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第1章

お客様に夜の楽しみを提供するお仕事 ⑩

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「こちらにご記入をお願いします」
(本当に人間って、紙が好きだなぁ)
 はな六はこんな所でもA4の書面と向き合うことになった。ここはユユ紹介の美容院。初めての来店なので、カルテに必要事項を記入しなければならない。カルテの他にも一枚、書類を渡された。
 ざっくりと文章に目を通す。カットやカラーを客が気に入らなかった場合、担当美容師の過失でない限り補償はしかねるとのことだった。自然に髪が伸びることのないアンドロイドに向けた、免責事項だ。それは仕方のないことなので、はな六はさっさとサインをし、店員に渡した。
「それではお席にご案内いたします。こちらへどうぞ」
 はな六は座り心地のいい椅子にかけさせられ、鏡に向き合わされた。キシモトと名乗った担当美容師は、はな六の髪の毛の先を指でいじってみたり生え際を掻き分けたりし、感嘆した。
「すごい、人毛なんだ……。しかも植えかたも細かいですね。さて、今日はどのようになさいますか?」
 キシモトの問いにはな六はキッパリと答えた。
「バッサリ切りたいです」
「バッサリですか。でも、こんなに長く伸ばしたのに……あ、いや、アンドロイドだから伸びないのか……いいんですか? 一度切ってしまったら、元には戻せないのですが」
「はい。だって、キューティクルやばいんでしょう?」
「えぇ、まぁ……そうですね……」
 発端は、店のサイトに載せる為の宣材写真を撮ろうというときに、ユユが言った一言だった。
「うわっ、店長! 由々しき問題ですっ。はな六ちゃんの髪の毛、キューティクルマジやばいです。死んでます、ほぼ死んでます!」
 ユユはまるでそれが大ごとであるかのように騒いだ。
「キューティクルって何ですか?」
 はな六が訊くと、
「キューティクルっていうのはぁ、キューティクルっていうのはねぇ……」
 ユユは考え込んでしまった。どうやら自分の言った言葉の意味を把握していないらしい。その、キューティクルとやらを生き返させるのには一体何十万かかるのか? はな六はキューティクルの真価を知るのが怖くなった。
「そうそう、キューティクルっていうのは、髪の毛をツヤッ!ピカァーッ!ってさせるやつだよ」
「へぇ」
 ユユはやっと言葉をひねり出したが、全然説明になっていなかった。
 ユユによれば、はな六のキューティクル死亡問題を解決するには、髪をバッサリ切るしかないという。その提案にマサユキは渋い顔をした。髪を切るまで宣材写真を撮るのを待つのは嫌だが、待たないなら待たないで、写真と本物のはな六の印象が違ってしまう、とのことだった。
「そーんな屁理屈こねて! ほんとは店長がロン毛フェチなだけでしょ」
 と、ユユはさっさと行きつけの美容院に予約の電話を入れた。
「バッサリですね。だいぶイメージ変わると思いますよ。ではどのくらいバッサリといきますか?このくらいですかね」
 キシモトははな六の髪の肩の少し上くらいのところを、人差し指と中指で挟んで示した。だが、はな六は首を横に振った。
「いえ、もっと短い方がいいです。ちゃんと、人間の男みたいに」
「人間の男みたいに、ですか」
 キシモトはうーんと考えてから、目の前の鏡台に積まれているカタログの山を探り、一冊抜き取って開いてはな六に見せた。
「こちらのショートボブくらいはいかかでしょうかね。かなり短く、ボーイッシュになりますけど」
 写真のモデルは全員女の子だった。短いとはいえ、どれも街でよく見る女の子の髪型だ。はな六はもっと思い切りたいのだが、キシモトは何故か女の子らしさに拘っている。
「んー、ユユと相談してもいいですか?」
 キシモトが頷いたので、はな六は待合席のユユを呼んだ。ユユはすぐさまはな六の元にすっ飛んで来た。
「おれ、もっと男っぽい髪型がいいんだけど、どうしたらいい?」
「大丈夫、ユユに任せて」
 ユユはそう言って胸を叩くと、キシモトとあれこれ相談し始めた。トップやサイドはどうとか、襟足はどうとか、はな六にはさっぱり解らない話だった。しばらくして、ユユは待合席に戻り、キシモトは別のヘアカタログをはな六の前に広げた。紙面のカットモデルは、はな六と同じような年頃の若い男ばかりだ。キシモトはその中の一人を指差した。
「こんな感じはいかかでしょう?」
 そのモデルの髪は全体にパーマがかかっていて、頭頂部がふわふわで、前髪は少し長め、サイドと後頭部は短く刈り上げられていた。
「んー、良いと思います。これでお願いします」
「かしこまりました。ではまずシャンプーにご案内いたします」
 シャンプーが済んだあと、はな六は髪を切られたり弄られたりしながら、鏡台に積み上げられた雑誌の一冊に手を伸ばした。女性向けの雑誌のようだが、サービスで提供されたものに文句をつけるのもなんなので、黙ってページをめくった。巻頭グラビアに見慣れた男が写っていた。ハン・ジュンソだ。囲碁雑誌に載るときとは違いスーツ姿ではなく普段着で、カフェか家のリビングのような場所で、テーブルに肘をついてこちらに微笑んでいる。アッシュグレイの髪は、スーツのときのように整髪料でかっちり固められてはいないし、眼鏡もかけていない。
「ふぅん……」
 ジュンソの囲碁とテレビ以外の仕事を目にするのは初めてだ。こんなに自然に、まるで親しい身内に向かって笑いかけるように微笑むジュンソなど、滅多に見れるものではない。彼は極度の人見知りだからだ。
(きっと、カメラマンの腕がいいんだ。マサユキみたいに)
 はな六は先週マサユキに宣材写真を撮ってもらったときのことを思い出した。
『いいよいいよー。今の表情、とってもエッチだねぇ。六花ちゃんのいやらしいところ、もっと僕に見せて~』
 などとおだてられて、はな六は様々なポーズを大胆にきめた。自分が主役の写真撮影など、ゆうに十数年ぶり。しかもあんなにいい気分で撮ってもらえるとは。
「ふぅーん」
 はな六はうっとりと目を細め、ため息をついた。
「はな六さんもジュンソくんがお好きなんですか?」
 キシモトが急に話しかけてきたので、はな六はびくりと頭を動かしてしまった。
「ふえっ? んー、えぇとぉ」
「うちの嫁もジュンソくんのファンなんですよ」
 キシモトは気にした様子でもなく言った。
「んー、ファンじゃなくて、同期なんです」
「そうなんですか、同じ学校出身? じゃあはな六さんってご出身はソウルなんですか? あれ、でも歳が結構離れてますよね」
「いやぁ、あの……そうではなくて、はな」
 “はな六こども囲碁教室”の、と思わず言いかけて、はな六は口をつぐんだ。囲碁のこととは金輪際関わらないというのが、アンドロイド棋院との約束だ。美容院でのただの雑談とはいえ、ジュンソのことは口外しない方がいいだろう。
「んー、おれの出身は中国です。育ちはジャパンですが……」
「あー、そうですよね。アンドロイドの方々って、みなさん中国のご出身でしたっけ。あはは、すみません」
「いえいえ」
 キシモトはそれ以上根掘り葉掘りはしてこなかった。はな六のプライベートを深掘りするのをやめたというよりは、ジュンソのプライベートを深掘りするのをやめたのだろう。キシモトは、妻がジュンソに熱を上げるあまりに子供二人を囲碁教室に入れてしまったと話した。はな六は思わず前のめりになりかけたが、自重した。どこの教室? 棋力はどれくらい? などと質問したくなる気持ちを抑えて、おれはもう囲碁界には関わらないと決めたんだ、と、心の中で繰り返し唱えた。
 雑誌に再び視線を落とす。ページをめくると、どこか広いリビングのような場所にジュンソがいた。ジュンソは白いソファーの一方の肘掛けに背を凭れさせ、長々と伸ばした脚を、もう片方の肘掛けに載せていた。逆光で表情はよく見えない。白い猫を抱いていた。猫は両脇を抱えられ、身体をジュンソの胸の上に長くてれんとのばしていた。
(蒸しパンだ。元気にしてたんだ)
 はな六は頬をゆるめた。蒸しパンは、昔ジュンソがどこからか拾ってきた仔猫だった。家政婦に飼うのを反対されるのをおそれて、ジュンソは“はな六こども囲碁教室”に仔猫を連れて来てしまったのだ。白くて、ふかふかでまるっこいので“蒸しパン”とジュンソは名付けたのだが、ただでさえいじめられっ子のジュンソは「白い猫が何で蒸しパンなんだよ! 蒸しパンは普通、黄色だぞ」と教室の他の子供達から囃し立てられ、泣いていた。
『もー、蒸しパンの色が白か黄色かなんてどうでもいいだろ! ジュンソを泣かすのはやめろ!』
 はな六は両手を振り上げて子供達を追い払った。
 そんな頃もあった。手のかかる気弱な弟分だったジュンソも、今ではすっかり有名人。はな六には手の届かない、遥か雲の上の人になってしまった。
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