聖女と騎士のはなし

笑川雷蔵

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聖女と騎士と竜にまつわるてんまつ・5

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 緑の梢を、風がさやさやと揺らす昼下がりのこと。

「やっと寝つきましたね」
 詰所の椅子に腰かけて、自分の膝に大きな頭を乗せてすやすやと寝息をたてている仔竜をそっと撫でてやりながら、ダウフトはやわらかな唇に笑みを浮かべる。
「よく遊んで、たくさんご飯も食べて。エフィルはどんどん大きくなっていきます」
 砦にやってきた頃には、何ともたよりなかった両翼も、今では辺りに風を巻き起こすことができるまでになっている。もう少し力がつけば、あとは大空へ飛び出すこともできるだろうと、三人の長老と弟子たちが太鼓判を押すほどだ。
「火加減も覚えましたし、友達もいっぱいできて」
 今やすっかり、大きなちびすけに夢中になっている砦の子供たちは、おとなたちの手伝いの合間をぬっては仔竜のもとへ遊びにやってくる。
 騎士とお姫さまごっこをしよう、でもエフィルがいつも悪い竜の役になっちゃうでしょ、じゃあかくれんぼか竜騎兵ごっこがいいと、姿かたちの異なる友達を囲んでそれはにぎやかにはしゃいでいる。
「ええと、俺としてはアネットがお姫さまをやってくれたらいいんだけど」
 そんなもとガキ大将の提案は、将来は騎士と竜騎兵のどっちがいいかな、レオ兄ちゃんとギルバートさまにそうだんしてみようかなと新たな悩みを抱え始めた当人に、すげなく却下されてしまうのが常だったけれど。
「いたずらをしたり、怒られたり。ほんとうにハリーやアネットたちと変わりませんね」
「俺に体当たりをするのは、何度言ってもやめないがな」
 憮然とした声にダウフトが面を上げてみれば、窓辺にしつらえられた壁龕へきがんにギルバートが腰かけている。手にしているのは本ではなく、穴の開いたマントに針と糸だ。
 度重なる仔竜の突撃に耐えかねて、先日とうとうお役御免となったマントの代わりが、ようやく今日できあがったばかりだというのに。
 新しいマントを肩にかけて詰所を出たギルバートを、中庭で子供たちと一緒に奥方手製のおやつを食べていたエフィルが見つけたのが運のつき。おとうさん遊んでと、生垣を蹴倒さんばかりの勢いで突進してきた仔竜にのしかかられ、またもや端に穴を開けるというていたらくだ。
「騎士たるもの、つねに不測の事態に備えておくものだと奥方は笑っておられたが」
 ふつう、生垣から竜は飛び出してこないぞと呟きながら、黒髪の騎士は針を動かしてゆく。
「まだ赤ちゃんですもの、おとうさんに甘えたくて仕方ないんだと思います」
「だれが父親だ」
 くすくすと笑うダウフトを、ギルバートはじろりと睨む。今や砦じゅうに、ちび竜の親父どのという呼び名が広まっている事実がかなりこたえているらしい。
「いっそのこと、本当に親父になったらどうだ?」
 お春坊にぜひ弟か妹をだなとからかったどこぞのお調子者が、飛んできた篭手に顔面を直撃され、椅子ごと後ろにひっくり返ったというはなしが、歩哨に当たった兵士たちの間でひそかに囁かれている。

「こっちは体当たりをされるたびに、昔の思い出がよみがえってくるというのに」
「まあ、どんな?」
 思わぬ言葉に、ダウフトは目を輝かせる。お世辞にも饒舌とは言いがたい黒髪の騎士が、自分のことを話すなどめったになかったからだ。
「羊に蹴倒された」
 聞かせてくださいとせがんだ娘に返ってきたのは、どこかふてくされたような表情とことばだった。
「囲いに潜りこんで仔羊を撫でていたら、離れた所にいたはずの親がいきなり」
 齢四つにして、むくむくの羊に人生最初の敗北を喫したエクセター家の次男坊は、下手をすればそのまま踏みつぶされかねないところだったのだが。
「騒ぎに気づいた兄上が、慌てて囲いにやってきて俺を引きずり出した」
 泥だらけになって泣きわめく弟を抱え、どうしてうちの者はみな同じ目に遭うのでしょうねと嘆息した兄へ、
「そなたは三つ、マティルダも五つ、かくいうわたしも四つの時だったな」
 いったいなんの因果やら。
 叔父たちに叔母たち、従兄弟たちに従姉妹たち、果ては祖母や曾祖父まで。先祖代々必ず羊に蹴倒されるエクセター家の者たちは、故郷では羊の毛刈り大会に加えないようにと決められているのだという。羊に厳しさを教え込まれるのは、わが一族のならわしかなと父は鷹揚に笑っていたのだというが。
「エフィルの体当たりは、そのときを思い出す」
 真顔でぼやく男があまりにもおかしくて、ダウフトは懸命に笑いをこらえながら口を開く。
「だからギルバートは、羊料理のときにたくさん食べるんですね」
 ローストに、それから煮込みにと例えを上げてみせる娘に、それではまるで意趣返しだろうがと騎士は反駁する。
「単に、エクセターでは羊料理が多いだけの話だ」
「羊飼いのパイとか?」
 いたずらっぽく問いかけた村娘に、しばし言葉に窮して。リシャールかと低く問うてきたギルバートをさあとはぐらかし、また今度作りますねとダウフトは明るく答える。
「もちろん、エフィルにも」
 おいしいものの話をしていると察したのか、眠ったまま口をもぐもぐと動かす仔竜へとやさしく微笑みかける。
「羊料理が好きなところは、誰かさんにそっくりですから」
「偶然だ」
「ご飯のとき、背筋をぴんと伸ばして真剣な顔で食べているところもそっくりです」
「ひとと竜を比べるな」
「首をかしげるときとか、伸びをするときの仕草とか」
「人を疑うことをまるで知らんうえに、のんびりとした所も誰かにそっくりだ」
「まあ、わたしそんなにのんびりしていません」
 頬を膨らませるダウフトをよそに、繕いものを置き壁龕から立ち上がると、ギルバートは村娘とエフィルのそばまで歩み寄った。蒼穹を翔けてゆく夢でも見ているのか、心地よさそうな声を上げて翼を小さく動かした仔竜の背へそっと手を置く。
「竜の特性か、それともこやつに限ったことなのかは分からんが。俺はむしろ、おぬしの大らかさを受け継いでくれるほうがいいと思う」
「ギルバート」
 淡々と話すさまは相変わらずだけれど。聞きようによっては、こちらがかなり照れるようなことを口にしていると分かっているのだろうか。
 そう思いかけて、ダウフトは小さな溜息とともに首を横に振った。自分のことにかけてはとんと疎い男だ、おそらくそんな自覚など欠片ほども持ち合わせてはいないだろう。
「アスタナの守護竜とまでは言わん」
 一言ずつ、慎重にことばを選ぶかのようにギルバートは続ける。
「竜騎兵のように、終生変わらぬ絆で結ばれる者をエフィルが見つけてくれたらそれでいい。<影なき都>フェルガナを一夜で灰燼に帰した、嘆きの竜と同じ轍を踏まないように」
 規則正しく上下する、翡翠の鱗に覆われた背を見つめる騎士のまなざしに影が落ちた。
「こやつが一人前になるまで、そばにいることはできないからな」

 百年、二百年、三百年。もしかすると千年、二千年。
 ゆるやかな大河のごとく流れゆく竜の時間の傍らで、瞬きにもならぬ短い時を人は生き急ぎ、やがて土に還ってゆく。
 それが<母>が定めたもうた理、回り続ける輪から紡がれたさだめの糸。この世にある誰ひとりとして、そこから逃れることはかなわないのだ。
 いとおしんだ者も、心底憎んだ者も、変わらぬ友情を誓いあったものも――みなすべて、自分を置いて去ってゆく。
 やんちゃでいたずら好き、誰に似たのか泣き虫の甘えん坊が、竜であるがゆえのかなしみをこれから幾度も噛みしめねばならないことを、ギルバートは案じているのだろうか。
 立場は違えども、彼もまたあとに残された者だったのだから。

「大丈夫です」
 膝に仔竜の頭を乗せたまま微笑むダウフトに、騎士が顔に疑問の色を浮かべる。
「ダウフト?」
「ギルバートの言うとおり、わたしたちはずっとエフィルについてはあげられませんけれど」
 日に日に力強くなってゆく翼は、やがて仔竜が蒼穹へ身をゆだね軽やかに舞い躍る日が近いあかし。それはとりもなおさず、ギルバートがはじめに子供たちを諭そうとしたように、砦のものたちすべてとの別れがやってくることを意味するのだ。
「でもエフィルなら大丈夫です。辛くても悲しくても、立ち止まってしまっても、ちゃんとまた自分で進んでいけます」
 何かを言おうと口を開きかけたギルバートを、まっすぐに見つめて、
「力ふるうことの意味を、自ら立つ強さを剣とともに。エイリイの心根は、エフィルにも受け継がれていますから」
 穏やかでやさしい陽光に満ちていたオードにはない、毅然とした北の気風。
 凍える風のただなかで、やがて訪れる美しき春を胸に思い描き。剣を手に彼方へと清冽なまなざしを向けていたであろう戦乙女、エクセターの母たちの<おもい>が。
「でも竜ですから、きっと足よりも翼ですね」
 笑ってみせたダウフトを、騎士は漆黒の双眸で黙ったまま見つめていたのだが。
「あ、あの」
 赤みがかった栗色の髪にそっと触れた手に、ダウフトが戸惑ったとき、
「曇りなき目で見つめ、感じたままに受け入れる。おぬしの強さだな」
 俺にはとうていできぬわざだと呟いて、ギルバートは静かに村娘とエフィルから離れた。もといた壁龕へと腰を下ろすと、ふたたび繕いものを始める。
 その様子に、どうやらギルバートがこれ以上話をする気がないらしいこと、柄にもなくしゃべりすぎたなどと思っているらしいことを察して。
 少しおしゃべりになるくらいが、ギルバートにはちょうどいいのにと呟くと、ダウフトは眠るエフィルを見つめながらそっと微笑んだ。

 その日のことを思うと、たまらなく悲しくなってくるけれど。
 ならばそれまで、ギルバートや砦の皆といっしょに、エフィルに色々なことを教えようとダウフトは心に決める。
 たとえ、竜にとっては刹那であったとしても。嬉しいことも楽しいことも、辛いことも悲しいことも、大きくなったエフィルが誰かに話して聞かせてあげられるような、たくさんの思い出を作っていこうと願う。

 だって、目に浮かぶようではないか?

 いつの日か、どこかの旅の空の下で。
 休息の合間に、子供のころのはなしだがと東の砦で過ごした日々を語りだし。
 へえ、岩山から生まれたようなおまえにも小さいころってあったんだと、友達に目を丸くされふてくされたものの。冗談だよそんなに怒るなってと差し出された羊飼いのパイにかぶりつく翡翠の竜なんて。
 それに、もしかすると。
 もさもさとパイを食しながら、ふむなかなかと真顔で評する竜の姿ときたら、どこかの誰かさんにさぞやそっくりに違いないだろうから。

 梢を風がさやと揺らす、そんなある日のささやかなはなし。
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