聖女と騎士のはなし

笑川雷蔵

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とある騎士見習いたちのはなし・2

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 いったい俺、何をやってるんだろう。

 ふだん寝起きしている部屋とはまるで趣を異にする、洗練された調度が並ぶ一室の真ん中で。椅子に座り、はるばる東方から取り寄せたという白磁の茶器を前に悩むヴァルターに、ささやかなお礼でございますよと菓子を饗しながらトマスが笑う。
「甘いものは、苦手でございましたかな」
「いえ、大好物です」
 料理長のとっておきをめぐって、レオと喧嘩をしたほどで。
 そう言いかけて、ヴァルターは慌てて口を閉ざす。だからあんな奴のことは知らないっていうのにと、またもや浮かんできた修練場でのできごとを懸命に頭から追い出すことにした。
「ささ、どうぞ召し上がってくださいませ」
 すすめられるままに、かわいらしい小さな菓子をひとつ取り口に放り込む。ふわりとした甘みがいっぱいに広がったかと思うと、ほろほろととろけてゆく不思議な食感に、ダウフトさまやレネが喜びそうだなと表情をなごませるヴァルターへ、お気に召したようでと老いた召使いは微笑む。
「デュフレーヌの<淡雪の妖精>でございます。ディジョンにも似たような菓子はございますが、あちらはいささか洗練さに欠けておりますゆえ」
 ディジョンのものだって、十分うまいと思うけどなあ。
 心でそっと呟きつつ、ヴァルターは老人が優雅に差し出した茶器を手に取る。心地よい柑橘の香りがたちのぼる茶もまた、はるかな外つ国からもたらされたものだ。
 そういえば、あいつはこういうのが当たり前なんだよな。
 もとは高貴な客人のためにしつらえられた部屋は、レオがはじめて砦に滞在したときから彼の私室となったのだが、
「騎士見習いとなられてからは、めったにここへお戻りになることはございません」
 祖父母や三人の叔母たちへ宛てた手紙をしたためる時か、二、三刻のあいだ昼寝をする時ぐらいだという。
「とは申せ、近頃は昼寝の時間をもっぱら読書にあてておられます」
 そのお姿が、亡きお父上にたいそう似てまいられましたと嬉しそうに語るトマスに、はあと間の抜けた返事をしながら、生真面目な少年は老人の傍らに積み上げられた何冊もの本を見やる。にわかには信じがたい、レオの意外な一面をどう受け入れたものか、ヴァルターにも分からなかったからだ。
「それからいまひとつは、この老いぼれを心配させまいとお顔を見せに来てくださるのでございます」
 厳しい修練に明け暮れる若君に、七十の老身で付き従うことは難しい。そんなわけで、幼いあるじがいつ戻ってきてもよいように留守を預かり、心地よくくつろぐことができるように手はずを整えることが、近頃のトマスの役割なのだという。
「騎士たる者の心得は、<アーケヴの狼>より篤い薫陶を賜っておりますれば、わたくしも安心して務めにはげむことができます」
 ……あれを薫陶といえるのかな。
 まがりなりにも侯家の跡取りを、修練場の砂地に容赦なく叩きのめすギルバートと、うるわしきご婦人がたへのふるまいをさらりと伝授しているらしいリシャール、坊主だのひよこだのとわがまま侯子を呼ばわっては、あちこち連れ歩く騎士たちの顔が浮かぶ。どう考えても、飛びついてくる仔狼を、おとなの狼たちが鼻先で転がして遊んでいるようにしか見えないのだけれども。
「正直申し上げまして、始めはなんととんでもない所に来てしまったことかと嘆いてばかりおりました」
「そ、そうだと思います」
 南の宮廷ともうたわれる、デュフレーヌ侯家の壮麗な館に仕えて久しい老人には、東の砦やふもとの町に満ちあふれる朴訥な空気はさぞなじまぬものであったに違いない。加えて、考えなしのレオが巻き起こす騒動に、心の蔵が縮み上がるような思いばかりをしていたことだろう。
「ですが、今は違います」
 意外な言葉に目を丸くするしたヴァルターに、老人は穏やかに問いかけてきた。
「お嫌ですかな」
「え」
「わがまま侯子が東の砦に居すわり続け、皆さまにご迷惑をかけていることは」
 あっさりと心の裡を見透かされ、ヴァルターは椅子から飛び上がらんばかりになった。
「その、ええと。俺は」
 どうごまかそうかと、はじめは考えた。
 けれどもそうしたところで、レオが幼いころから成長を見守ってきた老人には通用するまい。うわべだけの言葉を並べたてたことで、かえってトマスを悲しませるような気がしてならなかった。
「ヴァルターさま」
「正直いって、うんざりです」
 口をついて出た本音にも、驚きはなかった。たとえ目の前の老人を激怒させることになろうとも、自らの偽らざるおもいを知ってほしかったからだ。
「ギルバートさまの邪魔はするし、ダウフトさまにかまってほしくてわがままばかり並べたてるし。修練でも勝手に突っ走って、俺や仲間たちに全部とばっちりが回ってくるし。今日なんて」
 少年の口から語られる修練場でのできごとを、トマスは表情を険しくすることもなく、嘆きに満たすこともなく黙って聞いていた。ときどき、微笑ましいものをみるようなまなざしを向けてくることに、逆にヴァルターのほうが戸惑いを覚えたほどだ。
「金輪際、俺はレオと組むのはごめんです」
 副団長に三秒で沈められて騎士さまがたの笑いものになる前に、あいつを止めたほうがいいと思いますとはなしを切り、煙水晶の双眸を向けた少年に、
「ヴァルターさま」
 至極おだやかな声とともに、わがまま侯子の守り役は深々と頭を下げた。
「ありがたきしあわせにございます」
 いったい何がと、唖然とするヴァルターを待ち受けていたのはとんでもない言葉だった。
「どうかこれからも、若さまと仲良うしてくださいませ」


              ◆ ◆ ◆


「……なんで」
 続けようとした言葉が声にならない。
 俺の話を、ちゃんと聞いてくれましたかと問いかけようとしたヴァルターに、簡単なことでございますよと老いた召使いは答える。
「レオさまと同じ高みに立つことがかないますのは、ヴァルターさまのみにございます」
 修練場で、騎士見習いたちの大部屋で、<狼>たちのあとをついてゆくいくさ場で。何かにつけて先走ろうとするわがまま侯子をとどめ、耳に痛い言葉を放ち、痣やたんこぶをこしらえながらもともに並び立つ。
「レオさまに偽らざる本音でぶつかってくださることが、老いぼれにもよく伝わってきましたゆえ」
「そんなの当たり前です。俺はただ、あの向こう見ずに振り回されないようにしただけで」
 目上の者へのふるまいを、思わず忘れて答えたヴァルターに、
「当たり前のことが、若さまには当たり前ではありませなんだ」
 皺深い顔にふとかなしみをのぞかせて、老いた召使いはいらえを口にした。
「レオさまは、いずれ黄金のとねりこを継ぐ身にあらせられます」
 望みをつなぐはずだった侯子とその妃を喪った、デュフレーヌ侯に遺されたただひとつの宝。慟哭を押し隠し、幼い孫と父祖伝来の地を守るべく奮い立った老侯のおもいは、妃や三人の息女だけではなく、侯家に仕える家臣や領民たちにとっても同じものであったらしい。
「皆が望んでおるのです。しろがねに輝く鎖かたびらを纏うたレオさまが、こがねの拍車をつけ、緋色のマントを翻した凛々しき若武者となって立つお姿を」
 突拍子もないふるまいから、<とねりこ館のわがまま侯子>などと綽名を奉りながらも、魔族の影に怯える人々にとって、奔放に駆け回るレオの姿はあしたにつなぐ望みそのものであったのだ。
「されど一方で、若さまに近づき、己が栄達のためにおもねろうとする輩もまた」
 たっぷりと甘言を浴びせてやりさえすれば、世間知らずのわがまま侯子などしょせんは意のまま。
 そう踏んで、老侯や妃たちの隙を見て群がってくる有象無象とも、幼い侯子は対峙しなければならなかったのだという。
「そのような輩の前にあっては、涙をこぼしたくとも笑んでおらねばなりませぬ。たとえ笑んだとて、身の裡をめぐる怒りをあらわにしてはなりませぬ。
 王の裔、とねりこの一族たる者は、たやすく心を明かしてはならぬのです」
 トマスのことばに、愕然としたヴァルターが何か返そうと口を開きかけたとき、
「爺、いるのか」
 扉の向こうから聞こえてきた声に、老人と少年はそろって椅子から飛び上がった。

 まずいどうしよう今あいつと顔を合わせたくないっていうのにそうだ窓を越えて出て行けばいいやだめだここは二階でしかも下は石畳――

 おたおたするヴァルターを、先に落ち着きを取り戻した老人が手招きする。
「こちらへ」
 促されるままに、壁龕へきがんにかけられた大きなつづれ織の陰に潜りこんだ。絹地に海を象徴した乙女の図案が絹糸や金糸銀糸の刺繍で鮮やかに描き出されたそれは、かつて紺碧の海を臨む小さな伯領からとねりこの侯国へと嫁いできた姫君へ、先の侯子が贈ったものだとトマスから聞いた。
「若奥さまの喜ぶお顔が見たいと、若旦那さまが図案を描かれました。お館さまが絹地をそろえられ、奥方さまと姫さまがたが手ずから刺繍を。皆さまがそろってお作りになったこの品を、レオさまはそれはそれは大切にしておられましてな」
 そんなはなしを思い出しつつ、ヴァルターが綴れ織の陰でほっと息をつくとともに、いそいそと扉へ駆け寄ったトマスが閂を外した。
「これは何といたしましたことか、若さま」
 扉がきしみながら開く音に混じって、たいそう驚くトマスの声がした。何があったのか気になったものの、綴れ織の陰から頭をのぞかせては隠れた意味がなくなってしまう。
 ああもうと、じれったさを覚えたヴァルターの目にふと留まったのは、いま隠れている場所から左側、綴れ織の端にほんの少し開いた虫食いの跡だった。
 そろりそろりと、できるだけ綴れ織を揺らさぬように身をかがめ、そこから室の様子をのぞきこむ。
「いったい、どこでそのようなお怪我をなさったのでございますか」
 トマスの問いにつられて見てみれば、なんと室の入り口には、先刻のつかみ合いよりもめざましい格好をしたレオがたたずんでいるではないか!
 ぼさぼさに乱れた黄金の髪、服のボタンはどこかに飛んで、左袖にいたっては行き方知れず。くわえて左頬ときたら、したたかに殴られたらしくたいそうな腫れ上がりようときたものだ。
「すぐにお着替えと手当てを」
 驚く従者たちにてきぱきと指示を出すトマスに、俺そんなに派手な取っ組み合いはしていないぞとヴァルターは心でごちる。
「さ、こちらを。お館さまが送ってくださいました、アンダルシアの膏薬でございます」
 窓辺の長椅子に腰を下ろし、水で冷やした布を左頬の腫れにあてがうなり顔をしかめたレオに、トマスが膏薬の瓶を差し出す。「馬用」と記されたそれを見て、
「お祖父さまは、ほんとうにこの薬が好きだな」
 アネットと気が合いそうだとぼやいたレオに、
「若さま。村や町の若衆のごとき、血の気の多いおふるまいはどちらで」
 ごく静かに、デュフレーヌ家の老いた召使いは問いかけた。
「何のことだ」
 はぐらかそうとしたレオに、何がではございませぬとトマスは応じる。
「そのようなお顔の腫れ具合は、剣や槍の稽古ではできませぬ。ましてや、ヴァルターさまとつかみ合いをなさったからではございますまい」
 爺の目を欺くことはできませぬぞと表情を厳しくしたトマスに、さしものわがまま侯子もかなわぬと悟ったらしい。
「あいつらは、ヴァルターを嗤った」
 ぼそりと呟いたレオのことばに、綴れ織の陰に身を潜める少年は息を呑む。
 ほとんどが貴族や騎士の子弟たちからなる騎士見習いの中にあって、兵士の息子から取り立てられたヴァルターのような存在はまれだった。
 遠い昔のこと。いにしえの賢王は、勇敢な若者を出自の如何を問わず騎士となし、広大な王国の守りとなるよう望みを託したという。
 けれども、そうした若者たちの裔である貴族や騎士のほとんどが、時の流れとともに自らと等しきものだけを認め、他を排するようになったこともまた事実。現に、剣や槍の稽古でヴァルターに負けた年長の少年たちが、何かにつけていやみを言ったり、嫌がらせをしてくることなどめずらしくもなかった。
 わがまま侯子が言う「あいつら」とは、そうした連中のことだろう。けれどもそれが、レオが左頬を腫らすに至ったことと何の関係があるというのだろう。
「ヴァルターさまを嗤うとは、とんだ思い上がりどもでございますな」
 従者に湯の支度をするようにと言いつけたのち、生真面目な少年が語ったことと同じ、修練場でのてんまつをレオから聞いたトマスがうなずいた。
「ヴァルターが行ったあとで、そいつらが修練場の隅でこそこそと話をしていた」
 一団の真ん中で、生真面目な少年を名指しして嘲笑っていた貴族の子弟が、あまりにもゆかいそうだったものだから、
「鼠のたわごとなぞ、天駆ける隼に聞こえるか」
 狼の子が放った痛烈な皮肉に抉られて、かっとなった少年とその取り巻きたちが飛びかかってきたのだという。
「何という無茶を、多勢に無勢ではごさいませぬか」
 呆れるトマスに、安心しろとわがまま侯子は鋼玉の双眸を向ける。
「今ごろはあいつらも、どこかで同じように顎を冷やしているだろうさ」
 決してやられっぱなしではなかったことを主張しようと、わがまま侯子は得意げに顎をそらし――ふたたび左頬の痛みに顔をしかめる。
「では若さまは、ヴァルターさまの名誉のために戦われたのでございますか」
 ご立派になられてと目頭を熱くする爺やに、冗談じゃないとレオは苦い顔をする。
「リンゼイのおしゃべり鵞鳥をだしに、あいつらがニコルやイアンにまでちょっかいをかけないよう釘を刺しただけだ」
 釘を刺すのと相討ちとじゃ、ぜんぜん意味が違うだろ。
 今年の春、ふもとの町から騎士見習いとして上がった旅籠屋の息子と、仕立屋の甥っ子の名を挙げたレオに即座に突っ込みを入れたのは悲しき習慣か。まさか、ヴァルターが耳をそばだてているとはつゆほども知らず、レオは相変わらずのわがままぶりを発揮する。
「暴れたら喉が渇いたぞ、爺」
「ただいま茶の支度を。ベランジェールの伯母上から、それはそれはみごとなアスタナの茶葉が届いておりますれば」
「ダウフトがくれたハーブの茶があるだろう。そっちがいい」
 名もなき村娘の家で、母たちが代々受け継いできたとっておきを、にぎやかな主張のすえに手に入れた事実をちょっぴりのぞかせて、レオは長椅子に背を預けた。
「レオさまはすっかり、あの茶がお気に召したようですな」
 近々、ダウフトさまに茶葉を分けていただかねばなりますまいと呟いて、トマスが部屋の奥へと消えていく。丸いその背を見送っていた鋼玉の双眸が、ふいに壁の綴れ織に向けられた。
 耳のすぐ側で、自らの鼓動を聞いているような心地になったヴァルターが、綴れ織の陰で身をこわばらせていることなどわがまま侯子には知るよしもない。綴れ織に描かれた、紺碧に身をゆだねし乙女のやさしき微笑みへとしばしまなざしをさまよわせ、
「おしゃべり鵞鳥」
 腫れ上がった口元からこぼれたのは、いつになく頼りなげな声だった。
「おまえなら、一緒に来ると思っていたのに」

 勝手気ままな奴だとしか思っていなかった。そんなレオに振り回される、自分の苦労ばかりに目が向いていた。
 だが。
 回廊の石畳に落ちた何冊もの本が示していたように、やりたい放題に見えていたわがまま侯子が、陰で血のにじむような努力を重ねていたこと、一日も早く騎士として立ちたいと望みながら、思うにまかせぬ現実に歯噛みしているさまを、自分は一度でも顧みたことはあったのか――

「これは、若さま」
 呆れたようなトマスの声に、ヴァルターは我に返った。
「このような所でお休みになられては、風邪を引きますぞ」
 茶器を置き、何度か若君を揺り起こしたトマスだが、長椅子にもたれかかったレオの唇から規則正しい寝息がこぼれるのを耳にして、
「あちこちですぐに寝ついてしまわれるのは、お小さいころとすこしも変わりませぬな」
 やれやれと首を横に振り、もう一度、ほんとうにレオが眠っているのかを確かめると、老人はそっとヴァルターが身を隠している綴れ織の前までやって来た。
「さ、今のうちに」
 お静かにと促され、ヴァルターはそっと綴れ織の陰から身を表した。そろりそろりと足音をしのばせて扉へと向かう。途中、長椅子の前を横切ったのだが、埃まみれの金髪を風に遊ばせたまま眠りこんでいるレオは、一向に目を覚ます気配がない。
 デュフレーヌ家の従者たちによって、きしまぬように開かれた扉の隙間から廊下へと素早く飛び出した。ほっと安堵の息をついたヴァルターに、
「まことに、申し訳がございませぬ」
 とんだ茶会になってしまいましたなと頭を下げるトマスを、いいんですととどめて、
「お茶をごちそうさまでした。ええと、その」
 何と続けてよいやらわからなくなった少年に、老いた召使いはヴァルターさまと呼びかける。
「先ほどわたくしは、砦に来た頃は嘆いてばかりいたと申し上げましたな」
「はい」
「今は違います」
 先ほどと同じ言葉を口にして、老人は微笑んだ。
「とねりこ館にあったころよりも、レオさまは生き生きとおふるまいになられている。そうしてそれを、砦の皆さまが受け入れてくださっている。たとえ余人が嗤おうとも、わたくしはこの砦に来て、ほんとうによかったと心から思うております」
 どうか、ヴァルターさま。
 深々と頭を下げた老人の、言葉には表されぬねがいが伝わってきたのだが、
「……失礼します」
 きびすを返して、デュフレーヌ家の私室を後にした。すがるようなトマスのまなざしから逃れるように、足早に歩みを進め角を曲がる。こみあげてくるさまざまな思いを持てあますあまりに、周りのことがおろそかになっていたらしい。
「ヴァルター」
 ふたつめの角を曲がるなり、真正面からぶつかったのは何と己があるじだった。
「も、申し訳ありません」
 すぐに戻りますからと慌ただしく告げた少年の、煙水晶の双眸が大きく見開かれる。
「ギルバートさま、それ」
 あるじが手にしているのは、ちぎれた左袖。レオが身につけていた上着と同じあざやかな緋色だ。
「忘れ物だ」
 これでは繕うのも大変だろうと、妙なところで呆れているあるじに、ふとこらえていたものがほどけた。
「あいつは莫迦ばかです」
 ふりしぼるように発せられたヴァルターのことばに、騎士の双眸が向けられた。その場に居合わせなかった少年が、どうやって騒ぎを知ったのかとやや驚いているようにも見えた。
「俺はもううんざりだって言ったのに。つきあわされるのはごめんだって言ったのに」

 ついてきて欲しかったら、なんで最初からそう言わないんだよ。
 見習いいちのちびのくせに、なんで年長のやつらに喧嘩を売ってるんだよ。
 なんで俺のことで、あいつが殴られる必要があるんだよ。

「掛け値なしの、ほんものの、莫迦だ」
 石畳に落ちた雫に気づき、慌てて袖で顔をぬぐったヴァルターに返ってきたのは静かな声だった。
「騎士キルッフの名を、聞いたことはあるだろう」
 偉大なるアルトリウスの、唯一無二の友にして腹心の名だ。予言されたまことの王に取って代わられることを怖れた暴君の子供狩りを逃れ、はしために身をやつした母とともに小さな村に隠れ住んだ幼い王が出会った、最初の騎士。
「アルトリウスは予言の王、キルッフは牛飼いの息子。それでもふたりの友誼は、生涯変わることなく続いたそうだ」
「――」
 面を上げたヴァルターの、鳶色の頭にぽんと置かれたのはあるじの手だった。
 砦のちびたちと一緒にしないでくださいと抗議の声を上げる間もなく、黒髪の騎士はヴァルターの傍らを離れ、デュフレーヌ家の私室へと向かっていく。その背を見送ったまま、しばし廊下に立ちつくしていた少年は、もういちど袖で頬をぬぐう。
「……俺は」
 煙水晶の双眸に浮かぶものは、確固たる決意にも似たひかりだ。


              ◆ ◆ ◆


「準備よし」
 鎖かたびらの具合を確かめて、武骨な革手袋をつけ、練習用の剣を佩き。
「いざ出陣」
 そっと呟いて、騎士見習いたちが寝起きする大部屋を後にした。
「ヴァルターさん、行ってらっしゃい」
「がんばってくださいね。俺たち、あとで観に行きますから」
 ヴァルターの姿をみとめ、年下の少年たちが目を輝かせて集まってくる。副団長じきじきの修練に加えられたというだけですっかり英雄扱いをしてくる彼らに、いやその日が暮れてからでいいからと笑ってごまかして。
 おう行くか、砦の鬼にきっちりしごかれてこいと、と顔なじみの兵士たちが口々に飛ばす軽口に、ひとごとだと思ってと朗らかに返すと、そのまま修練場へと足を向ける。
「来たか、坊や」
 修練場の端で休憩を取っていたリシャールが、相棒がお待ちかねだぞと砂地の端を指し示す。厳しい修練のほどを物語る、秀麗な姿をあちこち彩る埃やすり傷は、砦や町の婦人たちが見たらたいへんな騒ぎを巻き起こすに違いない。
「おう、新入りのお出ましだぞ」
「とねりこの坊主と、ふたりそろって砂まみれか」
 砦の<狼>たちから次々に放たれる、たいへん率直な野次にひきつった笑みを返しながら、ヴァルターは琥珀の騎士が指し示した砂地の端で、ぼろぼろになった挙げ句に大の字になってひっくり返っているレオのもとへと歩み寄った。愛する許婚を元気づけようと、懸命に頬をなめている白銀の狼姫に応じる気力も残ってはいないらしい。
「デュフレーヌの猪が、ざまないな」
 すっぱりと放たれたヴァルターの皮肉に、返ってきたのはうるさいという声。
「リンゼイの腰抜け鵞鳥が、何しにきた」
 きのう腫らした左頬の痛みに顔をしかめながら、鋼玉の双眸で見上げてくるレオに、散々だったらしいなとヴァルターは返す。
「副団長に真っ向からぶつかって、あっという間に砂地とご対面。ざっと数えて三秒くらいか」
「五秒だッ」
 憤然と身を起こしたレオに、さあどうだかと肩をすくめつつ、ヴァルターは煙水晶の双眸を離れたところにたたずむ己があるじへと向けた。刹那向けられ、すぐに修練場の真ん中へと戻された漆黒の双眸は、心なしか笑んでいるようにも見えたのだけれども。
「次」
 卒倒した新入りの騎士が、仲間に担がれてゆくさまを見送っていた砦の鬼が、ヴァルターの姿に凄味のある笑みを浮かべた。まずい膏薬の準備をしておくんだったとすくみあがったヴァルターに、
「腰抜け鵞鳥じゃ、保って三秒か」
 仕返しとばかりに皮肉を投げつけてくるレオに、やかましいと応じて練習用の剣を手に取る。
「十秒だ」
「ふん、なら十秒保つかどうか数えてやる」
「大きなお世話だ」
 突っ込むばかりが能じゃないってことをよく見ておけよと返しながら、どこか晴れやかな笑みを浮かべている相棒に、自然と笑みを返すヴァルターだった。

 さて、しばらく後のこと。
 魔物もまたいで通ると評判の施療室に、砦の鬼による容赦のない洗礼を食らった哀れなふたりの少年がそろって担ぎ込まれるはめになったのだが。
 この軟膏はよく効くんだぞ知らないのか、それは馬用だろうおまえと一緒にするなと、こりずに口喧嘩をはじめて長老たちを唖然とさせた少年たちが、あんたたちいい加減にしなさいよと、鼻息の荒い金髪娘にそろって沈黙させられる悲劇が持ちあがったことは、あまり知られていない。

 いにしえの王とともに歩んだ騎士のごとく、芽吹きはじめた絆がいつの日か友誼の実を結ぶのか。
 いかなる時にも、黄金のとねりこを戴く若き当主の傍らに、物静かなひとりの騎士の姿が在るようになるのか。

 それはまだ、はるかに遠い先のことであるようだ。

(Fin)
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