得しているのに、割り切れない。胸がもやもやしてしまう。溜息を洩らした私に父上が目を細める。

「昔、たくさん悩んで居場所を見つけないさい、と言ったのは覚えているかな?」

「はい。私、大切な居場所が今はたくさんあります!」

 大好きな人の場所、仲間の場所、家族の場所、戦う場所、許してくれる場所。どれも泣いて、笑って見つけてきた場所だ。
 思うと心が温かくなって、そっと胸を抑える。

「なら、これからの君は居場所から未来を切り開く時だね。理想があって、現実がある。悩みは生涯尽きないけど、居場所があるなら強く君らしく進めるはずだ。有限の中でも、無限の中でも、自分の答えを見つけて進めるようになりなさい」

 父が楽しそうに目を細める。大人の余裕を湛えた笑顔に年齢を重ねても社交界で騒がれるのが分かる気がした。

「レオナール様は大分迷走されておりましたけれどね……」

 クレイの小さな呟きが落ちて、肩を竦めて父上が苦笑する。
 迷走する父上の話を聞きたくて口を開けば、逃げるように明るい声を父上が上げる。

「ソレーヌの所にお医者様が来て、いつ生まれても良い時期に入ったと言ったそうだよ!」

 出かける前に私が母上の所に寄って、帰宅の前に父上が寄る。週末の夜は時々家族で別邸で過ごす。去年からの私たちの習慣。

「楽しみです! 男の子でしょうか? 女の子でしょうか?」

「どちらでも嬉しいね! ノエルはどちらがいい?」

「うーん。女の子だったら全力で守ります! 男の子だったら全力で鍛えます! どちらでも歓迎です」

 この話題になると私と父上の顔には締りというものが一切なくなる。髪の色から瞳の色まで想像しあって会話が途切れる事はない。
 父は私そっくりの子が希望で、私は父上の髪の色に母上の瞳がいいと思っている。
 気の早い私と父上は、生まれた後に何をプレゼントするかまで話が転がっていく。来年はどちらが良いプレゼントを用意できるか争う事になるだろう。

 話が一段落したところで、父上が私を手招きした。側に行けば、私の頭を髪がぐしゃぐしゃになるまで撫でてくれる。

「生まれたら母……バルバラおばあ様がこちらに遊びに来るそうだ。ノエルに久しぶりに会えるのを楽しみにしていると手紙が返ってきた」

 言葉から父上がバルバラおばあ様にお誘いの手紙を出したのだろう。アングラードのおじい様の名がないのは残念だけど、我が家とアングラードの祖父母との雪解けは確かに始まったのだ。
 微笑んだ私に父上が微笑み返す。

「今を作ってくれたのはノエルだと私は思っている。だから、君も必ず幸せになるんだよ」

 お父様の意志を変えられる人は今のアングラードにはいない。でも、あの頃なら父の意志は通らなかった。
 生まれなかった筈の命が生まれる。父上が言ってくれた通り、私の決断が今の幸せを作ったなら、生まれてくる命は最高のご褒美だと思う。

 我が家の未来は確かに変わった。なら、それはいつ?

「父上は母上を失っていたら世界を嫌いになりましたか?」

 私の質問に父上が目を見開く。自分が出した答えだけど、目の前にいる父上が悪役になる姿は想像がつかなかった。私の真剣な表情に父もまじめな顔で考え込む。

「ソレーヌを取り戻す為なら、全力を尽くしていたと思う」

「どんな悪い事でもしますか?」

 極端な問いかけに苦笑いで父上が言い切った答えは、嬉しい言葉だけど結論を揺るがすものだった。

「悪い事はしない。ソレーヌを愛しているけど、君の事も愛しているから。大事な君に重いものを背負わす事はできないよ。もしもの世界があったなら、私の願いは君とソレーヌとの幸せな日々を取り戻すことだ。罪を背負う真似はしないさ」

 今と過去の状況が違うから、答えが希望に満ちているのか。
 キャロルとしての日々の温かさと幸せさを思えば、取り戻したいから悪い事は出来ないという言葉には説得力があった。

 シナリオの父はキャロルを愛していなかったのか?
 罪を共に背負わすことに躊躇いはなかったのか?
 それは、いつから?

 父上にお礼を言ってから書斎を退出する。
 エントランスホールに降りて、厨房に向かう廊下の前で立ち止まると、訝しむようにジルが私を見つめた。

「ノエル様、ここで何かなさるのですか?」

「クレイを待ちます。父上の昔の話が聞きたいんです」

「先程も旦那様に色々お尋ねでしたね。何か気になる事がございましたか?」

 ドニがジルベールの話をしていた時、ジルは私のお茶を入れなおす為に部屋にいなかった事を思い出す。
 
「ドニがジルベールが変わったと言いました。問題のある人だけど、一生懸命な所もあって、愛した人もいて、悪い人じゃなかったそうです。何が人を変えてしまうんでしょうか? 父上にも変わってしまう転機があったか知りたいんです」

 ジルからの返事はなかった。じっと考え込んだ瞳が僅かに陰って慌ててその腕を掴む。

「ジル?」

「……すみません。つい考え込んでしまいました。クレイは旦那様のに仕えた理由を、善でも悪でも名を残しそうで面白いと思ったと申しておりました。私も大きく人生を変えた人間ですから、人というのは良くも悪くも、変わるのだと私は思います」

 弾かれる様に私を見つめた後、ジルは寂しそうに笑ってそう言った。

 書斎の扉が静かに開く音がして、私の茶器を乗せたトレーを持ったクレイが階段を下りてきた。
 無駄のない所作で、穏やかな微笑みを浮かべて私に一礼する。

「待ち伏せですか? 一日で一番穏やかな時間に、大変面倒でございます。手短にお願い致しますね」

 その言葉に思わず私は顔を顰める。外では失敗をしない最高の執事と評価を受ける彼は、家では本音が駄々洩れになる。彼の場合、外では言いたいことを絶対我慢しすぎてるせいだと私は思う。

「手短ですね? 貴方が出会った頃の父上は悪い人になりそうでしたか?」

「おや、面白い! 私にしか答えられない問いでございますね。トレーの片づけをジルにお願いできるなら、お答え致しましょう!」

 ちゃっかりジルにトレーを押し付けると、昔を思い出したのかクレイが小さく吹き出す。

「私の出会った頃は、頭も人あたりも良く、信念と強い自分をお持ちの方でした。でも、悪く言えば、狡猾で、ヘラヘラしており、猜疑心が強く、傷のある方でした。ソレーヌ様に出会い、貴方が生まれて悪い面はずっと減りましたね。以前なら、悪人になってもおかしくない面も確かにお持ちでしたよ」

 クレイから見ると、父上に悪い人になる資質はあったようだ。でも、母上に出会う前の話。
 やはり時期に祖語が出てしまう。
 
「父上の抱えていた傷ってなんですか?」

 穏やかな笑みの奥に鋭い光が灯って私をじっと見つめる。惚れ惚れする程、切れのある従者の礼をクレイが取る。

「トレーの返却でお話できるのは、ここまででございます。私の旦那様への印象を語る事はできましても、旦那様自身について語るのは執事に許される領域を超えます。では、これで失礼させて頂きます」

 踵を返すと隙のない姿勢でクレイが階段を登っていく。階段の途中で歩みを止めて振り返ると、意地悪で楽しそうな笑顔を浮かべる。

「早く寝ないとお肌が荒れて、太るそうですよ! おやすみなさいませ、お坊ちゃま」

 その言葉に思わず心の中で舌打ちをする。アングラード最高の執事は無駄な一言が多すぎる。



 部屋に戻ると湯あみを済ませてから、ベッドに転がる。

 この世界で未来が変わった事には、シナリオと違う行動を始めた自分が関わってる気がした。
 でも、答えが合わない。推測は間違っていない確信があるのに、何かが抜け落ちてる。
 
 考えなきゃいけない事は他はたくさんある。ルナの事も、ジルベールの事も、そして聖女の存在も。
 でも、我が家の転機に重要な意味がある気がして、そればかりを考えてしまう。
 
 ドアがノックされる音が響いて身を起こす。
 湯あみが済んだ頃に、お茶を持ってくると言っていたからジルだろう。 

「どうぞ、大丈夫です」

「失礼いたします。今日は珍しい蜜がございましたので、そちらを使ってご用意致しました」

 枕もとのテーブルに置かれたカップからはいつもと違う良い香りがした。
 口を付けると、僅かに花のふくよかな香りと甘さが広がる。

「美味しいです。なんの蜜ですか?」

「イリタシスの花の蜜だそうです。あの国は食文化にもこだわりが強いですから」

 お茶を飲みながら、いつも通り思いついた事を口にしていく。自分の考えや知った事を整理するだけの呟きなのを知っているジルは、口を挟むことなく私が話しやすい程度の相槌をくれる。

「ジルは、父上の傷に心当たりはありますか?」

 問いかけてに少し考えてから、ジルが口を開く。

「傷に繋がっているのかは存じませんが、旦那様は剣を決してお持ちになりません。強い闇魔法がお使いになれますから必要ではないとおっしゃいます。しかし、式典すら帯刀なさらないのは非常に珍しい気が致します」
 
 お父様は剣を一つも持っていない。
 私の剣の稽古に誘っても、お父様が来ることは決してない。いつも、女性に向ける剣はないとか、魔法の方を教えてあげようと言って誤魔化す。

 父上の弟の事も関係あるのだろうか。九歳の時に父上の弟が亡くなったのを聞いた後、何人かに尋ねたけれども誰も詳細を知らなかった。父上には聞きづらくて直接聞いたことはない。

 誰かに聞ければいいのだけれど、クレイには断られてしまったし、お母様は出産前で悲しい話はさせたくない。迷っているとジルが申し訳なさそうに口を開いた。

「ノエル様。お話を変えて申し訳ございませんが、一つお願いをさせて頂いても宜しいですか?」

 ジルから改まってお願いされるのはとても珍しい。叶えられる事は叶えてあげたいと思って、笑顔で話の先を促す。

「殿下よりお誘いがあった日ですが……お言葉通りお暇を頂きたく存じます」
 
 穏やかに微笑んでジルが言った言葉に、私はどんな表情を浮かべれば良いか分からなかった。

 ジルがお休みを取ったのは大怪我をした時だけだ。それ以外は、お休みはいらないと側にいてくれた。
 だから、殿下はジルに暇をと言っていたけど、いつも通りジルを一緒に連れて行くつもりではあった。

「殿下が言ったからといって、無理に暇をとらなくても大丈夫ですよ?」

 いてくれたら嬉しい、いつもなら自然に出る言葉は飲み込んでしまう。

 舞踏会の日は私が中で待機していると言って、アレックス王子の護衛と従者はドアの外でジルが止めてくれた。でも、ギデオンは私だけでは不安と譲らず、ジルが中庭に入る事になったらしい。
 「星を数えていたから、安心してください」とジルは執事らしい笑顔でフォローしてくれた。
 最初にいてくれたのは知ってた。ずっとなのは考えてなくて、私はとても恥ずかしかった。

 いつものように来てと言わない私の逡巡を見透かすように、小首を傾げてジルが微笑む。

「……今回はお暇を頂きます。モーリス様がご退官を決められたそうです。贈り物を差し上げたいと思っておりましたので、買い物にでも行こうと思っております」

 おじい様が退官される話は初耳だ。
 驚きを隠せない私の顔見て、悪戯っぽい瞳で唇の前に小さく指を立ててジルが笑う。

「まだ、ご内密にしておいてくださいませ。レオナール様はお仕事上ご存知でしょうが、ソレーヌ様やピロイエ家の奥様はご存じないと思います。部隊でも引継ぎについての話が始まったばかりです」

 ジルは情報をおじい様の部隊にいた頃の仲間から聞いたのだろう。
 普段、自分の事はあまり話さないジルにも、連絡を取り合う仲間がいる事に安堵する。

「ふふっ、おじい様は退官するのが寂しくて、言い出せないのですね」

「ええ。あの方は仕事熱心ですから、もう少し心の整理がついてからお話されるのだと思います。私にとってモーリス様は関わる事のなかった実の父より、父と慕わせて頂いた方です。心を込めて退官のお祝いの品を選んで参りたいと思います」

 ならば今度一緒に買いに行きましょう、また言葉を飲み込む。

 あの日、一歩を踏み出す優しい風を送ってくれたのはジルで、祝福する風を送ってくれたのもジルだ。
 感謝しているし、嬉しかった。ジルが私の一番の理解者だと分かっている。
 
 だけど、アレックス王子と一緒にいるのをジルに見られるのは恥ずかしい。

 見つめる先の、優しい笑顔も高い背もきちんとした執事服もずっと変わらない。
 変わらない人がそこに変わらずいてくれるのに、いつもと違う選択肢を選ぶ自分に居心地が悪い。 

「では、その日は私の事を忘れて、自分の時間を楽しんで下さいね! 前の部署の方と一緒にお酒を飲みに行ったりもできますよね? たまには羽を伸ばして大人の時間です! ジルにもジルの場所がちゃんとあります。それってすごく良い事です。私も安心なのです。ゆっくり一日を楽しんで下さい」

 喋り出したら、自分の違和感を覆い隠すように見知らぬ言葉がたくさん滑り出た。
 言葉を重ねる程、ジルは困った顔になっていった。そして、言葉を重ねる程に自分も笑顔が消えていくのが分かった。

 カップをサイドテーブルに置いて、慌ててベッドに横になると頭までケットを引き上げる。

「もう寝ます。ジル、おやすみなさい」
 
 胸がチクリと痛む。転機を迎えて、人は変わる。私もどこかで変わるのか。
 アレックス王子のお誘いは嬉しくて幸せで、二人になりたいと思う。でも、ジルに暇を出す事は寂しくて、悪い事の気がしてしまう。
 大好きな居場所ができて、大切な居場所を離れる日が来るのだろうか。何故だか泣きそうになった。

 カップをトレーに乗せる気配がして、足音が遠ざかる。部屋の電気が消えて、静かにドアが開く音がした。

――有限の中でも、無限の中でも、自分の答えを見つけて進めるようになりなさい

 慌ててケットを捲り上げて叫ぶ。
 間違えた気がするなら、直せばいい。誤魔化さないで、本当の事を伝えればいい。

「ジル! 一緒に来てほしいけど、ジルは私にとってお兄さんだから、好きな人と一緒なのを見られるのが恥ずかしいんです! 今回はお休みだけど、次からはまた一緒です! あと、おじい様のプレゼントは、別の日に一緒に買いに行きましょう! 約束です!」

「はい。おやすみなさいませ、ノエル様」

 柔らかい風が私の髪をそっと撫でて、閉じかけたドアの向こうでジルが優しく笑ってくれたのが分かった。
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