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最終章

黒いリュウドラと大切な人 キャロル17歳

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 真っすぐに謁見室に向かって走ると、側に居た騎士が一人、また一人と謀反騎士を抑えるために離れていく。彼らが強いと分っていても、数の差が生む負担は大きい。
 度々、振り返る私の手をマクシム伯父様が掴む。

「信じなさい。彼らも近衛の名を持つ騎士だ」

 マクシム伯父様の言葉に返事をする様に、数人の黒の近衛が軽く手を上げた。

「まるで聞こえているみたいです」

 絶妙なタイミングに呟くと、マクシム伯父様が愉快そうに口の端を上げる。

「聞こえてるよ。音を拾うのは得意だからね。声を出さずに意志を伝える方法もあるよ」

「私も出来ますか?」

「それなりに訓練がいるし、うちだけの技術だからね。文官をやめて、黒の近衛になる? ノエルと一緒だったら、ジルも喜んで戻ってくる」

 片手で器用に剣を払いながら、揶揄うような口調でマクシム伯父様が尋ねる。思わず心が揺れそうになる。黒の近衛の仕事は、きっと文官と違う楽しさがある。それに一緒に働く人たちも良い人そうだ。

「楽しそうですが、生涯をかけた約束があるんです。今は、その約束を一番に思っていたいです」

「うん。約束は大事にしないとね」

「はい。でも、――」

 続けようとした言葉を、バルト伯爵の指示が止める。

「私が謁見室のドアを開く。術式を書いて援護しろ!」

 魔力を纏った指先で術式を書いて備えると、謁見室のドアに体を当てる大きな音が響く。その音にそれぞれの騎士が反応する。

「扉を死守するぞ!」

「扉を奪い返せ!」

 黒の近衛と謀反騎士。背後に異なる意志の雄たけびが聞こえて、交戦が激しくなる気配が膨らんだ。

 バルト伯爵が開いた扉の中に向けて、マクシム伯父様が魔法を放つ。すぐ目の前で魔法がぶつかって、強い風に体が持っていかれそうになった。堪えた足で床を蹴ると、扉の向うに滑り込む。

 背後でドアが音を立てて閉じる。激しい剣戟と、誰のものか分からない悲鳴が、扉の向こうに消える。

 誰もいない謁見室の中で、国王が立つべき場所にジルベール・ラヴェルは立っていた。その背後にジルの姿が見えた。

「ジルベール・ラヴェル! ベッケルは拘束した。諦めて、投降せよ!」

 私達を見るジルの顔に、いつもの優しい微笑みはない。それでも、姿を認めた私の胸は温かくなって、側へと駆けだしたくなる。
 思いを断ち切る様に、冷やりとしたジルベールの声がバルト伯爵の一喝に応える。

「何を諦めろと? 全てを失った私に、固執するものなど何一つない。何もないから、誰が何人失われても、自分が失われても構わない。何もかもを奪った世界を壊す。それが、私の全てへの復讐です」
 
「馬鹿が! 失ったのは、君が罪を犯したからだ。逆恨みもいい加減にしろ!」

 バルト伯爵が言葉と同時にジルベールに魔法を放つと、片手で術式を書いたジルが掻き消す。
 問うような視線を向けても、ジルの表情は変わらなかった。
 何を考えているか、何を思っているか、見えなくても信じる、そう自分に言い聞かせる。

 不快気な表情を浮かべてジルベールが口を開く。
 
「貴方は私の人生を欠片も知らない。何も知らぬくせに――」

「王国文書偽装による国財の横領。これが過去の罪で、一度は失うのに値する。そして、今が謀反罪。欠片だろうが、こうして糾弾するのに十分だろう?」

 挑発する言葉に、謁見室に沈黙が落ちる。僅かに前に歩み出ると、ジルベールが背筋が冷たくなるような眼差しで私達を見下ろす。

「……失うのに値する? 貧しい者、愛しい人を思う理想に、悪意はなかった。君たちは、あの頃の空気を知らない。前国王は戴冠したてで、国政は混乱していた。皺寄せを被るのは庶民で、黒街の様な手の届かない劣悪な場所がたくさんあった。学生は常に国政を憂いでいた」

 前国王の始まりは、近代史の授業で学んだ。争いの時代から安寧の時代への変わり目で、国政は混乱も大きかった。
 新時代は、不満と期待がせめぎ合う。嘆きを口にする者、理想を語る者、不満にいきり立つ者、未来を狙う者。若い学生も新しい時代への思いを、それぞれ抱いた筈だ。

「孤児院の援助や下町の水路の整備。伯爵の私から見れば端たる金で改善できる。何故やらない? 身分の壁も、決まりの壁も、曖昧で理不尽だ。声を上げても、明確な答えは返って来ない」

 その頃のジルベールと、同じ年齢の私には少しだけ分かる。下町を歩いていれば、同じ様に感じる事は幾つもあった。

 ルナの孤児院は清潔だけど、床は痛んで軋んだし、シーツには消えないシミがある。医師である神官様の棚の薬は、アングラードの医師の薬よりずっと効果が低い。
 僅かだと思っていた喜捨への感謝を思い出すと心が揺れる。

「目の前に助けたい現実があって、我が家が所蔵する絵一枚に満たない金額で救える。たった一枚の書類でそれは動かせて、作れる技術がある。君ならば、どうする?」

 私の心を見透かすように、ジルベールが真剣な眼差しで問いかける。

 ジルベールは、鏡に映した様に同じものを描く才がある。小さな政策は、統括する院の書状で実行ができてしまう。手続きの壁を飛び越えるのは、彼にとっては容易い。

「若い君なら、分かるだろう? ジルの主である君なら、想像できるだろう?」

 ジルによく似た眼差しが緩やかな弧を描く。そんな顔は見たくなかった。ジルと親子である事実を痛感してしまう。

 背後に立ったジルの冷たい表情に、過去を語った日のジルが重なる。
 今とは違う暗い色に瞳を染めて、奪っても庶民が相手なら許されると呟いた。手を握って、壊してしまえたら奪われずに済むと縋った。
 失ったものを埋めて、全てを返してあげたい。私はジルを襲った理不尽に憤った。

 でも、個人の想いと違う国の決断を、私はもう知っている。
 及ぶ力にも限りがあるから、より多くを救う事を考える。非情だと言われても、未来まで見て選択をする。儘ならないから、思いのままじゃなく最善を目指す。

 本当の正解は、どちらか分からない。ただ、ジルベールのやり方は間違っている。

「私にも理想があり、目の前の事を惜しいと思います。でも、私と貴方だけが思うわけじゃない。文官なら、一度は同じ様に悩んでる筈です。国政の中で戦う文官がいて、彼らが結果を出している。ならば、貫くだけは、正しいとは思いません」

 満足気に頷いてバルト伯爵が、私の頭に手を乗せる。荒々しく髪を撫でると、ジルベールに高潔な騎士の顔を向ける。

「自身の財布で試したら、罪を犯さず学べた筈だ。問題は大概、目の前の一つじゃない。二つ目をどうする? 次も次もと続く事を考えているか? 甘えた坊ちゃんのその場しのぎじゃない、本物のやり方で国はここまで辿り着いた! いいか? 国庫から掠め取れば、不正となり罪だ!」

 言い放ったバルト伯爵の眼差しには、一点の曇りも迷いもない。既に決定の一線に立つこの人は、ちゃんと現実の厳しさを知っている。
 苛立たし気にジルベールが爪を噛む。

「それでも、あの頃を間違っていたとは思わない。不正であっても、救った事に後悔はない。結果には弱い者の笑顔が確かにあった」

「それが、甘いと言うんだ。手の届く所しか見てない。使われた予算に、代償が必要と知っているか? 無計画な治水が、何を生むかを知っているか? そもそも、仲間すら君には見えていなかった。偽書類で得た金が、放蕩に使われた事実をどう言い訳する?」

 共に動いた仲間が犯した資金の着服。何時、誰によって、何に使われたかを、流れるようにバルト伯爵が上げていく。
 ジルベールが自嘲する笑みを浮かべて、ゆっくりと指先で術式を書く。

「仲間と呼びたくもない。彼らこそ本当の悪意だ。誰かの幸せを理由に、私を利用した。国財横領の罪で尋問されても、私は何一つ答えられなかったよ。拘束と取り調べは最も長く一年にも及び、投獄は免れたが全てを失ってしまった」

 ジルベールの魔力がゆらりと揺れる。嫌な感触が一瞬立ち上ると、怒りに燃える眼差しで魔法を放つ。対抗の為に放ったバルト伯爵の魔法が、弾けて飲まれる。

 打ち負けた事実に緊張が走る。同等の術式が負けるとしたら、魔力量に大きな差があると言う事だ。

 素早く横に飛び退いたバルト伯爵を援護するように、マクシム伯父様が魔法を放つ。相殺できたが、衝撃で目も開けていられない強い風が起きる。
 瞬きの後、マクシム伯父様を狙う別の魔法が見えた。

「駄目です! もう一つ――」

 言葉が届くより先に、風の塊がマクシム伯父様を正面から捉える。激しい音と共に壁に叩きつけられた体が、壁の一部と一緒に崩れ落ちていった。
 小さな瓦礫が体を叩いても、マクシム伯父様の指先は微動たりともしない。駆け寄ろうと足を踏み出す。

「ノエル! 後方に避けろ!!」

 慌てて大きく後ろに下がると、バルト伯爵の手が腕を強く引いた。勢いよく後ろに倒れ込んだ目の前で、床に魔法がぶつかって弾ける。

 こんなに一人で魔法を打ち続ける事は難しい。
 仰ぎ見ると、魔力を纏った片手をこちらに向けるジルの姿があった。

「ジル……! わかりません! 私と対峙するんですか?」

「ジルベール、これで一人片付きました。少しは信じる気になりましたか?」

 私の叫びを無視したジルが、ジルベールに問いかける。マクシム伯父様を倒したのは『一人目』と言ったジルで、それはジルベールの信頼を求めての事だった。
 肩に掛けた黒の近衛服が微かな風に揺れて、床についた手の甲を撫でる。その裾をぎゅっと握りしめる。

「ジル! ジルは私にとって大切な存在です。私は、忘れてません。信じてます。何があっても、貴方を許します!」

 人質交換の前にジルが言ってくれた言葉への返事を口にして、明るい緑の瞳をしっかりと見つめる。
 これから対峙するなら、これだけはジルに伝えておきたかった。迷う時には、きっと互いの支えになる。

 魔力が動いて、ジルベールが魔法を放つ。手前で弾けた威嚇の為の魔法が、私の前髪を揺らす。
 
「お姫様は狡いね。ジルが求める答えは違うのに、そうやって揺さぶる。お姫様が選ぶのは王子様と決まっている。例え選んだとしても、私と愛しい人の様に周囲が決して認めない」

「心から私は言っています! 戻ってきてください! ジルは今、疑われてるんです! 秘宝を染め変えれる、とベッケルが言ったから」

 秘宝という言葉にジルベールが反応を示した横で、ジルが琥珀色の髪を揺らして首を振る。

「私は戻りません。ここにおります」

 ジルに近づいたジルベールが、頬に触れて髪に触れる。琥珀の髪と緑の瞳、涼し気で綺麗な目元、並んだ二人はやはりよく似ていた。
 でも、微笑んでいるジルベールの瞳は冷たいままだ。その横顔を唇を噛みしてめて睨む。ジルなら大切な人に、そんな眼差しを向けない。

「全てを壊した後は、息子の君が好きにすると言い。全てを君にあげるよ。私には欲しい者がいない。だから、何一ついらない……」

 ゆっくりと立ち上がりながら、唇を更に噛み締める。
 全部をジルにあげると言うけど、何もかもを壊した後だ。息子とジルを呼んで、欲しいものはいないと言う。

 ジルベールにとってジルは何なのだろうか。狡さでなら、息子と呼ばないで欲しい。

「愛は残酷だ。景色を一変させる。失うと鮮やかな色彩は、暗い闇色になる。愛する人を失って、私の世界が一変した。ジルの世界は、拒み続けた君が変えた」

 キャロルとしての私を知らないバルト伯爵が、訝しむ視線を投げかける。

「何の事だ?」

「後で全てお答えします」

「後があればいいがな。ジルベールの魔力が上がってる。マクシムが倒れた今は、状況は厳しい」

 マクシム伯父様を名で呼ぶバルト伯爵には、僅かな焦りの色が見えた。撤退という選択肢が頭に浮かぶ。

「盾になって、ジルを抑えます。だから、もう少し時間を下さい」

「まだ、信じる気か? ……これが最後の機会だと思え」

 頷いてから、庇うように前に出ると、予想通りジルの指先から術式が消える。私の背後からジルベールに向かって、バルト伯爵が問いかける。

「秘宝はどうした?」

「ジルが染め変えています。どちらを染め変えているか、分かりますか?」

 ジルベールが綺麗な顎を撫でながら、残酷そうに微笑んで私とバルト伯爵を見る。
 攻撃の面で一対二になったのに、ジルベールにはまだ余裕が感じられた。バルト伯爵が背後で舌打ちする。ジルベールが答えの為の言葉を続ける。

「ジルが望んだのは、アレックス殿下の秘宝だよ」

 その言葉に、息を飲む。ジルベールの背後から、未熟なオリーブ色の瞳が私を見つめる。
 悲しい言葉の予感に、今すぐジルを止めたいと思った。ジルの唇から、私を傷つける言葉を零させるのが苦しい。想いが伝わる様に、ジルを真っ直ぐに見つめ返す。
 どんな言葉でも、私はジルを信じる。どんな言葉でも、本当の答えを私は探し出す。

「染め変えの為に、二つの秘宝を預かっております。殿下の秘宝を望んだ理由は、何か一つでも奪いたかったからでございます。殿下から私が奪えるものは、未来の証だけしかない。貴方は悲しんで、私をお怒りになりますか?」

 淡々とジルが理由を口にする。愉悦の色を口の端に浮かべてジルベールが、私とジルを比べるように見る。

「ジル、ごめなさい。お願いです。その秘宝を持って、こちらに戻ってきてください」

 懇願する様に語り掛けた言葉に、ジルは首を振ってはっきりと拒否を示した。

「ジルが染め変えを済ませた以上、ワンデリアの魔物の王の勝利は確実だ! 国王が入城すれば、ここで秘宝を使う。マールブランシュ王国は終わる!」

 ジルベールの笑い声が謁見室に響き渡る。
 ジルが戻れない、その理由をただひたすら考える。向き合うだけでは無理かもしれない。そう判断して、バルト伯爵に小さな声で囁く。
 
「……ジルベールを狙って下さい。書く速度が落ちますが、私は両手で術式が書けます。一つをジルベール、もう一つをジルに放ちます。多分、それで一つ答えが出ます」

 ジルは、私をまだ見つめている。だから、私も目を逸らさずに、ゆっくりと口を開く。

「もう側には来てくれないんですか? 私は貴方を狙いたくありません!」

「お側に行く事はありません。私はジルベールと共にいると決めました。貴方と対峙する事に躊躇いもありません。貴方が私を倒さないなら、私が貴方を倒す事になるかもしれませんよ」

 私とジルの間には制約があるし、ジルが私を倒す事は絶対にない。ジルが言葉にするなら、きっとこの判断に間違いはない。

 背後に回した指で下へとバルト伯爵に示してから、上級魔法の術式を書く。腰を落とした頭上で、ジルに向けて魔法が放たれる。
 背後で書いた術式を前に向けて、両手に最大出力で魔力を乗せる。一気に魔力が抜けた所為で、立ち上がろうとした膝が震えた。

 バルト伯爵の魔法が、ジルの魔法とぶつかって弾ける。追従する私の魔法がジルとジルベールの双方を襲う。私の魔法には対抗できないジルをジルベールが助ければ、自身に向かう魔法を防ぐ術式を書く時間はない。
 躊躇いもなくジルベールが、自分に向かう魔法を打ち消す。ジルに向かう魔法だけが残った。

 ジルを傷つける可能性に目を閉じてしまいそうになった瞬間、ジルベールの影が蠢く。
 影から身を起こした何かが、ジルベールの体を這って大きな口で魔法を飲み込む。

 人の大人程の黒く長い蛇のような体に、野獣のような口。真っ赤な単色の鋭い目。ルナが見せたものとは違う、禍々しい威圧感に思わず身を引く。
 ワンデリアで見たものより大きいが、物語よりは遥に小さい。黒いリュウドラが目の前にいた。

「魔物の王の欠片ですね?」

 問いかける声が震える。突然現れた黒いリュウドラの気配は、魔物の王を思い出させる。
 甦りそうになる恐怖に、歯の根が合わない程の震えがせり上がる。

 負けたくない。そう思うと、胸元にある小さな感触に縋る様に触れて『貴方』を思っていた。
 私の理想として『貴方』は、行く道をいつも照らしてくれる。これから『貴方』は本物の魔物の王と対峙する。必ず帰ってくると迷いなく言った、その強さと同じ強さが私も欲しい。
 奥歯をぐっと噛み締めて、ジルベールを真っ直ぐ睨む。

 ジルベールが黒いリュウドラに手を伸ばす。

「よく知っているね。これは魔物の王がくれた。私の魔力を補ってくれるそうだ」

 魔力が上昇しているのは、黒いリュウドラが魔力を補うせいなのだろう。
 そして、 黒いリュウドラが影に潜んでいたから、ジルは一歩も動けなかった。秘宝を二つ、ジルベールがジルに預けたのも、黒いリュウドラに監視させてたからだろう。
 納得がいく答えに小さく頷くと、ジルベールが愉快そうな眼差しで、ぞっとするような笑顔を見せる。
 
「君は悪意を知らない。ジルが自分の元に戻らないのは、脅された所為と考えている。動いたら殺す、と告げたのは確かだ。君を見て心が揺れた結果、秘宝を持ち逃げられては困るからね。私は人を信じる事はしない。誰かを信じると、碌な目に合わない。でも、――」

「私は大切な人を信じます!」

 ジルベールの暗い眼差しが、一段と闇を帯びた暗さを纏う。
 逸らしてはいけないし、負けてはいけない。拳を握りしめて、黒いリュウドラを従えるジルベールを見る。

「私は誰も信じない。釈放された後、愛しい人はこの国にいなかった。彼女の一座の興行を一度だけ偽装した。その所為で、国内の興行を禁じられてしまったんだ。世界中を探し回ったよ。フランチェルもイリタシスにも行った。旅でみる光景はどこも矛盾だらけで、私は闇を深めていった」

 愛しい人と呼ぶ時、ジルベールの顔は僅かに輝く。
 出会えていたら、彼の人生は変わっていただろうか。三人で暮らす事はあっただろうか。

「五年目に、一座を漸く見つけた。愛しい人はいなかったよ。私の子を産む為に、一座を降りたんだ。まだ愛してくれている希望に、私は信じる事を思い出した。更に八年探して一度だけ王都に戻る事にした。途中のミンゼアの港で、書類偽装に関わった男と再会してしまったんだよ……」

 黒いリュウドラが、陽炎の様に体を揺らす。ジルベールを唆すように、何度もその大きな口を開く。その度に、ジルベールの目は暗さが濃くなっていく気がした。

「何度も男は謝って、一緒にやり直そうと言った。ラヴェルは弟が継いで、戻る場所も必要もない。愛しい人が生んだ希望が、私に人をもう一度信じさせてしまった。失脚した男の事業を王都で精算して、地方都市に移って十年共に仕事をした。戻れるならね。信じるなと叫んで、私と男を出会いの時点で殺してやりたい」

 黒のリュウドラが咆哮を上げて、憎しみを深めた凄みのある笑顔をジルベールが浮かべる。

 一年の取り調べと合計十三年の旅の月日。魔物の王の言葉が頭にこだまする。

――全てを失って流転し、再び信じた者に騙され、愛する者を最後に殺した。

 ジルの過去とジルベールの時間が重なる瞬間を知って、絶望で目の前が真黒になりそうになる。

――十三歳のあの晩。

――強い風が吹いていました。

――祭りの魔法具の誤発動事故だと知らされた。

――広場に置かれた魔法具に、酔った貴族が火のお守りを投げ入れた。

――失脚した貴族が自暴自棄になって発動させた

 ジルの母を巻き込んだ王都の火災に、多分ジルベールは関わっている。
 事業の清算とは、都合の悪い何かを焼く事だったのではないか。家が込み入った下町には、木造の増築が随所に見られる。強い風が起きたら、火のお守りの小さな炎はあっという間に燃え広がる。

 ジルベールは、どこで気づいたのだろか。
 男と一緒に十年も共に仕事ができたと言うならば、その間は絶対に知らなかった筈だ。

 再び、裏切られる信頼。今度は以前より、最悪な形。
 胸の中に、暗い澱が溜まっていく。人の災厄の始まりであるジルベールよりも、彼を翻弄した名も知らない悪意に吐き気がする程の嫌悪を感じた。

「愛しい人を探しながら地方で始めた事業は、それなりの成果をあげた。でも、男はもっと金が欲しいと、書状の偽装を持ちかけてきた。過去を反省していない事にも、悪意で誰かを利用できる事にも、全てが最悪だという事にも、私は漸く気づいたんだ。記憶のない一年が過ぎて、私は地下渓谷で死にかけてた」

 踏み込まない短い言葉に、強く目を閉じる。
 男は決裂の腹いせに、ジルベールに火災の事を告げたのだろう。ジルベールの愛しい人がいた事も、その時に告げたのかも知れない。

 記憶のない一年という言葉の暗く壮絶な意味を考えながら、そっとジルを見る。
 ジルは気づいてしまっただろうか。気付かないで欲しいと思う。
 感情を浮かべない静かな表情で、ジルはジルベールをじっと見つめていた。

「私は二度と人を信じない。血が繋がるジルも信じる気はない。だが、ジルは私によく似ている。失う事への憎しみや怒りはそっくりだよ。黒いリュウドラを側におく事にジルは了承していた。ジルは君の元に返らない。君がどんなに信じても、現実は変わらない」

「嘘です! ジルは貴方が脅して……」

「ここに残るのはジルの意志だ」

 ジルベールが私に向かって魔法を放つ。対抗の術式を書くと、体が魔力の枯渇で僅かに揺れた。たたらを踏みそうになるのを、堪える為にしっかりと足に力を入れる。
 隙をついて、バルト伯爵がジルベールに魔法を放った。その魔法をジルの魔法が弾く。

「ジル……。ジルベールを助けるんですか?」

「側にいると申し上げました。私はこちらから動くつもりはありません。ジルベール、私も貴方を父と思えない。それでも、ここにいて良いのですね? 壊した世界を、下さいますね?」

 ジルの言葉に、ジルベールの哄笑が響く。耳を塞ぎたくなる哄笑には、聞き覚えがあった
 
「ああ。君にあげよう。君は愛しい人と私の子だ。それなりに特別だと思っているよ。だから……世界を壊わして始まりに戻そう!」

 ジルが初めて感情のある表情を見せた。消えそうなぐらい小さな悲しみが、微笑みに僅かに浮かぶ。胸がちりちりと焼ける様な痛みを覚える。

 バルト伯爵がジルベールに向かって叫ぶ。

「ふざけるな! 裏切りも別れも、誰の人生にも起こりうる。結局、どこまでも他人の所為にしているだけだ! 壊すというなら、我々騎士は必ず守る!」

 黒いリュウドラが口から真っ黒な靄を吐く。魔物の王が使う魔法と同じものだった。

「避けて下さい! ぶつかったら体の中が壊れます」

 魔法を放って、バルト伯爵が横に飛び退る。私もまた魔法を放ってから、反転する様に横に飛ぶ。
 二人分の魔法を飲み込んだ靄が、私達がいた場所に叩きつけられる。回避した体を起こすと、マクシム伯父様の近くに私は立っていた。互いに反対に避けた所為で、バルト伯爵との位置は大きく離れてしまう。

 ジルベールの雰囲気は、一変していた。憎悪の全てを詰め込んだ形相に悪寒が走る。

「お前たちに一体、何が分かる!! どんな罪でも、これ以上の罪は決してない。居場所も愛する人も消えた。何も残らない。私は私自身を呪う。そして、世界を呪う。たった一人で残されるなら、壊れてもいい!」

 叫びと共に黒いリュウドラが、靄をバルト伯爵に向けて更に吐き続ける。何とか躱し続けるバルト伯爵を見つめるジルベールの様子は、さっきまでとは違う。
 まるで魔物の王のように、自分の感情に任せて怒りを叩きつけていた。
  
「ジルベール!」

 私の声に反応して、黒いリュウドラが大きく揺れる。ジルベールが私に向けて魔法を放つと、影のようなリュウドラの姿がはっきりと薄くなった。
 ぐらりと体を揺らしたジルベールが、仄かに赤い色を帯びた緑色の目で私を睨む。
 
「何故だ? 聞いていない。足りない魔力を補うと言ってたのに……。いつも何かが、誰かが私の邪魔をする。どうして、私の気持ちには応えない? ああ、だから壊してしまいたいのか?」

 低い呻きの後で、ジルベールが痛みを堪えるように頭を押さえる。何かを彼が喚く度に、同調するような咆哮を黒いリュウドラが上げる。

「何が起きてるんだ?」

 誰に問うともなく、バルト伯爵が叫ぶ。

「魔物の王の欠片が、ジルベールの魔力を喰らって交わろうとしてるんです。魔力を失った場所に欠片が入ると、人になれると知人から聞きました。ジルベールの魔力が上がりだしたのも、その所為でしょう」

「交わると、どうなる?」

 精霊の子と交わったルナを思い出す。

「すみません! 先までは、よく分かりません! でも、ジルベール人格はきっと消えます。そして、魔物の王の欠片の力と意志がその身に残る筈です」

 同化の始まりですら、私とバルト伯爵二人の魔力が飲み込まれた。完全になった時には、太刀打ちは難しい。
 ジルベールの側に立っているジルを見る。明るい緑の瞳は、ずっと曇る事はなかった。

 信じたその瞳に小さく頷いて見せる。ジルがそこに立つ事を選んだ意味を信じる。これが最後の勝負だ。

「ジル! お願いだから、ジルベールの味方は止めて下さい!」

 涼し気な目元を緩めて、ジルの瞳が柔らかい弧を描く。

「それは無理です。もう、私は貴方の望みを叶える事はないでしょう」

 今日の私達を繋ぐ言葉は、何処かあべこべで嘘ばかり。
 精一杯の演技で言葉に絶望したかのように膝をつくと、マクシム伯父様の小指に触れる。意識を失っている人の小指が、私の小指を叩き返す。予想通りの結果に、胸を撫で下ろす。

「諦めろ、ノエル! もう、ジルはあちら側だ!」

 バルト伯爵の声に顔を上げる。気付いてくださいと言う思いを乗せて、まっすぐとバルト伯爵の目を見る。

「そうですね。ジルはあちら側です。諦めましょう。もう、私はジルを信じない」

 その言葉に驚いた様に、バルト伯爵が僅かに眉を上げる。
 黒いリュウドラの侵食に頭を抱えたジルベールが、天を仰いで哄笑を響かせる。

「ジル、失ったぞ! だから、お前に欲しかったものをやる。王になると良い。我と共に、バルトを倒して、国王を倒し、全てを壊せ。何もかもがなくなる程に壊れれば、世界はもう一度始まりからになる!」

 ジルベールの意識は、きっと殆ど消えている。口調は彼本来のものから、魔物の王の言葉に変わり始めていた。

「バルト伯爵! 同化の前に倒しましょう! これが、最期の勝負です。全力で私は魔物を狙います!」

 流石に情報戦略室長は感がいい。ジルではなくジルベールを私が狙う事に、意を唱えない。私とバルト伯爵が、それぞれ最高の術式を書く。

「勝てると思うな!」

 ジルベールの言葉と、消えかけた黒いリュウドラの咆哮が重なる。

 剣を抜いたバルト伯爵が、前へと駆けだしながら魔法を放つ。止める魔法をジルが放つのが、視界の端に映った。ジルベールに向かって、二つの術式を描きながら私も前へと駆けだす。
 最初の一つは絶対に負けてはいけない魔法。だから、真黒な固まりの闇に最大魔力を乗せる。

 リュウドラの体がジルベールの中に消えたら、どうなるか。私はルナから聞いて知ってる。ジルベールの力は強くなる。でも、体は一つ。魔物の王の欠片は、人になる。
 何故、魔物の王の欠片はそれを選ぶのか、小さな疑問が胸に落ちる。でも、考える余裕が今はない。
 振り払う様に頭を振ると、魔力が減った体が悲鳴を上げて、吹き出した冷汗が目に沁みた。

 黒いリュウドラとジルベール、どちらが放ったか分からない魔法を精一杯の私の魔法がぎりぎりで押しとどめる。掻き消えた私の闇の向うで、ジルベールの体に黒のリュウドラが完全に消えるのが見えた。

 ジルとバルト伯爵の魔法が再びぶつかり合う音を聞きながら。もう一つの魔法を闇の盾に変えて、更に前へと駆けだす。
 後方で吹き飛ぶ音が聞こえた。きっとバルト伯爵だろう。やっぱりバルト伯爵は、戦略を読むのが上手い。きっと、これで勝てる。

 ジルベールとの距離はもう半分を切った。二つ目の魔法は魔力が少ないから、私は絶対に勝てない。黒い大きな闇が、規模の違うジルベールの魔法に壊される気配を感じる。
 体を前傾させると、背中に魔力と靴の感触を感じた。唇の端を小さく上げて、蹴られる側より蹴る側をやってみたかったと笑う。

 私の背を踏み台にしたマクシム伯父様が、風の魔力に乗ってジルベールの魔法を飛び越える。蹴られた勢いに任せて私は大きく横に飛び退る。
 掠めた魔法が私の髪を僅かに散らして、横を過ぎた。受け身を取った私の視界に、魔法を超えたマクシム伯父様が更に前へと駆けるのが見える。

「マクシム伯父様! お願いです!」

「馬鹿め! 我の魔法の方が早い!」

 黒いリュウドラと同化したジルベールが、もう一度術式を描く。マクシム伯父様の剣が、届かない距離だと確信したジルベールがほくそ笑む。

 余裕が生む奢り、信じる事の違い。私達は必ず勝てる。
 ジルベールの背後で、別れの声を大切な人が告げる。

「さようなら、お別れです。貴方を家族と思わずに済んで良かった……」

 酷く悲し気なジルの声が告げた別れは、ジルベールに対してのものだった。ジルベールの背に至近距離で魔法が放たれる。視界の先でぐらりと揺れたジルベールの体を、辿り着いたマクシム伯父様の剣が切り上げる。

 終わった。そう思うのとほぼ同時に、城を包む空気が変わった。
 倒れたバルト伯爵の方に歩み寄ると、頭を振ってバルト伯爵が身を起こす。

「上々の結果だな。結界も解けたようだ」

「はい。国王陛下とヴァセラン侯爵なら、すぐに門を落として下さるでしょう。信じて、気づいて下さって、ありがとうございます」

 迷った末に、文官ではなく騎士としての礼をとって、バルト伯爵に感謝を伝える。
 ジルを信じないと言った時点で、バルト伯爵は私の言動に疑いを持ってくれた。それは、私がジルを信じる事を諦めないと思ってくれていた証だ。
 
「いつ、筋書きを書いた? 」

「信じていたのは最初からですが、意味や理由は手探りでした。最期の筋書きが見えだしたのは、ジルベールの交る気配があって、ジルが戻らないと宣言した辺りです。マクシム伯父様をジルが本気で倒す事はないから、二人が何かを狙ってると思ったら見えてきました」

「根拠のない信用は勘か?」

「生意気を言わせて頂きますね。勘ではなく、大切な人を信じるのは『想い』です。あと、……バルト伯爵の焦りは、ジルベールを欺くのに大変効果がありました!お好きですよね?」

 私の意趣返しの言葉に、バルト伯爵が晴れやかな笑顔を浮かべる。その笑顔に手を伸ばすと、手をしっかり握って、バルト伯爵が立ち上がる。

「敵を騙すには味方から……私の得手だ。情報戦略室に来い。もっと上手く育ててやろう」

 掴まれた手に、逃がさないというように強い力が籠る。バルト伯爵の部下は、やっぱり全力でご遠慮したい。

「国政管理室を希望しているので……お断りを――」

「なら、あの方と戦略を戦わせて、君を取り合うまでだ」

 困ったようにしか笑えない。父上とバルト伯爵に挟まれるのは、一波乱の未来しか浮かばなかった。
 立ち上がったバルト伯爵と一緒に、ジルとマクシム伯父様の元に駆け寄る。

 倒れ伏したジルベールから、人の血は流れていなかった。魔物と同じ様に傷口から靄が立ち上って、徐々に体全体に広がりを見せている。
 ジルベールは既に人じゃないのだろう。でも、彼は人だったから、繋がりは残る。

「ジル……」

 声を掛けると、いつも通りの穏やかな微笑みをジルが浮かべる。

「勝ちましたのに、悲しい顔をなさらないで下さい」

 父を知らないとジルは言った。でも、ジルベールを愛し続けた母親が、小さいジルの側にはいた。母の口から『父』と言う名で語られたジルベールの思い出がきっとある。

「……ジルは感情を隠すのが上手いです。でも、時々感情が零れます。対峙している時、一回だけ悲しそうに笑いました」

 無表情を貫いたジルが一度だけ感情を見せたのは、ジルベールが魔物の王と同じ哄笑を上げた時だった。欠片に体を奪われかけているのが、ジルにも分かった。そして、それをジルは悲しいと思った。
 何ができるだろうか。そう考える私の顔を見つめて、ジルが小さく息を吐く。 

「ノエル様は、いつも私の感情に触れてしまう。少しだけ別れの時間をお許しください」

 私に従者の礼を取ってから、ジルベールの側にジルが膝を着く。
 戸惑いがジルの横顔に浮かぶ。迷う様にジルの手がジルベールの指先に微かに触れる。
 泣きそうな瞳なのに安堵した表情で、もう戻らない人にジルが語り掛ける。

「一度だけ、家族として呼びます。『父さん』、母は蝶を見て愛し気に微笑んでいた。私の名は貴方から貰ったと胸を張ってたんです。貴方に私が残す想いはありません。でも、母から聞いた貴方は、きっと私に残り続ける。思い出の貴方は嫌いじゃなかったんです……」

 ジルベールの体が、一瞬で全て靄となって掻き消えた。
 元々のジルベールはラヴェル家の出身だから、ドニの様な朗らかさや優しさのある魅力的な人だったのかもしれない。ジルベールは最後に本来の自分を取り戻したから、一瞬で靄となって消えた。私はそう信じると、消えた靄に誓った。
 
 カイから預かった黒の近衛服をジルの肩にかけると、大切そうに制服を一撫でしてジルが袖を通す。マクシム伯父様が自分を仰ぎ見るジルに、家族の様な微笑みを向ける

「おかえり、ジル。黒の近衛として、ジルベール側へ行く判断をよく選んでくれた」

「信じて頂き、ありがとうございました。この戦いの間、黒の近衛に戻らせて頂きます」

 立ち上がって騎士の立礼をジルがとる。黒の近衛服は、ジルにとてもよく似合っている。でも、見慣れた従者服の方がやっぱり私は好きだった。

「マクシム。君はいつ気づいた?」

 バルト伯爵が問いかけると、マクシム伯父様が肩を竦める。

「前隊長の父からジルの事は聞いてましたし、部下もジルを信じておりました。なので、大丈夫という予感は始めからありました。確信したのは、倒れた振りをする前に我々だけが使う合図をジルが送った時ですね」

 幾つかの手順でマクシム伯父様が顔のパーツに触れていく。これは死んだふり、またはやられた振りを現わすサインらしい。
 全く気付かなかったのが、悔しくて僅かに唇を尖らせる。私と同様にバルト伯爵もやや不満そうな表情を浮かべる。

「狡いな。君には手段があったのか。私だけが蚊帳の外だった訳だな。まあ、いい。ジル、二つの秘宝は持っているな?」

「はい。ここにございます」

 バルト伯爵に向かってジルが手を開く。中には変わらない色をした二つの秘宝があった。

「染め変えはしていないようだな」

「はい。信用を得るための嘘でした」

 ジルが染めてない自信はあった。幸せを願っているとカイが教えてくれた。だから、ジルは私のアレックス王子の隣に立つという夢を、失わせることは絶対にしないと思えた。

 たくさんの愛を注いでいる、と言ったアレックス王子の言葉を思い出す。
 こうして一方的に信じる事も、私のジルに対する甘えなのだろうか。

 ジルの手から秘宝を受け取ると、バルト伯爵が私に差し出す。

「殿下たちは魔物の少ないベッケル領から渓谷へ降りる。シュレッサー伯爵の嫡男に運搬役として控えて貰っているが、アングラード領の方が近い。行けるか?」

「ジル、行けますか?」

 私の問いかけに、ジルがはっきりと頷くのを確認して秘宝を受け取る。

「私とマクシムは表の援護に行く。戦局が収まりったら声をかけるから、ここで回復しておけ」

 二人が謁見室から出ていく。ドアが開いた時、黒の近衛服の他に、白の近衛服が見えた。程なく謀反騎士の制圧は、終わるだろう。

 謁見室の壁に凭れるように座って、隣に並んだジルを窺うようにそっと見上げる。私の視線に気付くと、小さく笑ってジルが腕を広げる。その腕に迷わず飛び込む。
 肩口からは、いつもと同じお日様の香りがした。

「ジル、おかえりなさい」

「ただいま戻りました」

 しっかりと抱き止める腕の感触を、小さい頃から知っている。一番側に居てくれた人だから、小さい頃は、抱っこと何度もねだった。抱えられたまま寝てしまった事も、何度あっただろう。泣く時のはここじゃないと、泣いてはいけない気がした。
 小さい頃と同じ様に膝に横抱き抱えて、ジルが明るい緑の瞳で私の顔を覗き込む。

「信じて頂き、ありがとうございました。私を呼ぶ言葉の一つ一つが、とても嬉しかったです」

 肩口に頭を乗せると、鼻先をこするように首を振る。どうしても、私はジルの腕の中では小さな女の子に返ってしまう。

「ジルベールの所に行ってしまった後は、たくさん泣きました。信じてとジルは言ってたのに、私は気づいてなかったんです。だから、ごめんなさい」

 慰めるように私の背中を、ジルの手が優しく叩く。揺り籠に揺られているような居心地に、体から力が抜けていく。

「ジルベールの所に行くか、迷っておりました。お役に立てる事は分かっていましたが、親子である事を知られたくないかったんです。事情をご存知のモーリス様も、望まないなら行かなくて良いと言って下さってた。だから、はっきりお話する事ができませんでした。ご心配をおかけし、申し訳ありません」

「ジルは悪くないです。私、ジルに貰ったものを全然返せていません」

 黒街の側でジルを見かけた後、何度も様子がおかしいって気づいていた。モーリスおじい様に相談したり、色々悩んでいたのはあの頃だったのだろう。
 ジルの特別な愛情に気付きかけていた私は、踏み込むのが怖くなって及び腰になってしまった。

 宥めるように背中を叩き続けながら、ジルが僅かに首を傾げる。私の髪にジルの頬の感触が触れる。
   
「私も貴方にたくさんの宝物を頂いております。……対峙に必要だったとはいえ、酷い言葉を貴方に申し上げました。私と同じ言葉で始めに意志を示して下さったから、何とか嘘を突き通せました。私は貴方に嫌われる事が、何よりも一番怖いんです」

 抱く腕に少しだけ力が籠る。肩口から僅かに頭をずらして体を沈めると、ジルの胸の鼓動が聞こえた。アレックス王子と同じ、早鐘を打つ音だった。何度も抱きしめられていたのに、こんなふうに意識したのは初めてになる。
 揺り籠の様な腕の中から、見上げたジルの涼し気な目元にそっと触れる。

「ジルは瞳に感情が出るんです。前を向いている時は、明るい緑です。今日はずっとこの色だから、ジルはジルだって信じれた。今も綺麗な緑です……」

 綺麗な明るいオリーブ色の瞳には、愛し気な熱があった。私はこの思いから、逃げてはいけない。自分の迷いに、ジルを置き去りにしてはいけない。

「ジル、大好きです。ありがとう。とっても大好き」

 私の背を叩いていたジルの手が止まる。冷たい指が私の眦をそっと撫でて、戸惑うように瞳を覗く。

 素敵な人だと思う。華やかさとは違う落ち着いた気品がジルにはある。私の掛け替えのない大切な人で、誰かが代わりになる事はない。
 でも、ジルの腕の中で、私の鼓動は胸を焦がすような早鐘を打つ事はない。とてもゆったりと安らいで、緩やかな落ち着いた音を立てる。
 
「アレックス王子が、ジルが誰よりも私に愛を注ぐ人だと教えてくれました。私もそう思います。誰よりも、私にジルは愛をくれます」

 薄い唇を僅かに上げて困ったようにジルが微かに笑う。

「比べた事はございませんが、誰より貴方を大切に思っております。殿下は何故そのような事をおっしゃったのですか?」

「アレックス王子は、ジルには敵わないかもと言いました。何もなくても、私の大切な人であるジルが羨ましいとも言いました」

 私の言葉に、感慨深げにジルが一瞬目を閉じた。開いた眼差しは、眩し気に遥か遠くを一度見つめる。

「光栄です。そして、殿下らしい言葉だと思います」

 私とジルとアレックス王子。同じぐらい大切でも、愛していると伝えて良いのは一人だけ。一度ゆっくり瞬いて、ジルを真っ直ぐ見つめる。

「一人の男の人として、ジルを見ろと言われたんです。どれだけ大事で、必要かをしっかりと考えて、戦いの後に答えを出せと言われました」

 ジルの細い指が私の前髪を優しく直す。触れる冷たい指先は心地よい。心地よい沈黙に身を任せるように、口を噤む。
 答えを出してしまったら、結果がきっと待っている。きっともう、同じではいられないかもしれない。

「私を一人の男としてみるなら、腕に飛び込んで良かったのですか? 貴方を傷つけた言葉に、私の本心は確かにございました」

 艶やかに笑って、ジルが揶揄うように私の頬に片手を伸ばす。その手に自分の手を重ねる。
 小さな私の手を引いた大きな手。この手に引かれて、歩いた時間は誰よりも長い。だから、ジルを本当に愛しいと思う。ずっと側に居たいと思う。底なしに失ったら辛い。

「嘘じゃないんです。でも、狡い事なのかもしれないです。私はジルに、ずっと側に居て欲しい。ジルがいないと、息が出来ないぐらい苦しいです。でも……」

 見上げた眼差しが重なって、私の瞳の中に何かを見つけたようにジルが目を細める。
 穏やかに息を吐くと、ジルの指の背が頬を優しくそっと撫でる。ジルは誰よりも私を知っている。だから、切なげに細められた瞳は、私の答えも知っている。

 ジルを失った時とアレックス王子を失った時。同じぐらい苦しかった。
 でも、ぼろぼろになるまで泣いて顔を上げた時、心にいたのはいつもアレックス王子だった。

 アレックス王子だけが、私にくれるものがある。それは絶望でも、私の心を空っぽにしない何か。何かはいつでも心を満たして、私に前を向かせる力をくれた。それを光や希望と以前、私は呼んだ。
 でも、今は愛と呼ぶのだと気付いてしまった。

「同じぐらいなのに、一つだけ違うんです。どうしてか分からないけど、前――」

 ジルの冷たい指先が、私の唇を叩いて言葉を止める。ジルが深い深いため息を、諦めたように微笑みながらつく。

「ずっとお側にいて、貴方の事は何でも存じ上げております。私はやはり殿下が羨ましい。何もかもを持っているからではなく、彼にしかないものがございます」

 切なげな眼差しが潤んだような艶を帯びて、傷つけてしまったと不安になる。
 どうしていいか分からなくなって、黒の近衛服の胸元を気づかないうちに握りしめていた。
 私の心が、離れて行かないでと、またジルに甘える。

「そんな顔をなさらないで下さい。大丈夫です。騎士として、愛する人の為に剣を持ちたいんです。だから、私への返事も戦いの後に下さい。貴方は笑顔が一番愛しいです。どうか、笑ってください」

 ゆっくりとジルが私の手を引いて立ち上がると、出会った時と同じ様に跪く。琥珀の髪を揺らして騎士の礼を取ると、未熟な果実の色の瞳で私を仰ぎ見る。 

「貴方の為に、戦います」

 指先に口づけるジルの手首には、始まりの花の腕輪ではなく、私の髪の腕輪が今も結ばれている。

「ご武運を心からお祈りします」
 
 ジルの為に精一杯の笑顔を浮かべると、宝物を見つけたようにジルが顔を綻ばせる。

 ジルを見ていると『ありがとう』と『大好き』で胸が一杯になる。『家族として』と言い続けた言葉は、偽りじゃない。身分なんて関係なく、ずっと前からジルは私の『一番大切な家族』だった。

 立ち上がると優しい眼差しに、珍しく挑むような強い色をジルが浮かべる。顎にそっと指を這わせると、にっこりと私の知らない笑顔をみせる。

「一度、一人の男として足掻く事をお許し下さい。愛しております。叶うなら私を選んで下さい」

 私の唇に一瞬だけ、ジルが唇を重ねる。アレックス王子とは違う冷たい唇の感触を、私の唇が初めて知る。
 驚いて見上げたジルはいつも通りの顔で、これが最初で最後と告げていた。
 
 ジルの瞳の熱も、冷たい唇の温度も、私はきっと忘れない。

 
 黒の近衛のマスクをジルが付け終えると謁見室の扉を開ける。
 黒の近衛と白の近衛が、乱戦を制して謀反騎士を捕縛しているところだった。
 
「おっ! ご帰還だね!」

 気楽な調子で、カイがジルに手をひらひらと振る。

「ただいま。制服をありがとうございます」

「これ逃したら、俺らは一生着れないからねー」

 にやりとカイが笑うと、廊下の向うからこちらに向かって駆ける足音が聞こえた。

「国王陛下が中央扉を通過されました!」

 その声を合図に黒の近衛が、近衛にそれぞれの役割を引き継いでいく。
 去ろうとする黒の近衛の背を見つめる、ここで彼らが戦った事、その功績は何処にも残らない。切なくて、惜しいという気持ちが過ぎる。

「誇れ! この功績が我ら近衛の名で讃えられても、成したのは黒の近衛だ。我ら近衛は決して誇らない。お前たちの功績だと忘れぬ。声を上げる事は出来なくても、胸で誇れ!」

 年嵩の近衛が叫んで剣を掲げると、黒の近衛が撤退の足を止めた。答えるように半身に剣を抜くと、一斉に鞘に納める返礼の音を響かせた。


 深夜も更けて夜明けが近づこうとする時刻。
 マールブランシュ王国の王都では、国王陛下が凱陣を果した。その圧倒的な勝利は公式発表よりも早く、様子見の貴族の口から広がって行く事になる。


 そして、ほぼ同時刻。ヴァイツ軍撤退の報がもたらされた。父上達は無事にヴァイツ本隊に壊滅的な打撃を与える事に成功したらしい。
 調停で用意したギスランの物理的な罠と、新たに撒いた内乱の罠。マールブランシュ王国にとっては、戦局に立つ事も、姿を明かす事もない、記録に残らない勝利。だけど、ヴァイツにとっては、見えない悪魔に仕掛けられた敗戦として、記録に残る事になった。


 静かな早朝の街を、ジルと私の馬が駆け抜ける。
 この季節には珍しい暗雲に空が覆われているせいで、太陽の姿はなく町は夜の様に暗い。 

「ジル。では、ワンデリアまで秘宝をお任せします」

 馬の速度を一段下げて、ジルに声をかける。黒の近衛の上着を脱いで腰に巻いたジルが、馬上で私を心配そうに振り返る。

「畏まりました。王都は安定の著しがございますが、ルナ様の警護は十分お気をつけ下さい」

「はい。十分、気を付けます。……アレックス殿下に秘宝の使用は少し待つように伝えて下さい。私は王になるところが見たいんです」

 向きを変えるために馬を止める。走り去る馬上で、何かを感じ取ったジルが慌てて振り返る。

「ジル、行ってください! 私は私にしか出来ない事をします。ジルも、皆も、自分の役割を果たしてください! 全ての後に、約束を果しましょう!」

 私の言葉に前を向き直ったジルが、まっすぐとアングラード侯爵邸に向かって速度を上げた。手綱を引いて馬の向きを変える。

 始まりのバルコニーから、星に一つ願った。
 皆が無事でありますように。

 そして、星にもう一つ願った。
 ジルが戻ってきますように。

 最後だけは、星に誓った。
 他の誰かが王になる未来は、私には描けない。
 貴方のいる未来に、王である貴方の隣に私は立つ。

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