妖精のつぶやき

SAN

文字の大きさ
1 / 1

第1章 花言葉と母の笑顔

しおりを挟む
 浅田は再び、空を見上げた。思わず眩しくて、目を背けてしまいそうになる。
 雲ひとつない、澄み切った青が、あの頃の自分を思い出させた。いつしか、僕が学生だった時に、母に嘘を付いた事があった。生まれて初めての、愛のある、嘘だった。成績が上がらず、挫折寸前だった僕を、酩酊した父みたいに嬲り怒鳴るんじゃなくて、いつも優しく喝を入れてくれる母の事が、僕は一番に大好きだった。だからこその、嘘だったんだ。
 ある日、同級生の中で頭がいい奴に頼んで、成績表を貸してもらった。悪い気はしたが、それを僕は一番に母に渡した。「母ちゃん、僕は今回のテストで満点を三つとったんだ」バレてないかな?喜んでくれるかな?
「まあ、そうなの?それはおめでとう。でも、私は浩二なら始めから出来るって思ってた。さすが、さすがだね」
 母は言いつつ、くしゃっと鼻筋に皺を寄せて微笑んだ。頭を優しく上から二回、撫でられる。
 その、優しい手の中にはまだ、成績表は握られていない。母は、結果を見てではなく、僕から得られる情報を聞いて、喜んでいるんだ。
 …自分の息子を疑わずに。
 そんな母が、好きなんだ。と、僕は確信した。それと同時に、無性に泣きたくなった。大好きな唯一の母であるこのひとに、嘘を付いてしまった罪悪感が、黒雲となってこのひとごと全てを汚してしまうんじゃないかと、心配で。でも、僕は笑顔で。
 嬉しそうに褒めてくれる自分よりも遥かに心が綺麗な母を暫く僕は、見つめていた。






 いつだっただろう。と、浅田は思い返す。小学生の低学年くらいの時には既に、周りには「浅田」という名字で呼び名は、固定されていたし、別に悪い気はしなかったが、どこか寂しい面持ちでもあった。でも、母だけは必ず、僕の事を「浩二」と、下の名前で呼んだ。
 嬉しい時も、楽しい時も、怒っている時も。それは変わらなかった。
 たまに、「浩ちゃん」と、呼ばれた時は格別違くて。心を踊らせて、喜色満面の笑みを零した。
 でも、父は一度も僕の事を名前で呼んではくれなかった。それ以前に、目さえも合わせた事がなかった。いつでも姉のことばっかりで。出来損ないって言われた時。…あれは悲しかったなぁ。







  少し潤んだ瞳で、深いため息を漏らす。今はもう、涙は流さない。さすがに、大人だし。
 それに二十六にもなって、就職したいい年頃の男がこんな道端でメソメソ泣いていたら、それこそみんなからは変な目で見られてしまう。
 懐かしい、バス停所の古ぼけた四角いベンチ。僕はそっと、腰を下ろした。所々、色が剥げてしまっているが、これも昔ながらに好きだったりする。
 …故郷に、鹿児島に、帰ってきたのだ。風景は、相変わらずのまま、何ひとつって感じだった。
 村の人達は、どうしてるかな?あいつらは?みんな元気にしてるかな?思い出に浸っていると、キリがないってくらいの幸福感に満たされた。
 突然、悲しみが、込み上げて広がり溢れてしまいそうになって無理矢理、細い糸で繕った。
 みんなに会いたい気持ちは山々だが、本当のここに来た理由はそんなことじゃなかった。両手いっぱいに抱えていたシオンの花束を不意と見つめる。
 今日は、
去年、母は僕の腕の中で安らかに眠った。…病気だった。
 あの日の生前、母は「私ね、花の中で一番ガーベラが好きなの。」と、弱々しく笑った。僕の大好きな笑顔で。「あ、でもね、もちろんあなたの事が一番、私は大好きよ。」それは、知ってる。僕も微笑んだ。でも、どうしてガーベラ?不思議そうに首を傾げると、母は一冊の図鑑を一生懸命に手を伸ばして、取り出した。そして、開く。昔、一緒によく読んだ植物図鑑だった。「ほら、ここのページ。読んでみて?そう、ここ。」甘えたくて、分かっているのにわざと「ここ?」と聞いてしまった。
「…ぇーと、ガーベラ。花言葉は…希望、常に前進、神秘、」
その先の、もう一つは母の声に遮られて、言えなかった。
「 燃える神秘の愛、…ガーベラに込められたこの言葉達は、どれもみんな、私の大切な…大切な、言葉なの。」
だからね、と母は続ける。
「私は、あなたの周りにいるみんなが、もしあなたの敵であったとしても。…私は浩ちゃん、あなたの味方よ。何よりもこの証拠に、私はあなたの事を心から愛してる。」
母はふわりと笑って、僕の頰を両手で触った。気が付けば、涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃで、今まで耐えて来た分の嗚咽を全て母の胸の中で出し切った。そして、今度は母が涙を流した。
「浩ちゃん、ごめんね、ごめんなさい。ちゃんと、愛してあげられなくて。あんなお父ちゃん、嫌だったよね。お姉ちゃんばっかりで…ごめんなさい」
あぁ、やめてくれ。母ちゃんには、笑っていて欲しいんだ。泣いて欲しいわけじゃない。
「ううん、全然。僕にはそんな、母ちゃんだけが僕を愛してくれているのなら、それ以上は高望みしないよ。」
 だから、笑って?
 母は笑っているけど、涙は雨の如く、降り続ける。そして、最後にくしゃっと最高の笑顔で息を引き取った。



「ガーベラが母ちゃんの遺した言葉で、母ちゃんの、最後の思いだとしたなら、僕は…この花束を贈るよ。」
 誰もいない筈の広い道端でそう、呟いた。僕は確かにあの時、母が息を引き取る直前、口の動きだけだけど、僕に、小さく「ありがとう」と、言ったのを見た。
 シオンの花言葉。それは、あなたを忘れない、追想、追憶、遠い人を思う。その花言葉も、母が僕に教えてくれたかけがえのない思い出だった。
 一年経った今でも、どうしても僕はあの時笑った母の顔を忘れる事なんか出来なかった。
 …違う。忘れたくなかったんだ。何もかも、全て。母との大事にしてきた陽だまりのような暖かい思い出を。唯一、僕を愛してくれた母のことを。
 だから、これから行く母の墓参りにこの、今の僕にぴったりな「シオン」を選んだ。
母は、僕がまだ、十歳の誕生日を迎えていない時に「私、一人ぼっちが怖いの。浩ちゃんのお姉ちゃんは、私が嫌いみたい。…お父ちゃんも、私のことが…」と、言ってきたことがあった。
 結局、友達がどんなに多くいても中々、居場所を見つける事のできない、孤独な僕と同じ、母もずっとずっと、一人だったんだ。だからこそ、母は一人になることを恐れ、忘れられることを一番に嫌ったんだと思う。
でも、僕は…僕だけは母のことを忘れないよ。絶対、何があっても。
 ふと、腕時計に目がいった。ここに、行きの電車とバスで着いた時の時間は丁度、お昼頃だった。もう既に、その時から一時間は立っている。
朝から何も食べていないせいか、ぐぅ、と変な音を立てて、空腹を思い出させた。
どうしようかな。花、元気なうちに届けた方がいいよね?
取り敢えず昼飯はお預けだ、と軽く吐息をついてから立ち上がると、目に入ったのは、幅が無駄にでかいこの道路の向こう側からこちらを見つめる、ハット帽子を被った色白の女性。どこか、見た事のあるのうな面影を残していた。







しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

婚約者の幼馴染?それが何か?

仏白目
恋愛
タバサは学園で婚約者のリカルドと食堂で昼食をとっていた 「あ〜、リカルドここにいたの?もう、待っててっていったのにぃ〜」 目の前にいる私の事はガン無視である 「マリサ・・・これからはタバサと昼食は一緒にとるから、君は遠慮してくれないか?」 リカルドにそう言われたマリサは 「酷いわ!リカルド!私達あんなに愛し合っていたのに、私を捨てるの?」 ん?愛し合っていた?今聞き捨てならない言葉が・・・ 「マリサ!誤解を招くような言い方はやめてくれ!僕たちは幼馴染ってだけだろう?」 「そんな!リカルド酷い!」 マリサはテーブルに突っ伏してワアワア泣き出した、およそ貴族令嬢とは思えない姿を晒している  この騒ぎ自体 とんだ恥晒しだわ タバサは席を立ち 冷めた目でリカルドを見ると、「この事は父に相談します、お先に失礼しますわ」 「まってくれタバサ!誤解なんだ」 リカルドを置いて、タバサは席を立った

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

冷遇王妃はときめかない

あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。 だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

処理中です...