夏休みの終わり

板倉恭司

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怪物との対話(3)

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「は、はい?」

 零士は、わけがわからず聞き返していた。すると、ペドロは再び口を開く。

「聞こえなかったのかね。では、もう一度言うよ。ここに、十三歳の少年がいたとしよう。ごく平凡な能力しか持たぬ彼の目の前に、凶悪な脱獄犯が現れた。脱獄犯は巨漢の力士を素手で殺せるだけの殺傷能力を持ち、走るのも早い。必要とあれば、何のためらいもなく人の命を奪う男だ。この場合、少年はどのような行動を取るべきだろう。これが、俺の出した質問だ。理解していただけたかな?」

「そ、そんな……」

 それしか言葉が出なかった。
 今の質問に登場する十三歳の少年とは、間違いなく自分のことだ。そして凶悪な脱獄犯とは、ペドロのことである。
 つまり、彼は問うているのだ。お前は、俺の秘密を知ってしまった。これから何をするつもりなのか? と。
 答えられるわけがない。下手な答え方をすれば、ペドロに殺されてしまうかもしれないのだ。あの巨漢ですら、手玉にとった怪物である。零士など、一分もかからない間に息の根を止めてしまえるだろう。
 しかも、この男は鋭い観察眼を持っている。その場しのぎの嘘やごまかしは通じない。
 では、どうすればいい?

 零士は必死で考えた。だが、何も浮かばない。それどころか、立っていることすらおぼつかなくなっていた。足が震え、鼓動は早くなる。このままでは、殺されてしまうかもしれない……。
 その時、ペドロが口を開く。

「遅いな。遅すぎる」

「えっ?」

「俺が質問してから、二十秒が経過した。にもかかわらず、君は何も答えず迷うばかりだ。それでは駄目だね」

 駄目、とはどういうことだろう。ひょっとして、機嫌を損ねてしまったのか。となると、これからどうなるのだろう。今から、この男に殺されるのか? 
 零士は、恐怖のあまり顔を歪ませていた。抵抗はもちろんのこと、逃げることも出来ない。
 一方、ペドロの方は語り続けている。

「船で、俺は君に質問した。鬼と人間、どちらが怖い? とね。覚えているかい?」

「は、はい」

 確かに、そんな質問をされた覚えはある。だが、それが何の関係があるのだろう。

「君は、鬼の方が怖いと答えた。その答えの可否は置くとして、突然の質問に誰にも頼らず数秒で答えられたわけだ。しかも、その答えにはきちんとした理論的裏付けがあった。大したものだったよ。しかし、今のは駄目だ。時間がかかり過ぎている。二十秒という時間があれば、人は様々なことが出来る。しかし、君はその時間を迷うことに費やしてしまった。困った子だね」

 言った後、ペドロはくすりと笑った。からかっているような口調だ。今のところ、怒りや敵意は感じられない。
 正直な話、零士には彼が何を言わんとしているのか、よくわからなかった。恐怖のあまり、頭がよく回っていないせいもある。
 だが、今すぐ殺されることはないらしい、という雰囲気だけはわかった。内心、ホッと胸を撫で下ろした。
 しかし、続けて放たれた言葉は予想外のものだった。

「ところで、君はミストという映画を観たことがあるかな?」

 こんな時に、映画の話をしようというのか。だいたい、今の話とミストなる映画と何の関係があるのだろう。困惑しつつも答える。

「ないです」

「そうか。まあ、機会があったら観ておくといい。この映画のテーマはいくつかあるが、そのうちのひとつは、正しい選択が正当な結果に繋がるとは限らない……ということだと思う。人生には、時として理不尽としか言いようのない事態が起こる。正しい選択のはずが、とんでもない結果をもたらすこともある。運不運というものは、実に大きな要素だよ」

 ここにきて、ペドロが何を言いたいのか、何となくわかりかけてきた。この男は、選択についての自身の考えを語ろうとしているのだ。零士は、いつの間にか神妙な顔つきで聞き入っていた。
 そんな零士に、ペドロはよどみなく語っていく。

「人生というのは、なるようにしかならない。その上、危機は容赦なく襲ってくる。こちらの意志とは無関係に、何の前触れもなくやってくるものだ。こちらが善人だろうが悪人だろうが、お構いなしに危機は襲ってくるのだよ。先ほどの、元力士さんのようにね」

 その通りだ。
 零士は幼い頃にも、中年男から襲われそうになった。こちらに敵意がなかったのに、向こうは襲ってきたのだ。
 災厄は、突然やってくる。そんな時、迷っていては時間を失う。それはつまり、命を失うのだ。
 あの時も今も、零士は怖くて動けなかった。だが、何もしなければ彼らの思うがままに扱われていたはずだ。どちらのケースも、運に救われた。
 どう動けばよかったのだろう。必死で逃げるべきだったか。それとも、死にものぐるいで戦うべきだったのか。
 いや、その選択肢すら頭に浮かばなかった。

「突然の危機に襲われた時は、瞬時に選択し行動しなくてはならないんだよ。ところが、君は選択に時間を使いすぎている。以前、俺は聞いたよね。街を歩いていて、鬼を見かけたらどうする? と。今の君の態度は、街で鬼を見かけて立ち止まり、どこに逃げれば安全だろうか……と腕を組んで長考するようなものだよ。それでは、考えている間に鬼に殺されてしまう。答えの可否よりも、まずは答えを早く出せるようになることだ」

 零士は、大きく頷いていた。ペドロの言葉が、純粋な少年の心に染み入っていく。
 これまでの人生において、様々な選択を迫られる局面……その時、どちらか決められないことが多かった気がする。どっちのお菓子を買うか。テレビでどちらの番組を観るか。そうした場面で、零士はどちらにも決められず、最終的に他人に委ねたことがほとんどである。
 今までは、時間をかけて考えれば、いい方法が浮かぶのだと信じていた。しかし、危機が迫っている時には長考など出来ない。零コンマ何秒かで考え、答えを出さねばならないのだ。
 先ほど大男に会った時、零士は反射的に嫌なものを感じた。すぐに離れたかったが、それは失礼だという意識が働いた。結果、あんなことになってしまった。
 今にして思えば、失礼だというのは言い訳ではなかっただろうか。零士は、迫る危険にどうすればいいかわからなかった。迷った挙げ句、何もしないという選択をしてしまったのだ。

「実際の話、危機を前にして迷った挙げ句、何の行動も取れず死亡してしまったケースは少なくない。もう一度いうよ。人生とは、なるようにしかならぬもの。ならば、選択は即断即決が基本だ。選択が早ければ、間違った方を選んでも修正できるかもしれないからね。では、失礼するよ」

 そう言うと、ペドロは向きを変える。だが零士は、その背中に声をかけた。

「ま、待ってください!」

 その声に、ペドロは立ち止まった。くるりと振り向く。

「何だね」

「さっきの問題の答えは、何だったんですか?」

 そう、先ほどペドロに聞かれた問いの答えがわからないのだ。
 平凡な十三歳の少年が、凶悪な脱獄犯に遭遇したらどうするか……その問いに対し、零士は答えを出すことが出来なかった。ペドロの考える正解は何なのか、是非とも教えてもらいたい──
 だが、彼の口から出たのは予想外の言葉だった。

「その答えは、自分で見つけるしかないね。何を信じ生きていけばいいのか……両親ですら、正解を教えてはくれないのだから」

 そう言うと、ペドロは足音も立てず森の中に消えていった。

 ペドロが去っていった後、零士は放心状態で座り込んでいた。今、目の前で起きた一連の出来事で受けた衝撃が、未だに心と体に残っている。
 それも仕方ないだろう。十三歳の少年にとっては、濃すぎる体験だった。小山のような体格の大男に襲われたかと思ったら、刑務所を脱獄した凶悪犯に助けられた。まるで映画のような展開だ。今も、まだ夢を見ているような心持ちである。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。零士は、ようやく立ち上がった。自転車に乗り、屋敷への道を走っていく。



 どうにか気持ちを切り替え、屋敷へと帰った。すると、出迎えた大橋の口から予想外のことを聞かされる。

「今夜、統志郎さんは帰らないからね」

「えっ、何かあったんですか?」

「ちょっと、仕事が立て込んでるみたい」

「そうなんですか……」

 零士の声は沈んでいた。いればいたで、うっとおしい存在だった父。だが、いないとなると寂しい気もする。特に今日は、いろんなことが有りすぎて精神的に疲れた。大男に襲われ、ペドロに助けられた。かと思えば、ペドロから危機に陥った時の心構えを教えられたのだ。
 こんな日こそ、能天気な父の言葉が癒やしとなってくれる気がした。だが、今夜は帰らないという。
 その時、大橋がくすりと笑った。

「寂しい?」

「べ、別に寂しくなんかありませんよ!」

 ムキになる零士。だが、彼女は笑みを浮かべている。上野だけでなく、大橋にまでからかわれるようになってしまったらしい。

「無理しなくてもいいよ……ん?」

 大橋は言葉を止め、零士の顔をまじまじと見つめる。
 ややあって、口を開いた。

「何かあったの?」

「えっ、何かって何ですか?」

「ちょっと変だよ。何か嫌なことでもあったの?」

「だ、大丈夫です」

「まあ、君がそう言うならいいけどね。でも、何かあったら遠慮なく相談しなよ」






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